ゼニスは視界の隅で笑う~裁きはリングで決する、不条理な監視社会で生き残れるか~

「ん~......知ってるはずの場所なのに......なんだろう?」

気になっていたことが、ふと口からこぼれた。

((──遥。何か気になりますか?))

「知ってる公園、知ってる街なのに......
 なんで、違和感を感じてしまうのかなって?」

((──認知のゆらぎは、環境要因でも起こり得ます。))

「そっか......そういうこともあるよね......
 気にしすぎかもね......ふふっ。」

((──判断は慎重に行います。
  ですが、現時点で異常は特定されていません。))

「だよね~!うん、ホント天気いいね~!」

明らかに話題を切り替えるみたいに、
声のトーンをぱっと明るくしてみせた。

((──はい。天候は安定しています。))

「ね?気持ちいいよね~。
 こういう日は散歩が一番だよ、うんうん!」

((──良い傾向です。))

「でしょ~?ふふっ」

表面上は明るく言い換えたけれど、
胸の奥に残った小さなざわつきは、
まだ完全には消えないままだった——

「ゼニス、ちょっと公園の中、歩いてみよっか?」

((──はい。散策再開を確認。))

数歩、ゆっくり歩きだした瞬間だった。

「あれっ......?」

無意識に足が止まる。
止まった理由は、すぐに視界が教えてくれた。

公園の中央広場の手前——
赤い自販機が置いてあったはずの場所。

毎回使っていたわけじゃない。
でも、のどが渇いた時や、休憩したい時に、
何度か利用した記憶がちゃんとある。

その場所には、
自販機の影どころか、
最初から何もなかったみたいに芝生が広がっていた。

「......え? ここ、自販機......あったよね......?」

自分の声が、自分の耳に薄く響く。

((──遥。該当位置に、自販機の設置記録は存在しません。))

「まさか、入院している間に撤去されたとか......?」

自分に言い聞かせるように言葉を継ぐ。
でも、その常識的な言い訳が、
胸のざわつきを完全には消せなかった。

「そういえば......こんな天気よくて散歩日和なのに......
 誰もいないのも変じゃない、ゼニス?」

((──現在、周囲に人の観測データはありません。))

「え、ゼロ......? そんなことある......?」

((──はい。異常はありません。))

「う......ん、ゼニスが、そういうなら異常ではないんだね......」

((──はい。))

「こんな散歩日和に公園貸し切りとかラッキーじゃん!」

((──はい。確率的には相当低いと推測されます。))

「ホントのラッキーなんだ......あはは」

笑ってみせたものの、
胸の奥では、
本当にラッキーなのかな......?という小さな影が、
まだ消えずに残っていた。

「じゃ〜せっかくだから、無人の公園を堪能しようかゼニス?」

((──はい。公園内の散策ルートを再設定します。))

「ふふ、散策ルートって......貸し切りなんだから好きに歩けばいいのに〜。」

((──環境情報の整理は、遥の行動最適化に有効です。))

「行動最適化って......相変わらず真面目だなゼニスは......」

ゼニスの静かな光が、
ふわりと明度を上げた。

((──では、このまま遊歩道沿いに進みましょう。
  遥の選択に合わせて、サポートを行います。))

「うん......」

ゆっくり踏み出した足が、
舗装された遊歩道の上で軽く音を立てる。
その音が、公園全体に薄く溶けていくように感じられた。

数歩歩いたところで、
ふと違和感がまた胸をかすめる。

「......あれ?」

思わず足が止まる。
視線の先にまっすぐ伸びる遊歩道。

「ここってさ......
 もっと、こう......緩やかに曲がってた気がするんだけど......」

((──遊歩道の形状に変更履歴はありません。))

「遊歩道なんて変えないよね......きっと勘違いなんだね......」

声に出したものの、
胸の奥で揺れた記憶の輪郭は
まだ落ち着きを取り戻さない。

ゆっくり歩き始めた遊歩道は、
どこまでもまっすぐ伸びているように見えた。
足音だけが一定のリズムで続いていく。

((──歩行速度、安定しています。))

「うん......ありがと。大丈夫だよ。」

無理に気持ちを整えるように返事をしながら、
そのまま道沿いを進んでいく。

ほんの数分歩いただけのはずなのに、
胸の奥のざわつきは消えないどころか、
ゆっくりと沈んでいくように感じられた。

やがて——
視界の端に、さっき座っていたベンチが見えた。

「あれ......もう戻ってきちゃった?」

((──はい。遊歩道は円形に配置されています。))

「まっすぐにしか歩いてなかったような気が......
 考えごとしてたから、気がつかなかったのかな?」

言い聞かせるように口にしながら、
ゆっくりと視線をベンチに向ける。

((──遥。先ほどから、思考処理が通常より複雑化しています。
  その影響で周囲認識に軽微な揺らぎが生じた可能性があります。))

「......そんなに考えこんでた?」

((──はい。入院後の負荷、環境変化、
  そして現在の違和感の蓄積が要因と推定されます。))

「違和感の......蓄積......か......ふふっ」

思わずつぶやいて、
そして小さく笑ってみせた。

「そっか......考えすぎて、記憶のほうがブレちゃっただけだよね。」

((──遥の認識の揺れは、過度な異常とは判断しません。))

「それなら大丈夫だね......でも、少し疲れたかも......」

((──遥。ホテルへ戻り休息することを推奨します。))

「うん、そだね、帰ろっかホテルに。」

((──遥。メロンパンはどうしますか?))

「大事なこと忘れるとこだったね!」

((──非常に良いものです。))

「ゼニスは、メロンパン気に入ったんだね......うふふ」

ゼニスの光が、
どこかほんのり明るくなったように見えた。

((──はい。遥が好むものは、わたしにとっても重要です。))

「そんな言い方されたら......買いに行かないわけないよね。」

小さな違和感はまだ胸の奥で揺れていたけれど、
それでも――このやり取りだけは、
いつもと変わらない日常なんだ。

「よし、じゃあ行こっか。メロンパン買いに。」

((──目的地設定完了。))

公園の出口へとゆっくり歩き出す。

風は穏やかで、
さっきまで胸の奥で渦を巻いていたざわつきも、
少しだけ輪郭がぼやけてきた気がした。

((メロンパンか〜......ふふっ。なんか、急に楽しみになってきた。))

((──良い傾向です。))

((食べものの話すると、元気出るタイプなんだよね、きっと。))

((──はい。遥のデータからも、その傾向は高いと推測されます。))

((データで言われると、なんか照れるんだけど......うふふ。))

公園を出ると、見慣れた二車線の大通りが伸びている。
横断歩道の前で、足をそっと止める。

((信号変わったし、いこ~!))

((──渡行可能です。))

信号を確認して、静かに歩き出す。
横断歩道を渡れば、くろいわベーカリーはすぐそこだ。

((くろいわベーカリーすぐそこだね。))

((──はい。))

店先が見えてくる。
くろいわベーカリーは、当たり前だけど、
退院した時と何ひとつ変わっていなかった。

店内に入ると、
パンが並ぶ棚も、
レジの位置も、
記憶の中と変わらない。

((ゼニスお気に入りのメロンパンを何個買おうかな〜?......ふっふっふ~))

((──遥。何個購入するつもりですか?))

((ゼニスが満足しそうな個数だけど......ふふっ))

((──遥。1個あれば十分ではないですか?))

((え〜〜っ、せっかくだし4個くらいは買おうよ!))

((──4個ですね。摂取カロリーの計算を行います。))

((わたしが食べる量じゃないよ〜? ゼニスの分も含めてだよ。))

((──結果的に遥が摂取するカロリーになりますが。))

((細かいことは気にしなくてもいいの〜......
  一緒に食べたら美味しいでしょ?))

((──はい。非常に良いものです。))

((じゃ〜、メロンパン4個で決まり!
  あとは、どうしよっかな〜?))

((──遥。楽しそうなことが、身体データから伝わってきます。))

((だって、なんか色々考えすぎたけど......
  ゼニスとパン選んでるの楽しいもん!))

((──良い傾向です。))

棚に視線を移すと、
見覚えのある総菜パンが並んでいる。

((これも、美味しいよね~!
  ご飯になりそうだし、いくつか買っておこうかな〜。))

((──はい。栄養バランスも問題ありません。))

((じゃあ、この焼きそばパンと......あとこのコロッケのやつも。))

いくつか手に取り、
トレーにそっと置いた。

((買いすぎかな?))

((──食事分込みと考えれば、許容範囲です。))

そのままレジへ向かう。
何気ない動作ひとつひとつが、
さっきまで揺れていた胸の奥のざわつきを、
ゆっくりと落ち着かせていくようだった。

レジに並ぶと、
店員さんの柔らかな『いらっしゃいませ』が聞こえた。
退院した時も、たぶん同じ声だった気がする。

トレーを差し出すと、
パンがひとつずつ丁寧に袋へ入れられていく。

((絶対メロンパン好きだと思われてるよね?))

((──はい。その可能性は高いと推測できます。))

((ま~事実だし、いっか~、
  半分はゼニスの分だしね~......うふふ))

((──結果的に全てのカロリーは.......))

「もう!わかってるよ~!あっはは」

思わず声に出して笑ってしまう。

((──遥。声量にご注意を。))

((ごめん、ごめん、ついおかしくってさ......ふふふ))

焦って店員さんの方に視線を向ける。

......けっこう大きな声が出たはずなのに、
すぐ目の前にいた店員さんは、
まるで何も聞こえなかったかのように、
淡々と袋詰めを続けていた。

((店員さん、袋詰めに集中してたのかな?))

((──その可能性はあります。))

((実は、声がでているようで、一切でていないとか......
  そんなホラー展開は、さすがにないでしょゼニス?))

((──ホラーとは、恐怖を題材とした物語の総称を指します。))

((うわぁ~、出たよゼニス辞書!))

((──遥。そのような名称の辞書は存在しません。))

「でしょ~ね!......あはは」

また、思わず声にだして笑ってしまった。

ふたたび視線を店員さんへ向ける。
手を動かしながら、
こちらには一切反応を見せない。

まるで──
さっきの笑い声が、
届いていないみたいに。

((う~ん......わたしの声って小さいのかな?))

((──遥。店員が作業に集中しており、
  声に気づいていない可能性が高いと推定されます。))

((......そうこともあるよね〜。))

そう自分に言い聞かせるように返して、
そっと視線を店員さんへ戻す。
機械のように一定のリズムで作業を続けていた。

やがて袋詰めが終わり、
レジの電子音がひとつ鳴る。

会計を済ませ、袋を受け取ったその瞬間——

「ありがとうございました。」

店員さんは、
接客マニュアルに載っていそうな、
教科書どおりの笑顔を浮かべていた。

完璧に整っていて、
乱れも、感情の揺れも一切ない。

まるで——
笑顔、という表情のテンプレートを貼りつけただけみたいに。

くろいわベーカリーの袋を手に持ち、
店を後にした。

((今日はなんか......今まで気がつかなかったことに気がつく日なのかな......))

((──遥。環境適応の過程で、知覚の精度が上がる場合があります。))

((精度が上がるっていうより......
  なんか、今まで普通だと思ってた部分が、
  急に違って見えるっていうか......))

((──認識の揺らぎは、疲労時には珍しい現象ではありません。))

((そっか......疲れてるだけ、かもね......))

ふと、足を止めて空を見上げた。

晴れていて、雲ひとつない。
青さも、日の光の角度も、
まるでテレビの中で見る理想の空そのもの。

綺麗なのに——
どこか、現実の空とは違うような、
わずかな作り物めいた気配が胸をざわつかせた。