看護学生の紫崎くん

入学式から2週間。更衣室には、移動式のハンガーラックがいくつも運び込まれ、そこには真新しい試着用のユニフォームがサイズごとにずらりと並んでいた。
「うわ、すげー……。テンション上がるわー」
奏人がラックをガサガサと漁りながら、楽しそうに声を上げる。
「奏人、それL? 意外と肩、パツパツじゃない?」
「マジで? 大貴、ちょっと後ろ見て。……あ、本当だ。動くと背中が突っ張るな。もう一個上にするか」
黒髪を揺らしてはしゃぐ奏人と、それに付き合う大貴。 その横で、森田さんは落ち着いた手つきで一着を手に取り、慣れた様子で袖を通していた。
「……さすが森田さん。もう現役の看護師に見えるっすね」
雅哉が、ラックに寄りかかりながら少し感心したように呟く。自分はといえば、一番端にあるラックから適当に一着を抜き取り、面倒くさそうにボタンを外し始めた。陽向は、男子たちの輪から少し離れたところで、どのサイズを手に取ればいいか迷って立ち尽くしていた。 (……一番小さいので、いいのかな。目立たないように、これでいいか……)
「陽向、これ着てみなよ」
不意に、瑠がラックからSサイズとMサイズの一着ずつを抜き取って、陽向の前に立った。
「……あ、ありがとう、紫崎くん」
「瑠、でいいって。……ほら、一回着てみて。サイズ合ってないと、実習で動きにくいからさ」
瑠に促されるまま、陽向はパーカーを脱ぎ、まずはMサイズの白衣に腕を通した。けれど、細身の陽向には少し肩が落ちてしまい不恰好に見える。
「……ちょっと、大きいかな」
「陽向、それめっちゃ似合う! なんか、淡い水色が陽向の肌の白さを引き立ててるっていうか……清潔感ハンパねーな!」
「……っ、そんなことないよ」
赤くなる陽向を見て、瑠が
「いや、マジで似合ってる。でも、こっちの方がスッキリ見えるかもな」
と、真剣な顔をしてSサイズを差し出した。
次はSサイズを試着する。今度は陽向の身体のラインに程よく沿い、凛とした空気が際立った。
「……お」
瑠が、至近距離で陽向の襟元を整えながら、小さく声を漏らした。 襟元から覗く、陽向の白い首筋。
「……陽向、これだよ。これが一番似合ってる。……かっこいいよ」
至近距離で、瑠の低くて心地いい声が鼓膜を震わせた。襟元を整えていた瑠の指先が、ほんの少しだけ陽向の鎖骨に触れる。
(……っ!)
その瞬間、瑠の真っ直ぐな瞳に見つめられ、陽向の心臓がうるさいほど跳ねて、陽向の背中にドッと冷や汗のような熱が走った。高校時代、周りにゲイだとバレないように女の子と付き合ったこともある。アプリやSNSを使って、割り切った関係の男と裏で遊んだことだってある。だから、男の体温にも、男から向けられる特有の視線の意味も、本当は誰よりも知っているつもりだった。なのに、この紫崎瑠という男の距離の詰め方は、そのどれにも当てはまらない。下心が全くない、100%純粋な善意と好意。 それが、陽向にとっては一番タチが悪かった。
(……やめてよ。そんな無防備に踏み込んでこないで。……ノンケのくせに、そんな目で人を見んの、反則だろ……そんな目で見られたら、……勘違い、しちゃうじゃん)
心の中で叫んでいるのに、喉の奥が熱くて声が出ない。
キュン、なんて可愛い音じゃない。 もっと激しくて、痛いくらいの鼓動。
恋愛対象が男だと自覚しているからこそ、これ以上踏み込まれたら自分がどうにかなってしまう。陽向は、瑠の視線から逃げるように慌てて俯いた。けれど、水色の生地を握りしめた指先は、自分の意思に反して小刻みに震えていた。
「……あ、りがとう。……紫崎くんも、似合ってる、よ」
これまでの経験で培った「無難な笑顔」の仮面を必死に張り付けて、声を絞り出すのが精一杯だった。
「だから瑠、でいいって。……な、陽向」
名前を呼ばれた瞬間、また心臓が跳ねる。また、境界線を軽々と踏み越えて名前を呼んでくる。瑠の纏う空気が、あまりに真っ直ぐで、熱い。これまでに遊んできた男たちの誰とも違う、圧倒的な「陽」の引力に、自分の器用な立ち回りがちっとも通用しないことに焦りを覚えた、その時。
「よし! 全員サイズ決まったな! 納品されたら、これ着て実習室に並ぶんだぜ。楽しみすぎる!」
鼓膜を突き破るような奏人の明るい声が、更衣室の空気を一気に震わせた。 瑠に向けられていた陽向の意識が、強引に現実へと引き戻される。
「おっ、陽向、まだ顔赤いぞ? 慣れない格好してのぼせたか?」
奏人がガハハと笑いながら、陽向の背中をバシッと叩いて回る。その手の平の衝撃で、陽向は「わっ、……違うよ、暑いだけ」と、慌てて俯いた。 いつもならパーカーの袖を弄るところだが、今はまだ、淡い水色のユニフォームを着たまま。陽向は行き場をなくした両手で、ユニフォームの裾をギュッと握りしめた。
さっきまでの心臓の痛いほどの高鳴りが、奏人のノリの良さと、大貴の「奏人、叩きすぎだって」という苦笑い、そして森田さんの「風邪引かないように早めに着替えろよ」という穏やかな声にかき消されていく。
(……びっくりした。……心臓、止まるかと思った)
奏人のおかげで、なんとか「いつもの自分」の仮面を被り直すことができたけれど、ユニフォームの裾を握りしめた指先は、まだ瑠の熱を覚えていて、ちっとも言うことを聞いてくれなかった。
「よっしゃ、次は道具だな! 聴診器、どれにするか決めた?」
奏人が、興奮しながら、隣の部屋へ勢いよく向かった。そこには、聴診器や血圧計、ナースウォッチの見本がずらりと並んでいる。
陽向も、急いでユニフォームを脱いでいつものパーカーを羽織ると、みんなのあとに続いて隣の部屋へ向かった。
「陽向、聴診器、何色にする? 俺はやっぱりこのネイビーかな。水色のユニフォームに合いそうだし」
瑠が、ずっしりとした重みのある聴診器を手に取って陽向に見せる。陽向は、その冷たい銀色のチェストピースを指先でなぞった。家で見かける、父の書斎にあるあの冷徹な道具と同じ形。けれど、瑠の大きな手から渡されると、それは「人を救うための道具」という、もっと温かいものに見えてくる。
「……あ、僕は、買わなくて大丈夫なんだ。これ、おじいちゃんが入学祝いで、もう買ってくれたから」
陽向がケースを開けると、中から現れたのは、落ち着いた黒のチューブに、光る虹色のチェストピースが美しいリットマンの最高級モデルだった。
「えっ、マジ? ……うわ、すげー! これ、リットマンじゃん。しかも高いやつ?……」
家族が医療従事者とだけ伝えてはいるが医者家系だとは知らない瑠にとっては、それはただの「凄い贈り物」かもしれない。けれど、陽向にとっては、これを持つことで「お前もこっち側の人間だ」と刻印されたような、誇らしくも苦しい「お守り」だった。
「……うん。だから、ステートはこれを使うよ」
「そっか……いいな、それ。」
瑠が屈託なく笑う。その隣で、奏人は「俺は絶対この赤! 脈動を感じるぜ!」とはしゃぎ、大貴に「だとしたら、心音聞く時に邪魔だよ」と冷静に突っ込まれていた。
「……これ、どうやって使うんだ?」
雅哉が、血圧計を手に取って眉をひそめた。手のひらに収まるメーターと、そこから伸びるゴム球。デジタル画面もなければ、自動で膨らむ気配もない。
「大貴、それ、自分でシュシュッて空気入れて、聴診器で音聴きながら測るんだよ。」
奏人が横から覗き込み、大貴は「……自動じゃないんだ?」と呟きながらも、どこか興味深そうにゴム球を握って空気を送ってみている。
大貴の反応に雅哉は「……面倒くせえな」と呟いた。
「……雅哉くん、それは『音を聴く』だけじゃないんだぞ」
不意に、隣で自分のステートを丁寧に片付けていた森田さんが口を開いた。
「え?」
「現場じゃ、デジタルの血圧計がエラーになることもあるんだ。不整脈があったり、極端に血圧が低かったり……。そんな時、最後に頼れるのは自分の耳と、メーターの針の動きだけなんだよ。これを使えるようになることが、看護師としての『目』を持つってことなんだ」
森田さんの静かな、けれど重みのある言葉に、奏人も雅哉も思わず動きを止めて聞き入った。
「……なるほど。……森田さん、意外といいこと言うな。さすがー!」
奏人が茶化し、部屋にはまた笑い声が響く。
陽向は、隣でカタログを広げている瑠の横顔を見た。
「陽向、ナースウォッチ。これ、結構カラバリあるんだな」
「せっかくだし、お揃いでこれにしないか? ……陽向、何色がいい?」
瑠の真っ直ぐな提案に、陽向は一瞬、息を止めた。
「……お揃い?」
(……やめてよ。そういう、特別みたいなこと言うの。勘違いして欲しくないなら、思わせぶりなことすんな……)
心の中で悪態をついて防衛線を張るけれど、拒絶する言葉は出てこなかった。陽向は、震える指先で時計に触れた。秒針が、チクタクと一定のリズムで時を刻んでいる。
「……僕は、この黒がいい。一番、落ち着くから」
「黒か。……いいね。引き締まって見えるし、かっこいいよ」
瑠が、迷いのない陽向の選択を肯定して笑う。 陽向は、私服でも持ち物でも、自分を隠してくれるような黒を好んで選んできた。けれど、瑠に「かっこいい」と言われると、その黒が、まるで別の意味を持つ色に塗り替えられていくような錯覚を覚える。
「しざ……瑠くんは、何色にするの?」
少しでも「友達」としての距離を保とうと、でもここで頑なに拒むのも不自然だと判断し、陽向は頑張って慣れない呼び方を口にした。慣れない呼び方に喉が震えたけれど、瑠はそれを茶化すことなく、嬉しそうに目を細めた。
「俺? 俺はやっぱり、これかな」
瑠が迷わず指差したのは、深いネイビーだった。
「ステートもネイビーにしたし、統一感あった方が気合入るだろ? ……よし、俺はネイビー。陽向は黒。……な、お揃いだろ?」
色は違う。けれど、同じモデルで、同じ時を刻む時計。 瑠が「お揃い」という言葉を、男同士のただの友情として当たり前のように使うたび、陽向がこれまで必死に築いてきた「防衛壁」の境界線が、足元からじわじわと、柔らかな熱で溶かされていく。
(……あーあ。本当に、調子狂う)
「よし決まり! 俺と大貴は、こっちの派手な赤と青でお揃いな!」
空気を読まない奏人の大声が、2人の間の絶妙な距離感をガシャガシャと踏み荒らした。振り返ると、奏人がこれ見よがしに派手なナースウォッチを2つ掲げている。
「……奏人、勝手に俺の分までお揃いにしないでよ。目立ちすぎだって」 「いいじゃん、これで全員お揃いの時計持った仲間ってことだろ!」
大貴の呆れた声と、奏人のガハハという笑い声。 それを見て、陽向は小さく息を吐いた。
(なんだ……。僕たちだけじゃなくて、アイツらもやってんじゃん)
瑠が言った「お揃い」は、特別な意味なんて1ミリもない、ただの「みんなで同じモデル買おうぜ」という男子のノリに過ぎなかったのだ。 胸の奥に、チクリとした小さな落胆が走る。 でもそれと同時に、これ以上踏み込まれずに済んだという、ひどく冷めた安心感が陽向を包んだ。これでいい。男同士の、ただの友達。それが一番安全で、この学校で生き残るための「正解」の距離だ。
奏人と大貴の笑い声が重なり、森田さんが「大切に使えよ。3年間、ずっと一緒なんだからな」と優しく締めくくる。
くだらないノリにガッカリして、ホッとして。不安はまだ消えないけれど、重いだけだった将来が、ほんの少しだけ鮮やかに見えた気がした。