看護学生の紫崎くん

次の日。
オリエンテーション、昨日までの雨が嘘のように晴れ渡っているけれど、教室の空気はどんよりと重い。​A組の教室では、担任の教員が
「じゃあ、みんなで大きな円になって座って!」
と号令をかけていた。女子37名に対し、男子はたったの3名。女子たちが作る巨大な輪の中に、男子が点々と、まるで孤島のように座らされている。陽向は、自分の名簿番号の場所……瑠から一番遠い場所に座らされた。向かい側には、昨日よりもさらに整って見える瑠が、どこか手持ち無沙汰そうに座っている。
​「一人ずつ、名前と目指した理由、あと趣味を話してね」
​自己紹介が始まった。
「親が看護師で……」「手に職をつけたくて……」
女子たちの無難な回答が続く中、ついに瑠の番が回ってきた。
​「紫崎 瑠です。理由は、下に弟と妹がいて、彼らが生まれる瞬間を間近で経験してきたからです。命が誕生する尊さを肌で感じて、自分もその瞬間に携わりたいと思いました。今の日本では男性は助産師になれませんが、いつか海外でその資格を取るのが夢です。将来は小児科の看護師か助産師になりたいと思っています。趣味はバイクと、ダーツで、料理も少しします。よろしくお願いします」
言い終えた瞬間、それまで静かだった教室が、ダムが決壊したような騒ぎになった。女子たちからは黄色い歓声と共に
​「え、すごすぎる……!」
「志高くない!? カッコイイんだけど!」
「あの、彼女とかいるんですかー!?」
「料理できるとか最高なんだけど!」
​容赦ない質問が飛んでいた。
瑠は「あはは、彼女はいないけど……今は勉強で精一杯かな」なんて、困ったように、でも爽やかに笑って受け流している。
迷いのない、真っ直ぐな言葉。
ただ「人の役に立ちたい」という抽象的な願いではなく、明確なビジョンと、制度の壁すら超えようとする高い志。女子たちの空気が、深い感嘆へと変わるのが分かった。
(……は? 助産師? ……海外?)
陽向は、耳の奥が熱くなるのを感じた。自分が「逃げ場所」として選んだこの場所に、これほどまでに純粋で、強固な意志を持って座っている奴がいるなんて。
瑠が眩しそうに笑って席に着いたあとも、出席番号順に自己紹介は淡々と続いていく。 女子たちが「〇〇です、タイBLが好きです」「実家が近所なので通いやすくて……」なんて笑顔で話している声が、今の陽向の耳には、まるで水の中にいるみたいにこもって、ちっとも頭に入ってこなかった。
(助産師って……男はなれないんじゃなかったっけ。なのに、海外に行ってまで? なんでそんなに真っ直ぐ前を見られるんだよ……)
瑠の言葉が、頭の中で何度も何度もリフレインする。 それと同時に、もうすぐやってくる自分の番への焦りが、じわじわと胸を締め付け始めた。(僕は……なんて言えばいい? 『医者の家に生まれて、期待に応えられなくて、逃げてきました』って言うのか? ……言えるわけない。適当に、無難に、目立たないように。でも、あんなの見せられた後に、何を言っても嘘っぽく聞こえるんじゃないか……)
考えれば考えるほど、指先が冷たくなっていく。膝の上でぎゅっと握りしめたパーカーの裾が、じっとりと汗ばんでいくのが分かった。周りの席からパラパラと湧き起こる拍手すら、自分を急かすカウントダウンのように聞こえて息が苦しい。
——続いて、24番。
不意に、少し低めの、どこか気だるそうな声が教室の空気を揺らした。 ハッとして顔を上げると、慣れた様子で口を開いた男が立っていた。棚橋 雅哉(たなはし まさや)だった。

​「棚橋雅哉っす。21歳です。大学を辞めて、まぁ、なんとなくこっちかなと思って来ました。理由は……食いっぱぐれないかなって。趣味は動画編集とか。よろしくっす。」「棚橋雅哉っす。21歳です。大学を辞めて、まぁ、なんとなくこっちかなと思って来ました。理由は……まぁ、身近に医療職の人がいて、その人の仕事見てたら悪くないかなって。あ、趣味は動画編集とか。よろしくっす」
淡々と、でもどこか私生活を匂わせるような「身近な医療職の人」というワード。大学中退という少しワケありな経歴と、21歳という絶妙な年上感、そしてそのアンニュイなビジュアルに、教室内が再びざわついた。
「え、棚橋くんかっこよくない?」「中退とかエモいんだけど」
女子たちの間でコソコソと声が上がる中、一人の女子が「はーい! 棚橋くんって彼女いるんですかー? 好きなタイプは!?」と、瑠の時と同じように半分茶化すような声を上げた。
途端に「キャー!」と小さな歓声が上がる。 雅哉は誰とも目を合わせないまま、少しだけ面倒くさそうに、でもどこか余裕のある笑みを浮かべて首を振った。
「いや、彼女はいないっす。……タイプは、そうですね。自分より背が低くて、……なんか、無駄に頭がいい人がいいですかね。年上がいいです」
「無駄に頭がいい人?」「年上なんだ!」
女子たちが「何それー!」と笑いながら色めき立つ。

(……あぁいうのが、ここでの『正解』の立ち回りなんだろうな)
​陽向は冷めた目で、自分の膝の上を見つめた。
そして、ついに最後、40番の陽向の番になった。視線が、一斉に自分に突き刺さる。
​「……っ、春宮、陽向です」
​名前を呼ぶ声が、自分でも驚くほど小さく震えた。
今日は少しオーバーサイズの白いパーカー。陽向は、何十人もの視線に晒されるストレスに耐えかねて、パーカーの長い袖口を指先で必死にモジモジと弄っていた。
​「看護師を目指したのは……その、家族が医療従事者で。身近な仕事だったのもあって、僕も、この世界に入ろうかなと思いました。」
(……家族が医療従事者だから、目指した? …嘘だ。)
心の中で、自分のついた嘘に自嘲気味な笑いが漏れる。 そんな綺麗なものじゃない。

​実際は医者の家に生まれながら、優秀な兄弟たちの背中を追うこともできず、医学部はおろか、まともな大学にすら残れなかった。 家族から「じゃあ、せめて資格だけでも取れ」と、半ば見捨てられるようにして敷かれたレール。それがこの看護学校だった。医者家系の落ちこぼれとして放り込まれただけだが、緊張のあまり言葉が途切れ途切れになる。必死に「正解」のセリフを思い出そうとして、陽向の顔はこわばり、口角は不自然に引きつっていた。
(あんなに眩しい奴や、余裕のある奴の中で……僕なんか、やっていけるわけないのに)
​けれど、それが女子たちの目には「緊張で顔を赤らめながら一生懸命に話す、健気な美少年」として映ってしまった。
​「趣味は、ええと……映画、鑑賞です。休みの日とかに……一人で、お菓子食べながら観るのが、好きで……。あ、お勧めとか、あったら……」
​消え入りそうな声で言い終え、居心地が悪そうに視線を泳がせる。
その「狙っていない」はずの、余裕のない必死な佇まいが、教室の女子たちの保護欲をこれ以上ないほど刺激した。
​「え、めっちゃ可愛いんだけど……」
「がんばれーって言いたくなっちゃうよね」
「さっきの紫崎くんが『太陽』なら、この子は『小動物』系?」
​(……え? なんで笑ってんの? 僕、変なこと言った……?)
​陽向は、内心で冷や汗を流していた。バカにされているのかと思ったが、周囲の空気はやけに柔らかい。自分の必死な演技(というかパニック)が、どういうわけか「可愛いキャラ」として着地してしまったことに、陽向だけが気づいていなかった。
​けれど、円の向こう側で、瑠だけがさっきまでの感嘆したような表情を消していた。瑠は、陽向が必死に弄っている「パーカーの袖口」と、その引きつった笑顔をじっと見つめている。
​(……なに。その目)
​憐れみでも、面白がっているわけでもない。
まるで、陽向が必死に張り巡らせた「嘘」と、その裏にある「本当の震え」を、まるごと掴み取ろうとするような、ひどく静かで深い眼差し。
​陽向は心臓が嫌な音を立てるのを感じて、逃げるように視線を落とした。
「……はい、これで全員ね。じゃあ、次の時間まで休憩!」
担任が教室を出た瞬間、堰を切ったように同世代の女子たちが動き出した。 その大半が向かったのは、もちろん「注目の的」たちだ。
「紫崎くん! さっきの話、もっと聞かせて!」
「春宮くん! お勧めの映画って何? 私、恋愛系なら詳しいよ!」
陽向は、一気に距離を詰めてきた女子たちの勢いに圧倒され、思わず椅子を引いて後ずさった。
「あ、ええと……その……」
引きつった笑顔を張り付けたまま、パーカーの袖口をぎゅっと握りしめる。 頭の中は真っ白だ。さっきの「映画鑑賞」だって、ただ当たり障りがないから言っただけ。具体的なタイトルなんて、一つも出てこない。
(……助けて。誰でもいいから、ここから出して……!)
心の中で悲鳴を上げたその時、背後から低くて気だるげな声が響いた。
「……あー、悪い。紫崎と…春宮だっけ?Bクラの奴らが呼んでるって。昼飯一緒に食おうってさ」
棚橋が、スマホを見ながら椅子から立ち上がりながらぶっきらぼうに告げる。女子たちは一瞬動きを止めたが、すぐに不満げな声を上げた。
「えーっ! 棚橋さん、今いいところなのに!」
「そうだよ、まだお勧め聞いてないもん。Bクラスの人たち、何なの?」
疑うような視線が棚橋に向けられる。けれど、棚橋はそんな女子たちの抗議を意に介す様子もなく、スマホの画面をチラつかせた。
「場所取りしたから早く来いってさ。」
嘘か本当か判別のつかない、冷めたトーン。年上特有の、どこか踏み込ませない空気感に、女子たちは
「ちぇー、しょうがないなぁ……」
としぶしぶ道を開けた。
棚橋は陽向の顔をまともに見ることもなく、ただ顎でクイッと出口を指して歩き出す。一方、女子たちの質問攻めを
「悪いな、また今度ゆっくり!」
と爽やかにいなした瑠が、棚橋の後を追うように動き出した。その途中、陽向の横でふと足を止める。
「春宮。……行こうぜ」
「あ、……うん。……ごめん、行ってくる」
陽向は逃げるように立ち上がると、女子たちに小さく会釈をして二人の背中を追った。
(……助かった……)
心の中で、陽向は深く、深く安堵の溜息をついた。