ここ一番という日があるだろう。
例えば初めてのデートとか、プロポーズとか結婚式だとか。
この日のために綿密な計画を立てて、とっておきの日にしようと、どうか素晴らしい日になってくれと心から祈るような日が人生に何回かあるだろう。
この世に生まれて18年、まだそんな事態は俺の身の上に起こっていないので想像でしかないけど、まあとにかくめちゃめちゃ大事な日ってことだ。でも思い起こせば、そんな気合いが入ったときは必ず空まわりして上手く行かないというのが俺という人間で――。
***
「だから町田くんは、俺とは、付き合えない、って」
ぐずぐずと鼻を啜りながら、三角座りした宮がとぎれとぎれに言う。俺は校舎の外壁にもたれて空を仰いだ。
「まじかぁ……」
雲ひとつない真っ青な空に俺の呟き声は消えていく。
三月にしては暖かく穏やかな風が前髪を撫で、ちゅんちゅんという雀の鳴き声と優しい木漏れ日が木立から降ってくる。俺と宮にとてつもない悲劇が起きているというのに、世界はどうしてこんなにも呑気なのだろう。
――絶対うまくいくと思ったのに……。
なんで振られたんだ? どうして?
ぐるぐると疑問だけが頭を駆け回る。
混乱してさっきから碌な言葉を掛けられない俺を、宮が真っ赤になった目で見上げてきた。
「ごめんねアキ、クラスの打ち上げ、もうすぐ始まるのに」
「そんなんいいんだって。別に打ち上げなんてどうでもいいし、宮だってそんな顔じゃ出れないでしょ」
「うん……」
「もういいじゃん。このままさぼろうぜ」
「うん……。いつも付き合わせてごめん、ありがと」
宮はそれだけ言うと、また三角座りに顔をうずめて黙り込んだ。
高校卒業を控えた三月、町田に告白しようかどうしようかと悩んでいる宮に『絶対大丈夫だから告白しろ』と後押ししたのは俺だった。
確かに男が男に告白するなんて断崖絶壁から飛び降りるようなものだ。だけどこの一年間、宮と町田を誰よりも近くで見てきた俺には確信があった。絶対このふたり両想いだろ、と。
だから卒業式が終わった直後、町田を呼び出して告白するという計画を立てたのだ。町田と両想いになった宮は最高の気分で高校最後の日を過ごせるはずだったのに……まさかこんな最悪の結果が待っているとは微塵も思わなかった。
制服のポケットに入れていたスマホが振動したのはそのときだ。
顔を伏せている宮を横目に伺いながらスマホを見ると、思った通り祐介からだった。
『どこいってんだ』
『そろそろ行かないと打ち上げに遅れる』
『はやく教室戻ってこい』
続けざまにいくつもメッセージが送られてきた。
祐介は三年間同じクラスの腐れ縁で、一番気が合う親友だ。
宮が町田のことを好きなのも知っていて、二人がくっつくように裏で画策する俺を見守ったり駄目出ししたりする保護者的なポジションの男でもある。
今だって俺と宮がなかなか教室に戻ってこないので、心配してメッセージを送ってきたのだろう。ぱっと見はデカくて愛想なしの強面だが、顔に似合わず面倒見のいいやつなのだ。
宮が意気消沈している隣でスマホをいじるのも申し訳なく、とりあえずネコが泣いてるスタンプだけを送ると、祐介からの返事はすぐに来た。
『もしかして失敗?』
ううっと呻き声が出そうになった。
宮に告白をさせるという今日の計画には祐介も一枚噛んでいて、というか反対されていたのに押し切ったのは俺だったので、返信にちょっと躊躇ってしまう。少し考えて、もう一度ネコが泣いているスタンプを送った。
『まじで失敗? 宮と一緒にいんの? 町田も戻って来てねえぞ。どうなってんだよ』
どういうことだろう。宮が町田に告ったのは卒業式が終わった直後だ。とっくに町田はクラスに戻っていると思っていたのに。
もしかして町田も、どこかでさぼってる? でも……なんで?
居ても立っても居られなくなった俺は、そっと宮に声をかけた。「ちょっとごめん、俺トイレに……」と断ると、宮は顔を伏せたままこくんと頷く。
俺は静まり返った校舎の中に入り、急いで祐介に電話をかけた。
「あ、祐介? 町田が戻ってないってどういうこと? ずっといないってこと?」
『ああ、そうだよ。卒業式終わってからずっといねえ。教室に鞄も置いたまま」
「ってことはまだ学校にいる?」
『ああ。ってかお前たちどこいんの? そろそろ戻ってこねえと、打ち上げ始まんぞ』
「んー……。俺は打ち上げには行かねえよ。宮のこと放っておけねえもん」
スマホの向こうで、祐介がため息をつく音が聞こえた。
『じゃあ俺も行かない』
「なんでだよ。行けよ。尾本ちゃんが悲しむだろうが」
『尾本なんてどうでもいい。お前が行かないなら行かない』
なんだその理屈は? と若干呆れていると、祐介が声を落として聞いてきた。
『……なぁ、ほんとに宮は振られたのか?』
「ああ……。宮もはっきり言ってるし、間違いないだろ」
『信じられねえ』
「俺だって信じられねえよ……。絶対うまくいくって思ったのに」
ふと宮の泣き顔を思い出して声が詰まった。鼻の奥がつんと痛くなる。
「俺……、俺、宮に、悪いこと、しちゃったよな」
祐介は初めからこの作戦に反対していたのだ。『二人には二人のタイミングがあるんだから外野が口出ししないほうがいいに決まってる』というのが祐介の言い分で、『そんな悠長なこと言ってたら始まるもんも始まんねえよ!』と押し切ったのは俺だ。
「……違うだろ。お前が宮に何を言ったとしても、告白するって決めたのは宮だし、それを断ったのは町田だ。お前は悪くねぇ」
「祐介……」
『それにさっきも言ったけど、町田は宮のこと好きだと思うぞ』
「そう、だよな……?」
『おう。とりあえずお前は宮に付いてろ。俺は町田を探す。あんまり思い詰めんなよ』
早口でそう言い切った祐介は、ふいに『あっ』と声を上げた。
「えっ、何?」
『町田がいる』
「まじかっ! どこにいるの?」
『部室棟の方。なんか座り込んでる』
「近く行けっ! 近く!」
俺は急いで指示を出した。
祐介は『えー?』と嫌そうな声を出したが、結局は『ちょっと待ってろ』と言った後、なんと通話を切りやがった。
なんで切るんだよあの野郎……と若干イライラちながらスマホを握りしめること数分、祐介からの着信がきた。
「どうだった!?」
『なんかさ、町田、泣きながらずっと宮の写真見てる……。文化祭のときの写真とか……永遠スクロール』
「はぁッ!?」
ちょっと待て。どういうことだ。
『町田って本当に宮のこと振ったの? 振られたんじゃなくて?』
「んなわけねーだろ! 宮ははっきり町田に振られたって言ってた!」
訳がわからない。
「と、とにかく! 俺は宮の様子見てくるから、お前も町田のこと監視しろ!」
祐介との会話を打ち切り、俺は宮のところに戻った。もう一度事の経緯を確認しないといけないと思ったのだ。
宮はもう泣いてはいなかった。近づく俺にも気が付かないくらい真剣にスマホを見ている。
……町田の写真だ、とすぐにわかった。だって俺が文化祭のときに撮ってやった、ツーショットの写真なのだから。ときどきぐすっと鼻をならしながら、宮は一心に町田の写真を眺めている。
俺はくるりとUターンした。そしてスマホを取り出し祐介にもう一度電話をかける。
「あのさ、宮も町田の写真見てる……泣きながら……」
『えっ……』
「これさあ」
『おう』
「やっぱ両想いじゃね?」
『だよな?』
「それしかないだろ」
だって今この瞬間、宮も町田もお互いの写真を泣きながら見てるって、絶対そういうことだ。両想い以外ないだろ。
「でもなんで町田は宮を振ったんだ?」
『わかんないけど……意外ともう一回ちゃんと話したら解決したりして』
祐介のその言葉を聞いた瞬間、俺の頭には名案が閃いた。
「なあ、どっかに二人を閉じ込めたらいけんじゃね? 体育館倉庫とか、音楽準備室とかさ!」
『はあ?』
「それか俺が町田を煽るのはどう? 『お前が宮を振るなら、俺が貰っちゃうぞ』的なさあ。漫画とかでよくあんじゃん。そしたら町田だって焦って素直になるだろ?」
『……意味わかんねえんだけど』
「だ~か~ら! 俺は宮を連れてくるから、お前はとりあえず町田を連れてくればいいんだよ。そしたら後は、どうとでもなる!」
『そんなんでどうにかなるか……?』
疑いがありありと籠った祐介の言葉をスルーして、俺は考え込んだ。
「んーと、場所はどこにしよっかな? そうだ、屋上はどうだ? 俺、先輩から引き継いだ屋上の鍵まだ持ってんだよ! よし、そうしようぜ!」
『お前まったく話聞かねえな』
はあ、と大きなため息をついた祐介は『それで?』と仕方なさそうに言う。
『どうやってそこまで連れてくんだ? 宮はともかく、町田は警戒してぜってえ付いてこないぞ』
「スマホ奪えばとりあえず追いかけてくんじゃね?」
もう一度聞こえた深いため息は了承の返事と受け取って、俺は「んじゃよろしくな!」と通話を切った。
よし、と気合を入れて宮のところまで駆け戻った。
宮は相変わらずスマホの画面をぼんやりと見つめている。俺は宮の前に仁王立ちになり、持っていたスマホを強引に奪い取った。
「え……? アキ?」
いきなり俺にスマホを奪われて、宮は固まっている。俺は何も言わず踵をかえすと猛ダッシュをした。
「えっ⁉ ちょっと待ってよ! スマホ返して!」
後ろから宮の叫び声が聞こえたが待つわけがない。これから宮を屋上まで連れて行かなくちゃいけないのだ。
走りながら俺は屋上までの最短ルートを思い浮かべる。ここからなら一旦本校舎に入って、階段を上った方が早い。
校舎の中には、まだ卒業生の姿があった。廊下を走り抜ける俺を、目を丸くしたり半笑いで眺めている。ふざけて追いかけっこをしていると思われたのか、女子が「頑張れ~」と手を振ってくる。へらっと笑って手を振り返しながらその子の横を駆け抜け、そしてお目当ての階段が見えてきたとき。
「うげっ」
階段から下りてきたのは、俺が三年間頭髪検査でバトり続けた教頭だった。俺の姿を見るなり、教頭は目を吊り上げて口をかっぴらく。
「またお前かぁ葛城っ! 校舎の中を走るとはお前は小学生か!」
一喝され、俺は階段に向けてた足を慌てて違う方向に向けた。
「すんませーん!!」
「こらあ! 走るな!!」
怒鳴り声に身を縮めながら、教頭の前を駆け抜ける。
――あああああ! どうすんだよ! これからどうやって屋上行ったらいいんだ?
階段は通り過ぎてしまったし、ここから屋上に向かうのはかなり遠回りだ。
――そういえば祐介はどこにいるんだ?
本校舎の廊下を走りながら俺はポケットのスマホを取り出した。祐介の番号を呼び出し、耳にスマホを当てる。
「お前、いま、どこだよ⁉」
電話の向こうからはあはあと荒い息が聞こえてきた。
『いま、理科室の、前っ』
「はあッ? なんで特別校舎の方にいるんだよ! 本校舎の方に誘い込めよ!」
『そんなこと、言ったって、町田、元陸上部、だろ、足はえーんだよ』
「根性、みせろっ」
『無理、言うな』
はあはあにゼイゼイが混じり始めた。やばいぞ、コイツそろそろ限界かもしれない。
「作戦変更だ、俺がそっちに行くから、お前はなんとか一階まで下りて――」
「アキー! こんなときに悪ふざけは辞めてよっ! 本気で怒るよ!」
「えっ?」
背後から聞こえてきた宮の声がやけに近い気がして、俺はぎょっと振り返った。二十メートルは余裕で引き離したと思っていた宮が、ほんの五メートル後ろまで迫っているじゃないか。
きっと悲しみのパワーが怒りに変わっているのだ。いつもの1.5倍増しで俊足の宮は、見たことのない鬼のような顔をしている。
「ひっ、嘘だろっ」
『なんだ、どうした、こけたか』
「こけてねーよ! 宮がはええんだよ!」
『もっと、早く、走れ』
「お前こそもっと早く走れっ」
お互いにめちゃくちゃなことを言いながら、頭の中は完全なパニックだった。
このままじゃ俺も祐介も追いつかれる。
なんだよこれ、全然計画通りにいかねえじゃないか――と半泣きになったとき、耳元で祐介が言った。
「晶、お前んとこに、絶対行く。諦めんな」
「祐介……っ」
なんだよ、祐介のくせにかっこいいじゃねえか。
ふと心の片隅にわいた思考に戸惑いつつも、廊下の角を右に曲がる。
「中庭に出た!」
『おお、よくやった! 今行くからそこでそのまま待ってろ』
「え、どこ?」
『上だっ』
「上……?」と俺は特別校舎の方を振り仰いだ。
二階の窓から何かがすごいスピードで飛び出してきたのはそのときだった。頭の上をスローモーションのように大きな影がひらりと横切っていく。
「…………え?」
口をぽかんと開けた俺の頭上を制服姿の男が軽々と飛び越えていく。そしてズダン、という大きな音とともに目の前で華麗な着地を決めたのは、ほかでもない祐介だった。
――こいつ、二階から……飛び降りやがった?
信じられない事態に俺はへなへなと腰を抜かした。
「おいっ、祐介!! 大丈夫か!?」
慌てたような頭上から大声が降ってきた。町田の声だ。はっとして見上げると、二階の窓から身を乗り出した町田が、青い顔で祐介を見ている。「今そっち行くから待ってろ!」と町田が叫び、その姿が見えなくなる。
そこへちょうど宮が勢いよく中庭に走りこんできた。最初は怒り顔だった宮も、腰が抜けて座り込んでいる俺を見て驚いた顔になる。
「え? 何? アキってばどうしたの?」
「晶っ!」
祐介が俺の名前を叫んだ。
「町田今降りてくるぞ! 作戦、作戦!」
はっと我に返った。
そうだった、作戦の正念場だ。ぼさっとはしていられない。
俺は慌てて立ち上がり、「え? なんで祐介くんがここにいるの? ってか作戦って?」と戸惑っている宮の顔を覗き込んだ。
「ごめん、宮。ちょっとだけ我慢して」
「へ?」
きょとんとした宮の身体を俺はぎゅっと抱き込んだ。
「えっ、ちょ、何?」
慌てふためく一回り小さな身体を強く抱きしめる。髪の毛からふわりと甘いシャンプーの匂いがする。背中が、腰が、信じられないほどに細い。夢にまで見た宮の感触にどくん、どくん、と心臓が駆け始める。
――ああ、駄目だ……。
俺は目を強くつぶった。
駄目だ、これは演技だ。作戦だ。そう思っても込み上げてくる動揺はどうにも御しがたかった。なんとか深呼吸を一つで気持ちを静め、ゆっくりと目を開いた。
五メートルほど先には町田がいた。ショックを受けたような顔で目を見開き、抱き合う俺と宮を凝視している。
俺は正面から目を合わせ、町田を睨みつけながら口を開いた。
「なあ町田。お前は宮のこと振ったんだよな? だったら俺が宮のこと貰ってもいいか?」
途端に腕の中の宮が慌てたように大きく身を捩る。だが俺は意地でも宮の身体を離さなかった。「嫌だ、離して」と言う彼の抵抗と言葉を無視して町田を睨みつける。
「いいよな? 町田はこいつのこと好きじゃないんだろ? それなら俺が貰っても文句はねえよな?」
町田が顔をこわばらせながら口を開きかけ、でも結局何も言わずに引き結んだ。いくら待っても、固い顔のまま黙り込んだまま。
ここまでしても何も言わないのか? とじりじりと苛立ちと焦りがこみ上げてくる。
本当に本当に宮を貰っちまうんだぞ。いいのか? 良いわけねえよな?
目線で挑発しても、町田は何も言わなかった。ぐっと唇を噛みしめると静かに踵を返し、歩き出してしまう。
――え、嘘だろ?
「町田、おい待てよ――」
そのとき宮が俺の胸をどんと強く押した。ふいを衝かれ抱擁がゆるむ。
「――町田くん」
俺の腕の中にかろうじて納まりながら、宮は必死に後ろを振り返った。去っていく町田に引き寄せられるように。唇を震わせ、瞳を潤ませ、町田の名前を呼んだ。
すうっと自分の身体から力が抜けていくのが分かった。
完敗だと思った。
宮が町田に恋しているのを一番近くで見てきた。
何かあるたびに俺に『どうしよう』と縋りつき、冷たくされた喧嘩をしたと言っては泣き、不安そうにため息をつく彼を宥めてきたのは俺だ。宮はいつも俺と話をすると、安心したようにたちまち笑顔になった。だから俺はそれでいいと思った。
俺は彼を笑顔にすることだけは出来るのだと思ったから。俺という存在だって、宮の中では町田と同じくらいに大きいだろ、と自惚れていたから。
でもそれは思い上がりだった。
俺は宮にこんな必死な顔をさせられない。
宮はこんなに切ない顔をするほどに町田が……町田だけが好きなのだ。
わかっていたはずなのに胸が抉られたように痛い。息がつまり、それでも俺は慎重に胸に残ったすべての空気を吐きだしてから、宮の身体に回した腕を解いた。
「……あれ絶対脈ありだよ。俺のことめっちゃ睨んでたもん。早く追いかけなよ」
宮は驚いたように俺の顔を振り向き、だけど悲しそうに首を振って項垂れた。
「……もう……無理だよ。町田は俺のことなんてなんとも思ってない。これ以上惨めな思いをするのはいやだ……」
――『これ以上惨めな思いをするのはいやだ』
その言葉を聞いた瞬間、腹の底で抑えていたものが突然弾けた。
「何言ってんの……?」
声が震えた。身体も震えた。心の奥底から噴き出してきたのは、マグマのような熱と勢いを持った怒りだった。
宮が驚いたように「アキ?」と顔を上げる。
「ねえ、ほんとに何言ってんだよ? お前らふたりして、ほんとに何やってんの? ポンコツなの?」
抑えよう、抑えなくちゃいけないと思ったがもう駄目だった。口からは機関銃みたいにどんどん言葉が出てきて止まらない。
「だってお前ら、夏に男二人っきりで花火大会行ってたじゃないか。あんとき宮の浴衣着付けしたの俺と祐介だぞ!? それに文化祭だって二人で回ってたし後夜祭だって二人で消えたじゃねえか! あんとき宮と町田の当番変わってやったの誰だと思ってんだよ! 俺と祐介だぞ! バレンタインだってホワイトディだって、相談に乗ってやったの誰だよ! 俺と祐介だろ!?」
俺が……俺が……どんな思いで、今までやってきたと思ってんだ。どんな気持ちでお前の隣にいたと思ってんだよ。
「今繋がねえと、もう終わりなんだぞ。町田は東京行っちまうんだろ? 離れ離れじゃねえか! 今日で最後なんだろ!」
そうだ、最後だったんだ。地元に残る宮と、隣県の大学に通う予定の俺は、今日の卒業式がいっしょにいられる最後の日だったのに。宮と町田がちゃんとくっついたのを見届けて、宮への恋心に終止符を打とうとしていたのに。
「これで終わりにしてほんとにいいのか!?」
「お、俺は……」
宮の瞳に限界まで水滴が盛り上がり、スローモーションのように一筋だけ頬を流れた。
「……嫌だ……」
宮が両手で顔を覆い、呟いた。
「嫌だよ」
「……そうだろ?」
俺は宮の手を取り、顔を覗き込んだ。涙に潤んだ瞳がさざめくように光っている。吸い込まれそうだ。でもこれは自分のものじゃない。
「だったら町田を追わないと」
お願いだ、もう行ってくれ。いますぐこの手を引き離して、出来るだけ遠くに行ってくれ。
懇願を込めてじっと見つめると、宮は一瞬息を止めた。それからゆっくりと息をはき、頷く。
「……うん、そうだね」
俺は宮の身体を回転させ、その背中を押し出した。
「行け」
「――ありがと」
宮はまっすぐに駆け出した。
細い背中がどんどん遠くなっていく。
「あ――――。行っちまったか……」
思わず深いため息が漏れた。
完全な失恋。ずっと覚悟していたはずなのに、いざその場面になると堪えるものがある。力が抜けてへなへなと地面にしゃがみこんでしまった。しばらくは立ち上がれそうにない。
「お疲れさん」
後ろから声が掛けられた。振り返るとそこには祐介が立っている。
「お前まだいたのかよ」
「はあ? 何言ってんだよ。ずっとここに居ただろうが」
「……そうか。ずっといたのか」
オウム返しに呟くと、祐介ははあと大きなため息をつき、俺のそばにしゃがみこんだ。
「ずっとここにいたよ。ずっと見てたよ、お前が頑張っているところ」
祐介の手が伸びてきて、俺の頭をひらりと撫でた。大きな手のひらが頭のてっぺんに乗った瞬間になぜか目からじわりと涙が出てくる。
「なんか……ずりいな」
「なんでずるいんだよ」
俺は「うっせ」と口を尖らせながら目元をごしごし拭いた。
祐介のくせにイケメンぶりやがってこの野郎、と悪態をついたらだいぶ気持ちが落ちついてきた。ふうと大きく息をついて自分の右手を見つめる。そこには宮のスマホがある。
「……宮と町田、今ごろくっついたかな」
「ああ、くっついただろ」
「大丈夫かな」
「まだ心配?」
苦笑いを混ぜたその言葉に、俺は顔を上げた。
祐介は目を細めて俺を見ている。思わずどきりとした。コイツ、なんでこんな目で俺のことを見るのだろう。
「もう子離れしたほうがいいんじゃねえの?」
「う、うっせ」
「手間がかかる子供も独立したんだし、これからは自分のことを考えねえと」
「俺は子育て終えた主婦じゃねえよ」
「同じようなもんだろ?」
「……そうかもしれないけど」
はあ、とため息をついて俺は空を仰いだ。憎らしくなるほどの快晴だ。俺の心はこんなにも打ちひしがれているというのに、風は穏やかでやっぱり世界は平和だ。
このまま俺だけを取り残して、世界は進んで行くのだろうか。
俺がここでぼんやり雲を眺めて悪戯に青春を消費しているあいだにも、みんな誰かに恋をして、誰かと誰かが付き合い始めて、紆余曲折を経て同棲とか結婚とかするのだろうか。
俺だけ蚊帳の外だな。
そう思うとなんだかもう二度と立ち上がれないような気がした。これが孤独ってやつか……、なんてしみじみと考えていると、祐介が急に肩を抱いてきた。
「でさ、そんな晶くんに一つ提案があるんだけど」
「提案?」
楽しそうな祐介の様子に思わず眉根が寄った。俺は今黄昏てんだよ。邪魔すんじゃねえ、なんて思ったが。
「手始めに、俺と付き合ってみねえ?」
「…………はあ?」
言葉の意味がまったくわからず、俺は目を瞬いた。
「だからさあ、俺と付き合ってみようって言ってんの」
「お、お前頭大丈夫か? なんで俺とお前が付き合わなくちゃいけないんだよ」
「そんなの決まってんだろ。俺がお前を好きだからだよ」
「え」
言葉が出なかった。祐介が俺を好き? ぽかんとした俺の顔を見て、祐介がしてやったりという顔で笑った。
「お前全然気が付かねえのな。宮のことはさんざん鈍感だって言ってたけど、お前も相当だよな」
「なんで……いつから……」
「ん? 三年前から」
「三年前!? それって初めて会ったときからってこと!?」
「うん、ひとめぼれだったもん」
「ひと……め、ぼれ」
気が遠くなった。祐介が俺のことを好きだったというのも晴天の霹靂だったというのに、三年間も? こいつは俺のそばにいて、俺が宮に片思いしているのをずっと見ていたというわけか?
「お前はさ、いっつも人のことばっかりだろ。困ってる人がいたら誰よりも先に走っていく。好きな奴が出来てもそいつとの関係を壊さないように遠慮して、いざ宮に好きな奴が出来たら応援なんかしやがって。お前は他人のことばっかりで、全然自分のこと大事にしようとしないだろ。だから俺が大事にしたいって思った」
「へ……え……」
「お前のこと、俺に大事にさせてくれませんか?」
祐介は首を傾け、俺を上目遣いで見てきた。男の上目遣い何て気持ち悪いだけだと思っていたのに、心臓がにわかに騒ぎ出す。かあっと頬が熱くなっていく。俺はたっぷり一分以上固まってから、ようやく言葉を捻りだした。
「エ、あ、あの、お、オトモダチから、だったら」
「あはは! なんだよそれ! もうオトモダチになって三年経ってんだろうが!」
「えっ、あっ、そっか」
「まあなんでもいいや。俺はこれからもお前の隣にいるしな。気が向いたら彼氏にしてくれよ」
祐介が雑に話を締めくくって、ぱっと立ち上がった。
う~ん、と手を空に付きだして背伸びをする祐介の背景には、相変わらず雲ひとつない空。ちゅんちゅん囀る雀の鳴き声と、穏やかな春の気配を含んだ風。何も変わらない世界。その中で、急速に俺の中の変わっていくものがあった。
ついさっきまで、今日という日はすべてが終わる最後の日だと思っていた。だから何がなんでも最高の1日にしないと考えていた。
でもそうじゃない。今日という1日が終わっても、何も終わりはしないのだ。
気が付いたこと、気が付かなかったこと。きちんと受け取れたもの、取りこぼしてしまったもの。俺だけじゃなく宮にも町田にも祐介にもそういうものがたくさんあって、緩やかに繋がっていくこの先で、これから何回も答え合わせをしていくのかもしれない。
「ほら、いつまでしゃがんでんだよ。立てって。そろそろ行こうぜ。あいつらにスマホ返さねえと」
「……お、おう」
俺は少しずつ速く大きくなっていく自分の鼓動を聞きながら、祐介が伸ばしてきた手を掴んだ。
(おわり)
例えば初めてのデートとか、プロポーズとか結婚式だとか。
この日のために綿密な計画を立てて、とっておきの日にしようと、どうか素晴らしい日になってくれと心から祈るような日が人生に何回かあるだろう。
この世に生まれて18年、まだそんな事態は俺の身の上に起こっていないので想像でしかないけど、まあとにかくめちゃめちゃ大事な日ってことだ。でも思い起こせば、そんな気合いが入ったときは必ず空まわりして上手く行かないというのが俺という人間で――。
***
「だから町田くんは、俺とは、付き合えない、って」
ぐずぐずと鼻を啜りながら、三角座りした宮がとぎれとぎれに言う。俺は校舎の外壁にもたれて空を仰いだ。
「まじかぁ……」
雲ひとつない真っ青な空に俺の呟き声は消えていく。
三月にしては暖かく穏やかな風が前髪を撫で、ちゅんちゅんという雀の鳴き声と優しい木漏れ日が木立から降ってくる。俺と宮にとてつもない悲劇が起きているというのに、世界はどうしてこんなにも呑気なのだろう。
――絶対うまくいくと思ったのに……。
なんで振られたんだ? どうして?
ぐるぐると疑問だけが頭を駆け回る。
混乱してさっきから碌な言葉を掛けられない俺を、宮が真っ赤になった目で見上げてきた。
「ごめんねアキ、クラスの打ち上げ、もうすぐ始まるのに」
「そんなんいいんだって。別に打ち上げなんてどうでもいいし、宮だってそんな顔じゃ出れないでしょ」
「うん……」
「もういいじゃん。このままさぼろうぜ」
「うん……。いつも付き合わせてごめん、ありがと」
宮はそれだけ言うと、また三角座りに顔をうずめて黙り込んだ。
高校卒業を控えた三月、町田に告白しようかどうしようかと悩んでいる宮に『絶対大丈夫だから告白しろ』と後押ししたのは俺だった。
確かに男が男に告白するなんて断崖絶壁から飛び降りるようなものだ。だけどこの一年間、宮と町田を誰よりも近くで見てきた俺には確信があった。絶対このふたり両想いだろ、と。
だから卒業式が終わった直後、町田を呼び出して告白するという計画を立てたのだ。町田と両想いになった宮は最高の気分で高校最後の日を過ごせるはずだったのに……まさかこんな最悪の結果が待っているとは微塵も思わなかった。
制服のポケットに入れていたスマホが振動したのはそのときだ。
顔を伏せている宮を横目に伺いながらスマホを見ると、思った通り祐介からだった。
『どこいってんだ』
『そろそろ行かないと打ち上げに遅れる』
『はやく教室戻ってこい』
続けざまにいくつもメッセージが送られてきた。
祐介は三年間同じクラスの腐れ縁で、一番気が合う親友だ。
宮が町田のことを好きなのも知っていて、二人がくっつくように裏で画策する俺を見守ったり駄目出ししたりする保護者的なポジションの男でもある。
今だって俺と宮がなかなか教室に戻ってこないので、心配してメッセージを送ってきたのだろう。ぱっと見はデカくて愛想なしの強面だが、顔に似合わず面倒見のいいやつなのだ。
宮が意気消沈している隣でスマホをいじるのも申し訳なく、とりあえずネコが泣いてるスタンプだけを送ると、祐介からの返事はすぐに来た。
『もしかして失敗?』
ううっと呻き声が出そうになった。
宮に告白をさせるという今日の計画には祐介も一枚噛んでいて、というか反対されていたのに押し切ったのは俺だったので、返信にちょっと躊躇ってしまう。少し考えて、もう一度ネコが泣いているスタンプを送った。
『まじで失敗? 宮と一緒にいんの? 町田も戻って来てねえぞ。どうなってんだよ』
どういうことだろう。宮が町田に告ったのは卒業式が終わった直後だ。とっくに町田はクラスに戻っていると思っていたのに。
もしかして町田も、どこかでさぼってる? でも……なんで?
居ても立っても居られなくなった俺は、そっと宮に声をかけた。「ちょっとごめん、俺トイレに……」と断ると、宮は顔を伏せたままこくんと頷く。
俺は静まり返った校舎の中に入り、急いで祐介に電話をかけた。
「あ、祐介? 町田が戻ってないってどういうこと? ずっといないってこと?」
『ああ、そうだよ。卒業式終わってからずっといねえ。教室に鞄も置いたまま」
「ってことはまだ学校にいる?」
『ああ。ってかお前たちどこいんの? そろそろ戻ってこねえと、打ち上げ始まんぞ』
「んー……。俺は打ち上げには行かねえよ。宮のこと放っておけねえもん」
スマホの向こうで、祐介がため息をつく音が聞こえた。
『じゃあ俺も行かない』
「なんでだよ。行けよ。尾本ちゃんが悲しむだろうが」
『尾本なんてどうでもいい。お前が行かないなら行かない』
なんだその理屈は? と若干呆れていると、祐介が声を落として聞いてきた。
『……なぁ、ほんとに宮は振られたのか?』
「ああ……。宮もはっきり言ってるし、間違いないだろ」
『信じられねえ』
「俺だって信じられねえよ……。絶対うまくいくって思ったのに」
ふと宮の泣き顔を思い出して声が詰まった。鼻の奥がつんと痛くなる。
「俺……、俺、宮に、悪いこと、しちゃったよな」
祐介は初めからこの作戦に反対していたのだ。『二人には二人のタイミングがあるんだから外野が口出ししないほうがいいに決まってる』というのが祐介の言い分で、『そんな悠長なこと言ってたら始まるもんも始まんねえよ!』と押し切ったのは俺だ。
「……違うだろ。お前が宮に何を言ったとしても、告白するって決めたのは宮だし、それを断ったのは町田だ。お前は悪くねぇ」
「祐介……」
『それにさっきも言ったけど、町田は宮のこと好きだと思うぞ』
「そう、だよな……?」
『おう。とりあえずお前は宮に付いてろ。俺は町田を探す。あんまり思い詰めんなよ』
早口でそう言い切った祐介は、ふいに『あっ』と声を上げた。
「えっ、何?」
『町田がいる』
「まじかっ! どこにいるの?」
『部室棟の方。なんか座り込んでる』
「近く行けっ! 近く!」
俺は急いで指示を出した。
祐介は『えー?』と嫌そうな声を出したが、結局は『ちょっと待ってろ』と言った後、なんと通話を切りやがった。
なんで切るんだよあの野郎……と若干イライラちながらスマホを握りしめること数分、祐介からの着信がきた。
「どうだった!?」
『なんかさ、町田、泣きながらずっと宮の写真見てる……。文化祭のときの写真とか……永遠スクロール』
「はぁッ!?」
ちょっと待て。どういうことだ。
『町田って本当に宮のこと振ったの? 振られたんじゃなくて?』
「んなわけねーだろ! 宮ははっきり町田に振られたって言ってた!」
訳がわからない。
「と、とにかく! 俺は宮の様子見てくるから、お前も町田のこと監視しろ!」
祐介との会話を打ち切り、俺は宮のところに戻った。もう一度事の経緯を確認しないといけないと思ったのだ。
宮はもう泣いてはいなかった。近づく俺にも気が付かないくらい真剣にスマホを見ている。
……町田の写真だ、とすぐにわかった。だって俺が文化祭のときに撮ってやった、ツーショットの写真なのだから。ときどきぐすっと鼻をならしながら、宮は一心に町田の写真を眺めている。
俺はくるりとUターンした。そしてスマホを取り出し祐介にもう一度電話をかける。
「あのさ、宮も町田の写真見てる……泣きながら……」
『えっ……』
「これさあ」
『おう』
「やっぱ両想いじゃね?」
『だよな?』
「それしかないだろ」
だって今この瞬間、宮も町田もお互いの写真を泣きながら見てるって、絶対そういうことだ。両想い以外ないだろ。
「でもなんで町田は宮を振ったんだ?」
『わかんないけど……意外ともう一回ちゃんと話したら解決したりして』
祐介のその言葉を聞いた瞬間、俺の頭には名案が閃いた。
「なあ、どっかに二人を閉じ込めたらいけんじゃね? 体育館倉庫とか、音楽準備室とかさ!」
『はあ?』
「それか俺が町田を煽るのはどう? 『お前が宮を振るなら、俺が貰っちゃうぞ』的なさあ。漫画とかでよくあんじゃん。そしたら町田だって焦って素直になるだろ?」
『……意味わかんねえんだけど』
「だ~か~ら! 俺は宮を連れてくるから、お前はとりあえず町田を連れてくればいいんだよ。そしたら後は、どうとでもなる!」
『そんなんでどうにかなるか……?』
疑いがありありと籠った祐介の言葉をスルーして、俺は考え込んだ。
「んーと、場所はどこにしよっかな? そうだ、屋上はどうだ? 俺、先輩から引き継いだ屋上の鍵まだ持ってんだよ! よし、そうしようぜ!」
『お前まったく話聞かねえな』
はあ、と大きなため息をついた祐介は『それで?』と仕方なさそうに言う。
『どうやってそこまで連れてくんだ? 宮はともかく、町田は警戒してぜってえ付いてこないぞ』
「スマホ奪えばとりあえず追いかけてくんじゃね?」
もう一度聞こえた深いため息は了承の返事と受け取って、俺は「んじゃよろしくな!」と通話を切った。
よし、と気合を入れて宮のところまで駆け戻った。
宮は相変わらずスマホの画面をぼんやりと見つめている。俺は宮の前に仁王立ちになり、持っていたスマホを強引に奪い取った。
「え……? アキ?」
いきなり俺にスマホを奪われて、宮は固まっている。俺は何も言わず踵をかえすと猛ダッシュをした。
「えっ⁉ ちょっと待ってよ! スマホ返して!」
後ろから宮の叫び声が聞こえたが待つわけがない。これから宮を屋上まで連れて行かなくちゃいけないのだ。
走りながら俺は屋上までの最短ルートを思い浮かべる。ここからなら一旦本校舎に入って、階段を上った方が早い。
校舎の中には、まだ卒業生の姿があった。廊下を走り抜ける俺を、目を丸くしたり半笑いで眺めている。ふざけて追いかけっこをしていると思われたのか、女子が「頑張れ~」と手を振ってくる。へらっと笑って手を振り返しながらその子の横を駆け抜け、そしてお目当ての階段が見えてきたとき。
「うげっ」
階段から下りてきたのは、俺が三年間頭髪検査でバトり続けた教頭だった。俺の姿を見るなり、教頭は目を吊り上げて口をかっぴらく。
「またお前かぁ葛城っ! 校舎の中を走るとはお前は小学生か!」
一喝され、俺は階段に向けてた足を慌てて違う方向に向けた。
「すんませーん!!」
「こらあ! 走るな!!」
怒鳴り声に身を縮めながら、教頭の前を駆け抜ける。
――あああああ! どうすんだよ! これからどうやって屋上行ったらいいんだ?
階段は通り過ぎてしまったし、ここから屋上に向かうのはかなり遠回りだ。
――そういえば祐介はどこにいるんだ?
本校舎の廊下を走りながら俺はポケットのスマホを取り出した。祐介の番号を呼び出し、耳にスマホを当てる。
「お前、いま、どこだよ⁉」
電話の向こうからはあはあと荒い息が聞こえてきた。
『いま、理科室の、前っ』
「はあッ? なんで特別校舎の方にいるんだよ! 本校舎の方に誘い込めよ!」
『そんなこと、言ったって、町田、元陸上部、だろ、足はえーんだよ』
「根性、みせろっ」
『無理、言うな』
はあはあにゼイゼイが混じり始めた。やばいぞ、コイツそろそろ限界かもしれない。
「作戦変更だ、俺がそっちに行くから、お前はなんとか一階まで下りて――」
「アキー! こんなときに悪ふざけは辞めてよっ! 本気で怒るよ!」
「えっ?」
背後から聞こえてきた宮の声がやけに近い気がして、俺はぎょっと振り返った。二十メートルは余裕で引き離したと思っていた宮が、ほんの五メートル後ろまで迫っているじゃないか。
きっと悲しみのパワーが怒りに変わっているのだ。いつもの1.5倍増しで俊足の宮は、見たことのない鬼のような顔をしている。
「ひっ、嘘だろっ」
『なんだ、どうした、こけたか』
「こけてねーよ! 宮がはええんだよ!」
『もっと、早く、走れ』
「お前こそもっと早く走れっ」
お互いにめちゃくちゃなことを言いながら、頭の中は完全なパニックだった。
このままじゃ俺も祐介も追いつかれる。
なんだよこれ、全然計画通りにいかねえじゃないか――と半泣きになったとき、耳元で祐介が言った。
「晶、お前んとこに、絶対行く。諦めんな」
「祐介……っ」
なんだよ、祐介のくせにかっこいいじゃねえか。
ふと心の片隅にわいた思考に戸惑いつつも、廊下の角を右に曲がる。
「中庭に出た!」
『おお、よくやった! 今行くからそこでそのまま待ってろ』
「え、どこ?」
『上だっ』
「上……?」と俺は特別校舎の方を振り仰いだ。
二階の窓から何かがすごいスピードで飛び出してきたのはそのときだった。頭の上をスローモーションのように大きな影がひらりと横切っていく。
「…………え?」
口をぽかんと開けた俺の頭上を制服姿の男が軽々と飛び越えていく。そしてズダン、という大きな音とともに目の前で華麗な着地を決めたのは、ほかでもない祐介だった。
――こいつ、二階から……飛び降りやがった?
信じられない事態に俺はへなへなと腰を抜かした。
「おいっ、祐介!! 大丈夫か!?」
慌てたような頭上から大声が降ってきた。町田の声だ。はっとして見上げると、二階の窓から身を乗り出した町田が、青い顔で祐介を見ている。「今そっち行くから待ってろ!」と町田が叫び、その姿が見えなくなる。
そこへちょうど宮が勢いよく中庭に走りこんできた。最初は怒り顔だった宮も、腰が抜けて座り込んでいる俺を見て驚いた顔になる。
「え? 何? アキってばどうしたの?」
「晶っ!」
祐介が俺の名前を叫んだ。
「町田今降りてくるぞ! 作戦、作戦!」
はっと我に返った。
そうだった、作戦の正念場だ。ぼさっとはしていられない。
俺は慌てて立ち上がり、「え? なんで祐介くんがここにいるの? ってか作戦って?」と戸惑っている宮の顔を覗き込んだ。
「ごめん、宮。ちょっとだけ我慢して」
「へ?」
きょとんとした宮の身体を俺はぎゅっと抱き込んだ。
「えっ、ちょ、何?」
慌てふためく一回り小さな身体を強く抱きしめる。髪の毛からふわりと甘いシャンプーの匂いがする。背中が、腰が、信じられないほどに細い。夢にまで見た宮の感触にどくん、どくん、と心臓が駆け始める。
――ああ、駄目だ……。
俺は目を強くつぶった。
駄目だ、これは演技だ。作戦だ。そう思っても込み上げてくる動揺はどうにも御しがたかった。なんとか深呼吸を一つで気持ちを静め、ゆっくりと目を開いた。
五メートルほど先には町田がいた。ショックを受けたような顔で目を見開き、抱き合う俺と宮を凝視している。
俺は正面から目を合わせ、町田を睨みつけながら口を開いた。
「なあ町田。お前は宮のこと振ったんだよな? だったら俺が宮のこと貰ってもいいか?」
途端に腕の中の宮が慌てたように大きく身を捩る。だが俺は意地でも宮の身体を離さなかった。「嫌だ、離して」と言う彼の抵抗と言葉を無視して町田を睨みつける。
「いいよな? 町田はこいつのこと好きじゃないんだろ? それなら俺が貰っても文句はねえよな?」
町田が顔をこわばらせながら口を開きかけ、でも結局何も言わずに引き結んだ。いくら待っても、固い顔のまま黙り込んだまま。
ここまでしても何も言わないのか? とじりじりと苛立ちと焦りがこみ上げてくる。
本当に本当に宮を貰っちまうんだぞ。いいのか? 良いわけねえよな?
目線で挑発しても、町田は何も言わなかった。ぐっと唇を噛みしめると静かに踵を返し、歩き出してしまう。
――え、嘘だろ?
「町田、おい待てよ――」
そのとき宮が俺の胸をどんと強く押した。ふいを衝かれ抱擁がゆるむ。
「――町田くん」
俺の腕の中にかろうじて納まりながら、宮は必死に後ろを振り返った。去っていく町田に引き寄せられるように。唇を震わせ、瞳を潤ませ、町田の名前を呼んだ。
すうっと自分の身体から力が抜けていくのが分かった。
完敗だと思った。
宮が町田に恋しているのを一番近くで見てきた。
何かあるたびに俺に『どうしよう』と縋りつき、冷たくされた喧嘩をしたと言っては泣き、不安そうにため息をつく彼を宥めてきたのは俺だ。宮はいつも俺と話をすると、安心したようにたちまち笑顔になった。だから俺はそれでいいと思った。
俺は彼を笑顔にすることだけは出来るのだと思ったから。俺という存在だって、宮の中では町田と同じくらいに大きいだろ、と自惚れていたから。
でもそれは思い上がりだった。
俺は宮にこんな必死な顔をさせられない。
宮はこんなに切ない顔をするほどに町田が……町田だけが好きなのだ。
わかっていたはずなのに胸が抉られたように痛い。息がつまり、それでも俺は慎重に胸に残ったすべての空気を吐きだしてから、宮の身体に回した腕を解いた。
「……あれ絶対脈ありだよ。俺のことめっちゃ睨んでたもん。早く追いかけなよ」
宮は驚いたように俺の顔を振り向き、だけど悲しそうに首を振って項垂れた。
「……もう……無理だよ。町田は俺のことなんてなんとも思ってない。これ以上惨めな思いをするのはいやだ……」
――『これ以上惨めな思いをするのはいやだ』
その言葉を聞いた瞬間、腹の底で抑えていたものが突然弾けた。
「何言ってんの……?」
声が震えた。身体も震えた。心の奥底から噴き出してきたのは、マグマのような熱と勢いを持った怒りだった。
宮が驚いたように「アキ?」と顔を上げる。
「ねえ、ほんとに何言ってんだよ? お前らふたりして、ほんとに何やってんの? ポンコツなの?」
抑えよう、抑えなくちゃいけないと思ったがもう駄目だった。口からは機関銃みたいにどんどん言葉が出てきて止まらない。
「だってお前ら、夏に男二人っきりで花火大会行ってたじゃないか。あんとき宮の浴衣着付けしたの俺と祐介だぞ!? それに文化祭だって二人で回ってたし後夜祭だって二人で消えたじゃねえか! あんとき宮と町田の当番変わってやったの誰だと思ってんだよ! 俺と祐介だぞ! バレンタインだってホワイトディだって、相談に乗ってやったの誰だよ! 俺と祐介だろ!?」
俺が……俺が……どんな思いで、今までやってきたと思ってんだ。どんな気持ちでお前の隣にいたと思ってんだよ。
「今繋がねえと、もう終わりなんだぞ。町田は東京行っちまうんだろ? 離れ離れじゃねえか! 今日で最後なんだろ!」
そうだ、最後だったんだ。地元に残る宮と、隣県の大学に通う予定の俺は、今日の卒業式がいっしょにいられる最後の日だったのに。宮と町田がちゃんとくっついたのを見届けて、宮への恋心に終止符を打とうとしていたのに。
「これで終わりにしてほんとにいいのか!?」
「お、俺は……」
宮の瞳に限界まで水滴が盛り上がり、スローモーションのように一筋だけ頬を流れた。
「……嫌だ……」
宮が両手で顔を覆い、呟いた。
「嫌だよ」
「……そうだろ?」
俺は宮の手を取り、顔を覗き込んだ。涙に潤んだ瞳がさざめくように光っている。吸い込まれそうだ。でもこれは自分のものじゃない。
「だったら町田を追わないと」
お願いだ、もう行ってくれ。いますぐこの手を引き離して、出来るだけ遠くに行ってくれ。
懇願を込めてじっと見つめると、宮は一瞬息を止めた。それからゆっくりと息をはき、頷く。
「……うん、そうだね」
俺は宮の身体を回転させ、その背中を押し出した。
「行け」
「――ありがと」
宮はまっすぐに駆け出した。
細い背中がどんどん遠くなっていく。
「あ――――。行っちまったか……」
思わず深いため息が漏れた。
完全な失恋。ずっと覚悟していたはずなのに、いざその場面になると堪えるものがある。力が抜けてへなへなと地面にしゃがみこんでしまった。しばらくは立ち上がれそうにない。
「お疲れさん」
後ろから声が掛けられた。振り返るとそこには祐介が立っている。
「お前まだいたのかよ」
「はあ? 何言ってんだよ。ずっとここに居ただろうが」
「……そうか。ずっといたのか」
オウム返しに呟くと、祐介ははあと大きなため息をつき、俺のそばにしゃがみこんだ。
「ずっとここにいたよ。ずっと見てたよ、お前が頑張っているところ」
祐介の手が伸びてきて、俺の頭をひらりと撫でた。大きな手のひらが頭のてっぺんに乗った瞬間になぜか目からじわりと涙が出てくる。
「なんか……ずりいな」
「なんでずるいんだよ」
俺は「うっせ」と口を尖らせながら目元をごしごし拭いた。
祐介のくせにイケメンぶりやがってこの野郎、と悪態をついたらだいぶ気持ちが落ちついてきた。ふうと大きく息をついて自分の右手を見つめる。そこには宮のスマホがある。
「……宮と町田、今ごろくっついたかな」
「ああ、くっついただろ」
「大丈夫かな」
「まだ心配?」
苦笑いを混ぜたその言葉に、俺は顔を上げた。
祐介は目を細めて俺を見ている。思わずどきりとした。コイツ、なんでこんな目で俺のことを見るのだろう。
「もう子離れしたほうがいいんじゃねえの?」
「う、うっせ」
「手間がかかる子供も独立したんだし、これからは自分のことを考えねえと」
「俺は子育て終えた主婦じゃねえよ」
「同じようなもんだろ?」
「……そうかもしれないけど」
はあ、とため息をついて俺は空を仰いだ。憎らしくなるほどの快晴だ。俺の心はこんなにも打ちひしがれているというのに、風は穏やかでやっぱり世界は平和だ。
このまま俺だけを取り残して、世界は進んで行くのだろうか。
俺がここでぼんやり雲を眺めて悪戯に青春を消費しているあいだにも、みんな誰かに恋をして、誰かと誰かが付き合い始めて、紆余曲折を経て同棲とか結婚とかするのだろうか。
俺だけ蚊帳の外だな。
そう思うとなんだかもう二度と立ち上がれないような気がした。これが孤独ってやつか……、なんてしみじみと考えていると、祐介が急に肩を抱いてきた。
「でさ、そんな晶くんに一つ提案があるんだけど」
「提案?」
楽しそうな祐介の様子に思わず眉根が寄った。俺は今黄昏てんだよ。邪魔すんじゃねえ、なんて思ったが。
「手始めに、俺と付き合ってみねえ?」
「…………はあ?」
言葉の意味がまったくわからず、俺は目を瞬いた。
「だからさあ、俺と付き合ってみようって言ってんの」
「お、お前頭大丈夫か? なんで俺とお前が付き合わなくちゃいけないんだよ」
「そんなの決まってんだろ。俺がお前を好きだからだよ」
「え」
言葉が出なかった。祐介が俺を好き? ぽかんとした俺の顔を見て、祐介がしてやったりという顔で笑った。
「お前全然気が付かねえのな。宮のことはさんざん鈍感だって言ってたけど、お前も相当だよな」
「なんで……いつから……」
「ん? 三年前から」
「三年前!? それって初めて会ったときからってこと!?」
「うん、ひとめぼれだったもん」
「ひと……め、ぼれ」
気が遠くなった。祐介が俺のことを好きだったというのも晴天の霹靂だったというのに、三年間も? こいつは俺のそばにいて、俺が宮に片思いしているのをずっと見ていたというわけか?
「お前はさ、いっつも人のことばっかりだろ。困ってる人がいたら誰よりも先に走っていく。好きな奴が出来てもそいつとの関係を壊さないように遠慮して、いざ宮に好きな奴が出来たら応援なんかしやがって。お前は他人のことばっかりで、全然自分のこと大事にしようとしないだろ。だから俺が大事にしたいって思った」
「へ……え……」
「お前のこと、俺に大事にさせてくれませんか?」
祐介は首を傾け、俺を上目遣いで見てきた。男の上目遣い何て気持ち悪いだけだと思っていたのに、心臓がにわかに騒ぎ出す。かあっと頬が熱くなっていく。俺はたっぷり一分以上固まってから、ようやく言葉を捻りだした。
「エ、あ、あの、お、オトモダチから、だったら」
「あはは! なんだよそれ! もうオトモダチになって三年経ってんだろうが!」
「えっ、あっ、そっか」
「まあなんでもいいや。俺はこれからもお前の隣にいるしな。気が向いたら彼氏にしてくれよ」
祐介が雑に話を締めくくって、ぱっと立ち上がった。
う~ん、と手を空に付きだして背伸びをする祐介の背景には、相変わらず雲ひとつない空。ちゅんちゅん囀る雀の鳴き声と、穏やかな春の気配を含んだ風。何も変わらない世界。その中で、急速に俺の中の変わっていくものがあった。
ついさっきまで、今日という日はすべてが終わる最後の日だと思っていた。だから何がなんでも最高の1日にしないと考えていた。
でもそうじゃない。今日という1日が終わっても、何も終わりはしないのだ。
気が付いたこと、気が付かなかったこと。きちんと受け取れたもの、取りこぼしてしまったもの。俺だけじゃなく宮にも町田にも祐介にもそういうものがたくさんあって、緩やかに繋がっていくこの先で、これから何回も答え合わせをしていくのかもしれない。
「ほら、いつまでしゃがんでんだよ。立てって。そろそろ行こうぜ。あいつらにスマホ返さねえと」
「……お、おう」
俺は少しずつ速く大きくなっていく自分の鼓動を聞きながら、祐介が伸ばしてきた手を掴んだ。
(おわり)

