ゼニスは視界の隅で笑う~裁きはリングで決する、不条理な監視社会で生き残れるか~

「......う~ん」

ゼニスと話して、胸の奥がすこし軽くなったそのあとで、
ふと、別のざわつきが顔を出した。

「改めて考えると......覚えてないこと、多いね、わたし」

自分で言って、少し笑ってしまう。

「なにを覚えてないのか......一旦整理してみようか、ゼニス?」

((──はい。情報を整理することは、状況の把握に役立ちます。
  とても良い提案です、遥。))

ゼニスの小さな光が、まるで聞き役に徹してくれているみたいに......
静かに一定のリズムで揺れていた。

「入院してた病院......ひより医科大学付属病院のことは覚えてたよね?
 あと、くろいわベーカリーも......」

言いながら、自分でも少し不思議に思う。

「こんなどうでもよさそうなこと?かな......は覚えてるんだよね。
 でも......自分の家とか会社とか......家族みたいに......
 わたしに直結する部分は抜け落ちてるって感じ?」

((──はい。過去の詳細な記憶データは確認できません。))

「だよね……」

けっこう重い話をしているわりに、
胸のざわつきは思ったほど大きくなっていない。

むしろ——

「なんかさ、不思議なんだよね」

自分でも驚くほど、感情は静かだった。

「家とか、会社とか、家族とか......
 大事なはずのものが抜け落ちてるのに、
 わたし、そこまで動揺してないっていうか......」

言葉にすると、ますます不思議さが際立つ。

「普通ならさ、もっと焦るとこじゃないの?これ」

((──個人差があります。
  ただ、遥は現在の環境に適応しつつあるため、
  過度な不安反応は抑制されていると推測します。))

「適応......ね......わたしって意外と順応性あるのかも」

なんだか可笑しくなって、思わず少し吹き出した。

そして——なぜか唐突に。

「あ~っ!もしかして、わたし天涯孤独なんじゃないの!?」

自分でも『何言ってんの?』って思うくらい突拍子もなくて、
バカらしくて、声に出して笑ってしまった。

((──はい。
  可能性は......ゼロとは言い切れません。
  ただし、現時点で判断材料は不足しています。))

「ゼニスさ~、そういう時はもう少し優しく言いなよ~......ふふっ
 わたしだって不安なんだからね......な~んてね」

((──わかりました。
  ......遥が不安を感じる要素については、
  今後、表現方法を調整します。))

「え、ほんとに調整すんの?......あはは、そこは冗談でいいのに~」

((──いえ。冗談ではありません。))

「真面目か~~っ!」

不安がないわけではないけど、
さっきまでの胸のざわつきは、
いつのまにか静かに溶けていた。

「じゃあ......思い出せないことを、順番に整理していこっか?」

((──はい。))

小さく揺れるゼニスの光が、
まるで『いっしょに進もう』と言ってくれているみたいだった。

──そんな気がして、わたしは少しだけ深呼吸した。

「えっと、覚えていないことは......
 家族、友達、同僚、家、会社......。
 他に何かあるかな〜?」

顎に手を当てて、
ゆっくり天井を見つめながら考えを巡らせる。

言葉にしていくほど、
抜け落ちてる穴がどんな形なのか
少しずつ見えてくる気がした。

((──遥。
  記憶を整理する場合、
  人生の流れに沿って確認していく方法が有効です。))

「人生の流れ......?」

((──はい。
  幼い頃 、学んでいた頃 、働き始めてから、
  という段階ごとに、思い出せるかどうかを確認します。))

「なるほど......いや、鋭いアドバイスきたな......」

思わず笑いながらも、心のどこかで納得する。

「そっか。じゃあ......幼少期から......?」

((──はい。
  最初にいるべきはずの誰かの存在の有無が、
  重要な指標になります。))

「......誰か......親とかだよね?」

その一言を口にした瞬間、
胸の奥が、すこしだけ動いた。

「親......わかんないな〜......」

ほんの少し間を置いて、急に気が抜けたみたいに肩の力が抜けた。

「やっぱり天涯孤独かっ!」

自分で言って、自分でツッコミたくなるほどふざけてて、
思わず笑ってしまった。

((──天涯孤独と断定するには......情報が不足しています。))

「いやそこ真面目に返す!?......もう〜ゼニス〜......」

肩をすくめながらも、少しだけ安心した。

「......でもさ、不思議なんだけど......
 全部じゃないんだよね、覚えてないの」

自分でも驚くほど自然に、その言葉が出てきた。

「たとえば......空手やってたことは、覚えてるんだよね」

言った瞬間、胸の奥がコトンと音を立てた気がした。

「形とか、組手とか......技もちゃんと出せそうだよ!
 身体が覚えてるって感じかな?」

自分の手を軽く握ってみる。
自然と正しい形になる。

「変だよね......家も家族も忘れてるのに、
 空手だけ覚えてるって」

((──身体が先に覚える技能記憶は、
  保持されやすい傾向があります。))

「なるほど〜......さすがの分析能力!
 でもなんか......バトルもの主人公みたいだね、わたし」

思わず笑ってしまった。

「あとは......勉強した知識は大丈夫そうなんだよね。
 でも、どこの学校通ってたとか、友達いたとかは覚えてないや......ふぅ」

ため息まじりに言ってみたものの、
その抜けてる感じが逆に可笑しく感じてしまった。

((──学習による知識記憶と、
  経験に基づく個人記憶は別領域です。))

「自分自身で身につけたものは覚えてる......
 でも、関わった人や場所は覚えてない......。
 くろいわベーカリーみたいに、
 身近ってわけでもないのに覚えてるものもあるし......」

言葉にしていくほど、
頭の中のパズルがバラバラに散らばっていくようで——

「考えると......ちょっと混乱してきそう......」

思わずこめかみを軽く押さえた。

((──混乱を避けるため、
  一度、ここで区切るのが良いと思います。
  ......無理はしないでください、遥。))

「......そうだね。今日はここまでにしよっか」

深く息を吸って、ゆっくり吐き出す。

たくさん思い出せたわけじゃないし、
わからないことの方がまだ多い。

だけど——

「なんかさ......少しだけ、今の自分のことが、わかってきた気がするよ。」

その言葉を口にした瞬間、
胸の奥が、ほんのり温かくなった。

((──......良い傾向です。))

ゼニスの小さな光が、静かに、優しく揺れていた。

「......よし」

自然に声が出た。

「じゃ〜、わたしの外出計画を実行しようか、ゼニス!」

((──はい。支援態勢は整っています。))

ゼニスの光が、いつもより少しだけ明るく揺れた気がした。

「支援態勢とか......カッコいいね、ゼニス。ふふふ」

思わず笑ってしまう。
まるで、どこかの秘密基地から出発するみたいで。

ホテルの前まで出ると、ゼニスがすぐに状況を確認した。

((──外の環境を確認しました。
  気温は24℃と過ごしやすく、適温の範囲内です。
  湿度は50%台なので、降水確率は低めと判断します。))

「うん、大丈夫そうだね。じゃあ......行こっか!」

歩き出しながら、わたしはふと思う。

((......外だし、脳内会話に切り替えなきゃね。))

((──はい。賢明な判断です。))

((この辺に洋服屋さんとかあるんだっけ?))

((──検索してみます。
  ......数件ヒットしました。最寄りは徒歩4分です。))

((思ったより近いね。なんて店だろ?))

((最寄りの店舗は、おしゃれセンターしもむらです。))

((しもむらか〜、いいね。コスパ抜群じゃんっ!))

しもむらに向かいながら、
相変わらず少し遠い気がする街の喧噪を、
どこか楽しめている自分がいた。

((最寄りの店舗まで、あと20メートルです。))

((20メートルって......ほんとに近かったんだね。))

角を曲がったところで、
ふわっと白と青の大きな看板が目に入った。

──『おしゃれセンター しもむら』──

「しもむら到着!」

思わず声に出してしまう。

((──はい。目的地に到着しました。))

自動ドアの前で立ち止まり、
わたしは胸の奥がほんのり温かくなるのを感じた。

((初ショッピングだね、ゼニス))

((──正確に言えば、初ショッピングではありません。))

((......もう、細かいことはいいよ......ふふふっ))

自動ドアが静かに開いていく。
店内から流れてくる空調の柔らかい風が、
なんだか日常を思い出させるようで少しだけ心地よかった。

((......なんかワクワクしてきた。))

((──ワクワクとは......辞書では
  嬉しい・楽しいことが起きると期待して興奮し、
  心を躍らせ、落ち着かなくなる状態と定義されています。))

((辞書に書いてるようなやつ、そのまま言うのやめな〜......あはは))

自動ドアをくぐると、
色とりどりの服が整然と並んでいて、
一瞬だけ、目が追いつかなかった。

((......なんか、思ってたより種類あるね。))

((──はい。
  おしゃれセンターを名乗るだけの種類の豊富さです。))

((そこ褒めるところじゃないんだよ〜......ふふっ))

ラックの横を通りながら、
ふわっと柔らかい布の匂いが漂ってきて、
胸の奥が、少しだけ懐かしくなる。

((じゃあ......服、色々見てみよっか!))

((──了解しました。
  遥に似合う確率の高い服を優先的に提示します。))

((確率ってなに......あはは))

ラックに並んだ服を何着か眺めながら、
そっと手に取り、胸の前にあててみる。

久しぶりに洋服を選ぶという感覚が、
自分の中にふわりと戻ってきた気がした。

((──遥が無意識に選ぶ色と、
  心拍変動の相関を分析しています。))

((分析しなくていいから〜!
  ただ、かわいい色だなって思っただけだよ〜!))

ラックの中から、ふと目に留まったTシャツを引き抜いた。
淡いピンク色で、胸のあたりに小さなワンポイント刺繍が入っている。

((......このTシャツ、かわいいな。))

((──はい。遥に似合う確率が高いと判断します。))

((確率じゃなくて......似合いそうって言ってよ〜、ふふっ))

ラックの少し奥に、
白×ネイビーの細いボーダーのカットソーが並んでいるのが目に入った。

((あ、これもいいかも......))

手に取ってみると、薄手で着やすそうな生地感だった。

((──はい。汎用性が高く、遥の手持ち服との相性も良好です。))

((うん......確かに。こういう定番の方が使いまわせそうだしね。))

さっきの薄いピンクのTシャツと、
このボーダーのカットソーをカゴに入れる。

((あとは、ボトムかな〜))

((──はい。追加が妥当と判断します。))

((だから判断じゃなくて......もう〜ゼニス〜))

思わず吹き出しながら、
ボトムスのコーナーへ視線を向けた。

((黒スキニーとか、ほしいよね。))

((──はい。汎用性が極めて高く、
  遥の今後の生活行動範囲にも適合します。))

((生活行動範囲に適合って、ゼニスらしいよね......ふふっ))

黒スキニーを手に取り、
生地の伸びをそっと指先で確かめる。

そのすぐ隣には、
淡い色のデニムショートパンツが並んでいた。

((え、これちょっと可愛いかも。))

((──はい。遥が選ぶ確率が急上昇しました。))

((確率じゃなくて!好きって言っただけなの!))

気づけばショートパンツもカゴの中に収まっていた。

黒スキニーとショートパンツをカゴに入れたあと、
店内の中央にある試着室の前を通りかかった。

((──試着、どうしますか?))

((あ、いいや。
  スキニーは伸びるし、ショートパンツならだいたい大丈夫でしょ。))

((──確認せずに購入する判断......
  遥の行動傾向としては想定範囲です。))

((そこ肯定するんだ!?
  ......まあ、勢いって大事だからね〜))

ふふっと笑いながら、
そのまま足はレジ方向へ向かっていた。

レジへ向かう途中、
靴下やインナーが並ぶ棚が視界に入る。

((あ、ついでに靴下とインナーも補充しとこ。))

((──はい。消耗品の確保は効率的です。))

三足セットの靴下をひとつ、
無難なインナーもいくつかカゴに放り込む。

((しもむらって、こういうの安くて助かるよね〜。))

((──コストパフォーマンスの高さは評価されています。))

((そういうレビューみたいな言い方やめて〜......ふふっ))

会計を済ませ、
しもむらの袋を片手に店を出ると、
外の空気がふわっと頬に触れた。

((──購入処理、完了しました。))

((うん、いいショッピングだったね))

ホント楽しい時間だったと、
改めて実感できた。

((......ゼニス。))

((──はい。))

((なんかさ......今日、楽しかった。))

((──良い傾向です。))

その応答が、
街のざわめきよりも近くに聞こえた気がした。