夏、それがわかったら。

 事はスムーズに運ぶも、まさか奈美の伯母までが駅まで僕を迎えに来てくれる流れになるとは予想だにしなかった。
 改札を抜けた瞬間の湿った空気が肺にまとわりついて、都会に来たことを実感させる。地方のそれより重く、少しだけ金属の匂いがした。
「純一。こっちこっち」
 両手を振る仕草がやけに大きくて、周囲の人の流れの中でそこだけ少し浮いて見える。ぴょんぴょんと跳ねる姿は「兎だな、これは確かにモテる」と妙に納得の出来る瞬間で、奈美は相変わらず奈美だった。
 奈美の後ろに立つ女性を見て、想像していた“伯母”という言葉の輪郭よりもずっと若い印象を覚えた。髪をきちんとまとめ、姿勢だけが妙に整っている。僕を見て一礼するその所作には、無駄がなく、どこか仕事のような硬さがあった。
「純一の私服姿って、なんか新鮮だ。美術部なのに、なんかダサいね」
「こら奈美。失礼なこと言わないの。ごめんなさいね。長旅で疲れたでしょう。荷物は後ろに乗せちゃっていいわよ」
「ほら。キャリーケース貸して」
 荷物を盗人のように取る奈美から金木犀に似た花の香りが漂い、薄手のシャツから伸びた腕の細さに、目の置き場を失う。確かに、私服というものは、こういうものだった気がすると、そんな当たり前の確認だけが、妙に遅れて頭に浮かんだ。
「おお、意外と軽い」
「最低限の物しか入ってないからな」
 運転席にぶら下がる紅葉型の式芳香剤も、流れる落語も、通り過ぎるビル群も、隣に座る奈美も。どれも知っているはずなのに、全てが初めてだった。
「純一君。東京は初めて?」
「あ、はい。まあ」
「純一はね、絵を描きに来たんだよ」「ね」という言葉だけが、妙に軽く車内に残った。
 かなり長く感じたのは、信号に何度か引っかかったからだろうか。到着したのは真新しい木の匂いがする、一般的な一軒家には、古びた表札に「廣川」と書かれれあった。
 ーー婿養子か。その考えを振り払うように家の中へ入った。
 意気揚々と間取りを案内する奈美を先頭に、玄関前の階段脇にはスロープや、廊下や扉には手すりなど、奈美の伯母には必要なさそうなバリアフリー化が所々に見受けられたが、庭に通された時に、僕はその考えを改めた。
「そしてここが、おじいちゃんのお墓」
 何でもないことのように言ったその言葉だけが、間取り図の続きのように置かれていた。不意にしゃがんで手を合わせて目を瞑る奈美を見て、急いで僕も隣に並んだ。数秒が経ち、僕は片目を開けてチラチラと奈美の様子を伺うも、一向にその場から動こうとしない。背中や首筋に降る陽射しが、”熱い”から”痛い”に変わりそうな手前で、家の中から奈美を呼ぶおばさんの声が日常的に響いた。彼女は「よし」と言い、立ち上がる。
「お腹すいたね。ご飯食べよっか。今日は素麺だよ」
 あたかも自分が作ったかのような口調で見下ろす、涼しそうな彼女の顔にかかる影が、不思議と心地良くて、絵にしたら、きっとこんなふうに笑うのだろうなと思った。
 昼食を食べ終わり、二人でテレビゲームに白熱していると「夕飯の買い物しに行くから、後はよろしくね」と言い残して伯母さんは出かけて行った。気づけば、家には僕と奈美だけが残っていた。
「ねね、純一の描いた絵見せてよ」
 レースゲームに飽きたのか、コントロールを投げるように置いて、まるで、それが当然の流れであるかのように、彼女は言った。
「いいけど……奈美には、たぶん分からないと思うぞ?」
「そんなことないもん」
 ごそごそとポケットを弄り、携帯を取り出すと、そのまま何かを確かめるように操作し、「ほらこれ」と一枚の写真を僕に見せてくる。
 床の上に制服のまま大胆に仰向けに寝そべり、その周りに絵具や虹色の蜻蛉が散りばめられた、何時ぞやに高校生国際美術展に飾られた、僕の「リノリウム」だった。
 ーーよりによって、それを。
「この絵の隣にある絵がね、私とってもいいなって思ったの。どこが?って聞かれたら上手く説明できないんだけどね、綺麗だなぁとか、魅力的だなぁって感じるの」
 一息に話す彼女を、遮る必要すらなかった。
「……なんでだろうね」
 そう言いながら奈美は、誰のものとも気にする様子もなく、その絵を見ていた。
 無機質な冷房の音だけが聞こえる部屋に、僕は「やっぱり、わからないじゃないか」と茶化すことしかできなかった。なのに奈美は「うん」としか発さないものだから、僕は俯いた。
「純一の寝室、どうしよっか」「……え?」
 顔を上げると、奈美の顔がすぐ目の前にあった。
「なんなら、私と一緒に寝る?」
「……は?」
「冗談よ」
 奈美はくすくす笑って、トイレに行った。置き去りにされた携帯の画面には、僕を被写体にした片桐の絵だけが残っていた。