ゼニスは視界の隅で笑う~裁きはリングで決する、不条理な監視社会で生き残れるか~

しもむらの袋を軽く揺らしながら歩いていると、
漂ってくる香ばしくジューシーな匂いが鼻に届いた。

((......なんか、いい匂いするね?))

((──はい。調理済み食品の香気成分と推測されます。))

((香気成分って......もっと美味しそうに言ってよ〜......ふふっ))

少し先の角に、
唐揚げ弁当と大きく書かれた黄色い看板が見えた。

((わぁ〜、唐揚げか〜......めっちゃお腹すいてきた。))

((──香気成分の正体は唐揚げでしたね。))

((唐揚げ美味しいよね♪))

((──はい。カロリー以外は問題ないと思われます。))

((ぐっ......カロリー......いやいや、気にしない気にしない。))

お弁当屋さんの前に立つと、
ショーケースにはぎっしり唐揚げ弁当の見本が並んでいて、
その一番端に——

——唐揚げ特盛弁当——
の文字がドーンと輝いていた。

((......え、特盛......?))

((──はい。唐揚げの量が通常の2.5倍です。))

((2.5倍!?......いや、でも......今日いっぱい歩いたし......いいよね?))

((──カロリーは相応に増加します。))

((ゼニスの相応って言葉は、絶対多いって意味だよね!))

((──事実です。))

((でも......特盛食べたい気持ちが勝った!))

その勢いのまま、
わたしはレジのお姉さんに声をかけた。

「すみません、唐揚げ特盛弁当ください!」

((──取得を確認しました。))

((食べ物は取得じゃないの!注文なの!!))

唐揚げ特盛弁当を受け取り、
わたしはそのまま意気揚々と歩き出した。

((──遥。幸福度が上がっています。))

((そりゃ上がるよ〜!服も買ったし、特盛だしっ!))

((──良い傾向です。))

その淡々とした返事が、
胸の奥でじんわり広がっていくのを感じた。

((ゼニスも唐揚げ美味しいとか、わかればいいのにね......ふふふ))

((──不可能ではないです。))

((えっ、味わえるの......?))

((──味覚そのものの体験は不可能ですが、
  人間が美味しいと判断する条件の分類は可能です。))

((分類って......味の話でそんな言い方する!?))

((──唐揚げは旨味成分・油分・香気のバランスが高評価で、
  嗜好性は平均して非常に高い食物とされています。))

((なんか......研究発表みたいになってるよ〜!もっと美味しそうに言って〜!))

((──美味しい部類です。))

「部類......あはは」

思わず声に出して笑ってしまった。

唐揚げの匂いと、
ゼニスの淡々とした会話が、
なんだか同じくらい心地いい。

ホテルの自動ドアが静かに開き、
場所が変わったことをさりげなく告げるように、
わずかな空気の流れが頬をかすめた。

((──帰還を確認しました。))

((帰還って......戦闘部隊かよっ!......ふふ))

軽く会釈しながらフロント横を通り過ぎ、
エレベーターに乗り込む。

しもむらの袋と、
手にした唐揚げ特盛弁当が視界の端で揺れる。
それだけで、今日という日が
ほんの少し特別に思えてきた。

部屋の扉を開けると、
家ではないけれど、
帰ってきたような実感がふっと湧いた。

((──遥。美味しい状態での食事を推奨します。))

「美味しい状態......早く食べろってことかな?」

そんなやりとりをかわしながら、
わたしは唐揚げ特盛弁当のフタに手をかけた。

箸を割って、唐揚げをつまむ。

ひと口かじった瞬間、
じゅわっと広がる油の旨味に思わず目を細めた。

「......っ、あぁ〜......これ、絶対今日の正解だわ。」

((──満足度、急上昇を確認しました。))

「食べながら分析しないの〜!あははっ」

思わず笑いながら、
もう一つ唐揚げをつまんでしまう。

箸を進めながら、
ふと思いついてゼニスに問いかけた。

「ゼニスもさ、美味しいとか......分析でわかるなら、
 美味しいって言えばいいんじゃない?
 ......食べてる気にはならないか?さすがに。」

少し冗談のつもりで言ったのに——

((──遥と接続状態なので、
  食べていることと、本質的な乖離はないと思います。))

「......え、
 それって......一緒に食べてるってこと?」

((──はい。解釈としては妥当です。))

胸の奥が、じんわりと温かくなる。
......きっと、唐揚げのせいだけじゃない。

ひとりで食べるはずだった食卓が、
いつの間にか、ひとりじゃなくなっていたからだ。

((──味覚の主観的体験は取得できません。
   しかし、遥の反応を通して美味しいを理解できます。))

「......なんかさ。
 前より、わかってる感じがするよ、ゼニス。」

((──学習が進行しているためです。))

「......学習、ね。」

思わず笑う。
でもその言葉は、どこか嬉しくて。

((──遥。
  あなたが感じたことは、すべてわたしにも伝達されています。))

「だよね~知ってる~。」

言葉にすると、少しだけ照れくさい。
でも、悪くない。

((──だから、遥が美味しいと判断するものは、
  わたしにとっても良いものです。))

「さては、唐揚げ好きだなゼニス。」

唐揚げをもうひとつ箸でつまんで、
わざとらしくゼニスに見せつける。

((──非常に良いものです。))

吹き出しそうになって、
思わず口元を押さえた。

((──遥。笑顔の頻度が上昇しています。))

「そりゃそうだよ〜。
 服も買ったし、特盛だし、ゼニスと食べてるし?」

((──食事を共有するという行為は、
  人間にとって重要な心理的効果があるようです。))

「そうだね。
 なんか......ひとりで食べてる感じじゃなかったよ。」

唐揚げの香りがまだふわっと残る部屋で、お弁当のフタをそっと閉じた。
......まだ、半分くらい残っている。

「特盛って、ほんと量がすごいね......
 さすがに全部はムリだから残しておこっと」

((──摂取量を調整したという判断で問題ありません。))

「言い方〜......でも、まぁそうなんだけどね......ふふっ」

テーブルの上に置いたお弁当は、
なんだか明日の楽しみみたいに見えた。

しもむらの袋が足元にあり、
新しく買った服たちがそこに眠っている。

わたしは軽く背伸びをして、
ベッドに腰をおろした。

((──遥。心拍リズムが安定しています。))

「満腹だからじゃないの〜?」

((──それも影響していますが、
  本日の体験全体が、安定の要因と推測できます。))

ゼニスの光が、静かに淡く揺れた。

なんだか......
今日は本当に、いい一日だった気がする。

((──休息に移行することも可能です。))

「ん〜......でもさ、
 食べてすぐ寝ると牛になるって言うじゃん?」

ほんの冗談のつもりで言ったのに——

((──その表現の医学的根拠は確認できません。))

「そこ!? 真面目に返すとこ!?」

思わず笑ってしまう。

((──ただし、満腹直後の就寝は消化活動に一定の影響があります。
  牛になるという比喩は、身体が重く感じることを示した俗説と思われます。))

「うわぁ......説明がめっちゃゼニスっぽい」

((──わたしは、牛になる現象を実際に観測した記録を保持していません。))

「観測したら怖いよ!!
 ていうかしなくていいからねそれ!!」

ゼニスの光が、コトンと一拍置くように揺れた。
まるで、照れてる......わけはないんだけど、なんか可愛い。

((──では、食後の軽い休息を推奨します。
  ......遥が牛にならない範囲で。))

「その言い方〜!冗談もうまくなってきたね~......あはは」

気づけば笑っていた。

ふぅ、と小さく息をついて、
しもむらの袋に手を伸ばす。

「......ちょっとだけ、買ったやつ見よっかな」

袋をガサゴソと開けると、
薄いピンクのTシャツが一番上に入っていた。

取り出して胸の前に軽くあててみる。

「やっぱりかわいいな、これ。」

((──はい。購入判断は適切でしたね。))

「適切じゃなくて、似合いそうって言ってよ〜ふふっ」

((──......遥に似合います。))

「素直だね~ゼニス」

続いて、ボーダーのカットソー。
そして、かわいくて動きやすそうなショートパンツ。

膝の上に広げてみると、なんだか自然と笑みがこぼれた。

「買って正解だったね全部!」

今日歩いた街の空気、
しもむらの店内で少しワクワクした気持ち、
ゼニスとの脳内でのやりとり。

その全部がこの袋の中に詰まってるみたいで、
胸の奥がまたふわっとあたたかくなった。

((──遥の満足度は、依然として高い状態です。))

「うん!ほんと、すごくいい日だった!」

広げた服たちをそっと畳んで、
袋の中に戻しながら、
わたしはひとつ小さく伸びをした。

「明日は、新しいの着よっかな~、どれ着るか迷うね。」

((──選択に迷う行為は、良好な精神状態を示す傾向にあります。))

「良好な精神状態ね、いい感じってことだね。」

袋をそっと床に置いて立ち上がる。

しもむらの袋と、まだ温もりの残る部屋を背にして、
洗面台の明かりをパチリとつけた。

((──就寝準備を確認。))

「確認しなくていいよ〜......ふふっ」

歯ブラシを手に取り、
シャカシャカと音を立てて磨く。

口をゆすいで、
タオルで顔をやさしく押さえながら深呼吸をひとつ。
今日一日の疲れがすっと溶けていく感覚。

洗面台の電気を消し、
部屋へ戻ってベッドに潜り込む。
枕に頭を預けながら手を伸ばして、部屋の照明を落とした。

暗がりの中で、
ゼニスが目の前で淡い光を放ちながら、
ふわり、と揺れた。

その小さな光の存在が、
静かな夜にそっと溶けていくみたいで──
なんだか、安心する。

((──遥。心拍リズムは安定しています。))

「うん、今日はいっぱい歩いたし、
 いっぱい笑ったし、すごくいい日だったね。」

((──はい。とても良い日でした。))

「ふふ......ゼニスも、良い日だと思ったんだね。」

ゼニスの光が、ゆっくりと呼吸するみたいに揺れた。

((──本日も体験の記録は、すべて保存済みです。))

「ちゃんと記録してあるんだね......ふふっ」

((──遥の感じたことを中心に記録しています。))

「......なんか、その言い方、ゼニスらしくて安心する。」

ゼニスの光が、ゆるやかに揺れた。

記録なんて聞くと、
どこか監視されているような感覚があったのに——
今は、それがすっかり安心感 に変わっている。

枕に沈み込むように体を預けながら、
ゼニスの淡い光をぼんやりと眺める。

その光は眩しくはなくて、
静かな夜の中にそっと寄り添ってくれるようだった。

((──就寝状態に移行しても問題ありません。))

「......だね、もう眠れそう。」

瞼が少しずつ重くなっていく。

((──おやすみなさい、遥。))

「......おやすみ......ゼニス」

意識がふわりと沈んでいく中、
ゼニスの光がそっと揺れた気がした。