火星の裏側から、地球の何もない粗末な田舎町に遥々降り立った、とまでは言わないが、それほどまでに廣川奈美は周りと少しズレた、美しい女子だった。
 人の好き嫌いが、よくわからないらしい。「かっこいい」とか「優しい」とか、そういう言葉は知っているのに、どうしてそれが“好き”につながるのかが、ぴんと来ていない。だから告白されても、いつも首をかしげるだけだった。まるで、知らない言語で話しかけられたみたいに。
 先週だったか。
 学校の裏庭に呼び出された奈美が告白されている現場を、美術室の窓からぼんやりと雲を数えている時に、偶々目撃してしまった。
「好きです、俺と付き合って下さい」と手を差し出して頭を下げる男子生徒に対して、奈美は少しだけ考えてから「欲求不満なの?」などというものだから、名も知らないその生徒には申し訳ないが、その瞬間、僕は思わず噴出して、その場で腹を抱えて笑い転げてしまった。
「磯谷?どうした。気持ち悪い笑いなんかしちゃて。面白いものでも見えた?」
「ああいや、何でもない。コンクールにぴったりの、最高のインスピレーションが見えただけだよ。タイトルは……そうだなぁ。『制望と夏』、かな」
 口に出してみると、妙に響きが良かった。まるでその題材を描けと言わんばかりにしっくりくるのに、いざ真っ白なキャンパスの前に座ると、ダビデ像のように固まってしまう。あの告白現場以来、彼女の姿を目にしていないからだろうか。筆がこれっぽっちも進まないのは。
「なあ片桐。最近、廣川の姿を見てないが、風邪か?」
「奈美さん?奈美さんなら東京のおばあさんの所に行ってるらしいよ」
「もうすぐで夏休みなのにか?」「もうすぐで夏休みなのによ」
 同じ美術部でも、部長の片桐琴音が僕のことを嫌っているのは、単に性格などの相性が悪いだけでは無くて、部長なのに僕の方が受賞作品が多いから、そんなくだらない理由を、僕は勝手に思い込んでいた。
「理由は?」「さあ?」「同じクラスなのに知らないのか?」「同じクラスなのに知らないのよ」
 片桐の方も、なかなか筆が進まないストレスを僕にぶつけているだけなのかもしれない。そう思うと、少しだけ納得がいった。キャンバスを覗き込むと、白銀の雪上を裸足で歩く二人の制服姿があった。色が無くとも彼女の絵は素直に上手い。
 僕の方も急がなくてはならない、少なくとも夏休み期間中にコンクール用の絵を仕上げなければ。
《東京ってね、空が少し違うの。濁ってて、あんまり美味しくない》
 携帯を握る手には少し汗が滲んで、耳に触れた彼女の声音が背筋がぞくりとさせる。思い立ったが吉日とはよく言ったもので、奈美本人に理由を尋ねようと考えあぐねている間に終業式も終わり、気付けば夏休みに突入してしまった。
《いや、そうじゃなくてだな》
《え?様子を知りたいから電話くれたんじゃないの?》
《……いや、違う》
 言い直したはいいものの、次の言葉が出てこない。”違う”と言ったはずなのに、何が違うのか自分でもわかっていなかった。
 受話器越しに、彼女の呼吸だけがやけに近く感じる。
《じゃあ、何のための電話?》
 言い淀み、目を泳がせると、机の上のスケッチブックは、開かれたまま白いままだった。
《実はまだ、コンクール用の絵が、完成してなくってさ》
《ふーん……》
 言った傍から、奈美には関係のない話だと、もう遅いが釈明を探して、出てきた言葉が《僕も、そっちに行こうと思ってるんだ》とは、自分でも驚きだった。