4月5日。
明け方まで降り続いていた雨は、朝を迎える頃にはようやく止んでいた。灰色の雲の隙間から、気安く差し始めた春の陽光。それが、濡れたアスファルトを鈍く光らせている。湿り気を帯びた独特の空気が、真新しいスーツの襟元から入り込み、肌にピタついて不快だ。
(……最悪。なんで今日に限って、こんな天気なんだよ)
春宮 陽向(はるみや ひなた)は、履き慣れない革靴で水たまりを避けながら、校門をくぐった。
周囲を見渡せば、同じように少し窮屈そうなスーツに身を包んだ新入生たちが、期待と不安の入り混じった顔で掲示板を見上げている。自分が纏っているのは、祖父が用意してくれた、オーダーメイドのスーツ。身体のラインに完璧にフィットし、周囲の既製品のスーツとは明らかに一線を画していた。けれど、それが自分を守る「鎧」というより、自分を縛り付ける「鎖」のように感じられて、息苦しい。医者家系の落ちこぼれとして、家族から見放されるようにこの道へ進んだ自分にとって、この場所は「居場所」というより、ただの「逃げ場所」に過ぎなかった。
「……はぁ」
手にした案内図を見つめながら、小さく溜息をつく。自分がどこへ向かうべきなのか、それすらもよく分からない。まるで、霧の中に一人取り残されたような心地だった。
(……どうせ俺なんて、ここでも上手くやれるわけないのに)
自嘲気味に俯いた、その時。
「……大丈夫か?」
頭上から降ってきたのは、驚くほど低くて、温かい声だった。ハッとして顔を上げると、そこには一人の青年が立っていた。自分より一回り大きな体躯。整った顔立ちはクールで落ち着いて見えるけれど、その瞳はひどく真っ直ぐに自分を見つめている。地面に残った雨の匂いと、彼から微かに香る清々しい石鹸の匂い。
(……うわ。何この人、めっちゃイケメンだ……)
自分にはない健康的な色気と、真っ直ぐな空気感。彼は、困ったように眉を下げて笑った。正直、かなりタイプだ。けれど、こういう「陽」のオーラが眩しいタイプは、自分みたいな「陰」の人間とは一番相性が悪いことも、これまでの経験で知っている。
「……もしかして、君も1年生?」
返事に詰まっていると、彼はさらに距離を詰めるようにして微笑んだ。
「……なんか、緊張するよな。ここ、男子少なすぎて浮いてる気がするし、男子6人だけらしいよ。」
そう言って笑う彼からは、嫌味なところが一つも感じられなかった。少し曲がったネクタイも、整いすぎた顔立ちを親しみやすく見せている。
「……あ、うん。……1年、だけど」
オーダーメイドのスーツの袖口を無意識に掴みながら、ようやくそれだけを絞り出した。
「やっぱり! 俺は紫崎 瑠(しざき るい)。よろしくな」
彼が差し出してきた大きな手。指の節がしっかりしていて、自分よりもずっと逞しいその手を見つめ、陽向は一瞬躊躇した。けれど、拒絶する理由も見つからず、おずおずと右手を伸ばす。
「……春宮…陽向です。よろしく」
恐る恐る触れた瑠の手は、春の冷え込みが残る空気の中で驚くほど熱かった。その熱が、指先からじわじわと「鎖」を溶かしていくようで、陽向は慌てて手を離した。
「春宮、か。綺麗な名前だな」
瑠が屈託なく笑ったその時、校舎の入り口から、少し高圧的だけどどこか世話焼きな女性教員の声が響いた。
「そこ! 何やってるの、もうすぐ始まるわよー! まだ外にいる人は、早く体育館に入って!」
教員の鋭い視線がこちらを向き、瑠は「あ、やべっ」と短く声を漏らす。
「行こうぜ、春宮。遅刻して目立つのは勘弁だしな」
「……っ、あ、うん」
陽向は小さく頷いて、瑠の後に続いた。やっぱり、こういうバタバタしたノリは苦手だ。そもそも、見ず知らずの他人に「春宮」なんて気安く呼ばれること自体、これまでの人生ではあまりなかった。
(……帰りた。なんで俺、ここに来ちゃったんだろ)
うつむきながら歩き出す陽向の少し前を、瑠が大きな歩幅で進んでいく。彼の背中を追うようにして、まだ少し濡れた地面を蹴り、二人は新入生たちが詰め込まれた体育館へと滑り込んだ。
「自分の名簿番号の席に座ってくださいね」
教員の指示に従って、陽向は自分の席を探した。A組の40番。それは、クラスの最後列、一番右端の席だった。
「紫崎くんは、あっちか……」
2列目の最後尾に、瑠が座るのが見えた。瑠は座る際、一度だけ後ろを振り返り、列の最後にいた陽向と目が合うと、小さく口角を上げて片手を挙げた。陽向は戸惑いながらも、軽く会釈を返す。
式が始まると、陽向の視界には嫌でも瑠の背中が入ってきた。真ん中の列を挟んでいるけれど、瑠の広い背中と、少しだけ跳ねた後頭部の髪がはっきりと見える。
(……やっぱり、目立つな)
周りの女子たちが時折、2列目の瑠の方をチラチラと盗み見ているのがわかる。一方の自分はどうだ。一番後ろの隅っこで、誰とも目が合うことはない。まるで自分だけがこの空間から切り離された透明人間になったかのような、深い孤独が足元から這い上がってくる。けれど、自分だけは、瑠を見ている。女子たちが「かっこいい男子がいる」と浮き立つのとは違う。もっと必死で、もっと切実な、暗闇から光を仰ぎ見るような眼差しで、陽向は瑠の背中を追い続けていた。
『――新入生代表、宣誓。Bクラス、雪村 美凪』
壇上に上がったのは、背筋が凛と伸びた、黒髪の美しい少女だった。 透き通るような肌と、一切の迷いを感じさせない涼やかな声。
「……綺麗な人だな」
陽向はぼんやりと、その完璧な「正解」のような姿を見つめた。
(……紫崎くんは、ああいう人と付き合うんだろうな。あんな風に、真っ直ぐな理想を持った人同士なら、きっと釣り合うんだろうし……)
ふと見れば、二列前に座る瑠が少しだけ首を傾け、壇上の雪村を眩しそうに見つめていた。自分に向けられたあの笑顔とは違う、真剣な顔横顔が、陽向には「共鳴」しているように見えてしまう。 自分のような逃げ腰の「陰」ではなく、あんな風に光を放つ者同士。きっといつか、惹かれ合って、結ばれるのが正しい物語なんだろう。そう勝手に完結させた予感に、まだ名前も付いていない感情が、重く胸を塞いだ。
(……かっこいい、なんて。俺、どうかしてる)
陽向は膝の上で拳を握った。自分はただの「逃げ場所」としてここに来ただけだ。あんな風に真っ直ぐな瞳を持つ人間と、これ以上関わってはいけない。けれど、式の間中、陽向の視線は磁石に吸い寄せられるように、瑠の背中を追い続けていた。
明け方まで降り続いていた雨は、朝を迎える頃にはようやく止んでいた。灰色の雲の隙間から、気安く差し始めた春の陽光。それが、濡れたアスファルトを鈍く光らせている。湿り気を帯びた独特の空気が、真新しいスーツの襟元から入り込み、肌にピタついて不快だ。
(……最悪。なんで今日に限って、こんな天気なんだよ)
春宮 陽向(はるみや ひなた)は、履き慣れない革靴で水たまりを避けながら、校門をくぐった。
周囲を見渡せば、同じように少し窮屈そうなスーツに身を包んだ新入生たちが、期待と不安の入り混じった顔で掲示板を見上げている。自分が纏っているのは、祖父が用意してくれた、オーダーメイドのスーツ。身体のラインに完璧にフィットし、周囲の既製品のスーツとは明らかに一線を画していた。けれど、それが自分を守る「鎧」というより、自分を縛り付ける「鎖」のように感じられて、息苦しい。医者家系の落ちこぼれとして、家族から見放されるようにこの道へ進んだ自分にとって、この場所は「居場所」というより、ただの「逃げ場所」に過ぎなかった。
「……はぁ」
手にした案内図を見つめながら、小さく溜息をつく。自分がどこへ向かうべきなのか、それすらもよく分からない。まるで、霧の中に一人取り残されたような心地だった。
(……どうせ俺なんて、ここでも上手くやれるわけないのに)
自嘲気味に俯いた、その時。
「……大丈夫か?」
頭上から降ってきたのは、驚くほど低くて、温かい声だった。ハッとして顔を上げると、そこには一人の青年が立っていた。自分より一回り大きな体躯。整った顔立ちはクールで落ち着いて見えるけれど、その瞳はひどく真っ直ぐに自分を見つめている。地面に残った雨の匂いと、彼から微かに香る清々しい石鹸の匂い。
(……うわ。何この人、めっちゃイケメンだ……)
自分にはない健康的な色気と、真っ直ぐな空気感。彼は、困ったように眉を下げて笑った。正直、かなりタイプだ。けれど、こういう「陽」のオーラが眩しいタイプは、自分みたいな「陰」の人間とは一番相性が悪いことも、これまでの経験で知っている。
「……もしかして、君も1年生?」
返事に詰まっていると、彼はさらに距離を詰めるようにして微笑んだ。
「……なんか、緊張するよな。ここ、男子少なすぎて浮いてる気がするし、男子6人だけらしいよ。」
そう言って笑う彼からは、嫌味なところが一つも感じられなかった。少し曲がったネクタイも、整いすぎた顔立ちを親しみやすく見せている。
「……あ、うん。……1年、だけど」
オーダーメイドのスーツの袖口を無意識に掴みながら、ようやくそれだけを絞り出した。
「やっぱり! 俺は紫崎 瑠(しざき るい)。よろしくな」
彼が差し出してきた大きな手。指の節がしっかりしていて、自分よりもずっと逞しいその手を見つめ、陽向は一瞬躊躇した。けれど、拒絶する理由も見つからず、おずおずと右手を伸ばす。
「……春宮…陽向です。よろしく」
恐る恐る触れた瑠の手は、春の冷え込みが残る空気の中で驚くほど熱かった。その熱が、指先からじわじわと「鎖」を溶かしていくようで、陽向は慌てて手を離した。
「春宮、か。綺麗な名前だな」
瑠が屈託なく笑ったその時、校舎の入り口から、少し高圧的だけどどこか世話焼きな女性教員の声が響いた。
「そこ! 何やってるの、もうすぐ始まるわよー! まだ外にいる人は、早く体育館に入って!」
教員の鋭い視線がこちらを向き、瑠は「あ、やべっ」と短く声を漏らす。
「行こうぜ、春宮。遅刻して目立つのは勘弁だしな」
「……っ、あ、うん」
陽向は小さく頷いて、瑠の後に続いた。やっぱり、こういうバタバタしたノリは苦手だ。そもそも、見ず知らずの他人に「春宮」なんて気安く呼ばれること自体、これまでの人生ではあまりなかった。
(……帰りた。なんで俺、ここに来ちゃったんだろ)
うつむきながら歩き出す陽向の少し前を、瑠が大きな歩幅で進んでいく。彼の背中を追うようにして、まだ少し濡れた地面を蹴り、二人は新入生たちが詰め込まれた体育館へと滑り込んだ。
「自分の名簿番号の席に座ってくださいね」
教員の指示に従って、陽向は自分の席を探した。A組の40番。それは、クラスの最後列、一番右端の席だった。
「紫崎くんは、あっちか……」
2列目の最後尾に、瑠が座るのが見えた。瑠は座る際、一度だけ後ろを振り返り、列の最後にいた陽向と目が合うと、小さく口角を上げて片手を挙げた。陽向は戸惑いながらも、軽く会釈を返す。
式が始まると、陽向の視界には嫌でも瑠の背中が入ってきた。真ん中の列を挟んでいるけれど、瑠の広い背中と、少しだけ跳ねた後頭部の髪がはっきりと見える。
(……やっぱり、目立つな)
周りの女子たちが時折、2列目の瑠の方をチラチラと盗み見ているのがわかる。一方の自分はどうだ。一番後ろの隅っこで、誰とも目が合うことはない。まるで自分だけがこの空間から切り離された透明人間になったかのような、深い孤独が足元から這い上がってくる。けれど、自分だけは、瑠を見ている。女子たちが「かっこいい男子がいる」と浮き立つのとは違う。もっと必死で、もっと切実な、暗闇から光を仰ぎ見るような眼差しで、陽向は瑠の背中を追い続けていた。
『――新入生代表、宣誓。Bクラス、雪村 美凪』
壇上に上がったのは、背筋が凛と伸びた、黒髪の美しい少女だった。 透き通るような肌と、一切の迷いを感じさせない涼やかな声。
「……綺麗な人だな」
陽向はぼんやりと、その完璧な「正解」のような姿を見つめた。
(……紫崎くんは、ああいう人と付き合うんだろうな。あんな風に、真っ直ぐな理想を持った人同士なら、きっと釣り合うんだろうし……)
ふと見れば、二列前に座る瑠が少しだけ首を傾け、壇上の雪村を眩しそうに見つめていた。自分に向けられたあの笑顔とは違う、真剣な顔横顔が、陽向には「共鳴」しているように見えてしまう。 自分のような逃げ腰の「陰」ではなく、あんな風に光を放つ者同士。きっといつか、惹かれ合って、結ばれるのが正しい物語なんだろう。そう勝手に完結させた予感に、まだ名前も付いていない感情が、重く胸を塞いだ。
(……かっこいい、なんて。俺、どうかしてる)
陽向は膝の上で拳を握った。自分はただの「逃げ場所」としてここに来ただけだ。あんな風に真っ直ぐな瞳を持つ人間と、これ以上関わってはいけない。けれど、式の間中、陽向の視線は磁石に吸い寄せられるように、瑠の背中を追い続けていた。
