病院で過ごす最後の夜は、とても静かだった。
この世界には、
わたしとゼニスしか存在していないように錯覚してしまう。
小さく呼吸するように光を揺らす立方体は、
視界の隅でふわりと浮かんでいる。
「ねぇ......まだ起きてる?」
((──私には睡眠という概念がありません。
ですので、常時稼働しています。))
「そういう意味じゃないってば......
なんか......話せる?」
((──はい。可能です。))
暗い病室で、
周囲を照らすことのない小さな光だけ。
「明日、退院なんだよね......
嬉しいはずなのに......
なんだろ、ちょっと......落ち着かない......」
胸の奥で、
説明のつかないざわつきが揺れた。
((──環境の変化に伴う不安反応です。
自然な生理現象です。))
「そんなふうに言われるとさ......
逆に、ちょっと安心するじゃん......」
視界の隅で漂うゼニスが、
返事の代わりのように ふわりと光をひとつ呼吸させた。
そのあとは、安心感からか眠りに落ちていたようだ。
眠る直前の記憶は、
ぼんやりと揺れるゼニスの光だけ。
まるで、
わたしが眠りに落ちるのを
静かに見守っていたみたいだった。
「ん~......おはよ~。」
目をゆっくり開けると、
視界の隅に立方体の光ない。
寝ている間に、
表示をオフにしたのかな?くらいにしか考えず、
特に気にも留めなかった。
((──おはようございます。睡眠状態は良好でした。))
確かによく眠れたような気がする。
起き上がると、なんの違和感も体にはない。
昨日よりもずっと体の軽さを感じる。
それだけで、胸の奥がじんわり温かくなった。
そのあとは──
朝食、看護師さんから説明と続き、
淡々と退院の準備が進む。
「そういえば、わたし荷物ってあるのかな?
どうやって病院にきたのかもわかんないし......」
「ねぇ......その辺のことは、ログに残ってないわけ?」
((──はい。記録には残っていません。))
「ログはないんだね......
わたしの脳と融合したのはいつなのか知らないけど......
それ以前はないってことなんでしょ?」
なんか察しがいい答えが口からでて、
自分でも少し驚いた。
((──はい。仰る通りです。))
「まぁ......仕方ないよね......
逆に全部知ってたら怖すぎるし......ふふっ」
自分を落ち着かせるように自然に笑っていた。
ベッド脇の棚に置かれた見慣れない、
うさぎのキャラクター入りのバッグを指さし、
ゼニスに聞いていた。
「それで、このバッグはわたしのものなんだよね?」
((──はい。
この病室は個室なので、
その認識で相違ないと思われます。))
「こんなバッグ、わたし……本当に選んだっけ?」
そう口にした瞬間、頭の奥でノイズが走ったような気がした。
「......っ......いっ.......」
((——大丈夫ですか?
今は、あまり無理をしないでください。))
「ん......ん、そうだね、きっと考えすぎなのかもね、あはは」
なにかを感じながらも取り繕うように笑っていた。
「よし、じゃ~退院して外の空気でも久しぶりに吸いにいこ~。」
もしかしたら、
事故の影響で記憶が欠落しているのかもしれない。
不安がないのは嘘になるけど、
こうして退院できることの方が大事。
自分に言い聞かせるように病室を後にした。
((──会計窓口まで案内可能です。))
「うん、大丈夫。
ひより医科大学附属病院は何回か来たことあるし......
たぶん、大丈夫......」
自分で歩いて廊下へ出ると、
久しぶりの感覚のせいなのか、
嬉しさが自然に込み上げてくる。
「わたし歩けてるね、あっはは」
((──運動機能には問題がないので当然かと思います。))
「うわぁ、そのなんか機械的な言い方、ホント笑える。」
ゼニスに気遣うという概念があるのか疑問だけど、
それでも、気遣ってくれているのだと思うことにした。
ナースステーションには担当の看護師さんがいて、
小さく会釈すると、やさしい笑みで返してくれた。
会計窓口にで、診察券を出し名前や生年月日を告げ、
クレジットカードで入院費の支払いをした。
「よし、家に帰ろうか~。」
その時、また脳の奥に一瞬ノイズが走った。
「家......どこだったかな?」
口に出した瞬間、
自分の声がわずかに震えている。
記憶の輪郭だけが手探りで残っている感じ......
忘れようもないはずの住所がすっぽり抜け落ちていた。
((──今は無理に帰宅先を思い出す必要はありません。
安全のため、駅前のホテル滞在を推奨します。))
「ホテル......ホテルか......」
その選択肢は妙に現実的で、
逆に帰れない理由を濁してくれるような気がした。
「......まぁ、そうだね。
家がどこか思い出せないなら......今日はホテルでもいいか。」
((──妥当な判断です。))
自動ドアが開いた瞬間、外の空気が胸に触れた。
その瞬間──
わからないけど、
なぜか世界がほんの少しだけ薄いように見えた。
すれ違う人たちも、雑踏の音も、
全部いつも通りの日常に見える。
なのに、そのいつも通りが、
自分にとって本当に正しいのかどうか、
確信が持てなかった。
((──ホテルまでは徒歩6分です。体調に問題はありません。))
「うん......じゃあ、歩いていこうか。」
自分の足で歩けることの喜びを噛みしめ、
ほんの少しの違和感を胸に、おそらく久しぶりの外へ足を一歩。
外に出た、
たったそれだけのことかもしれない。
でも、気分は明らかに高揚していた。
なんとなく曖昧な記憶——
それでも、覚えていることもあった。
ふと、頭によく食べていたものが思い浮かぶ。
「あっ!そうだっ!くろいわベーカリーいこっ!」
思わず声が弾んだ。
退院して最初に食べたいものなんて、もう決まっている。
わたしのエナドリといえば、メロンパン。
甘くて、ふわふわで、あれを一口食べるだけで 、
まだ頑張れる......っていつも思っていた。
「......うん!メロンパン食べたいっ!」
自然と足がそっちへ向く。
ほんの少しだけ胸の奥の不安が薄れて、
代わりに小さなわくわくが戻ってきた。
世界はまだ、ちゃんと続いている。
そんな気がした......
病院の前の道路を渡り、
くろいわベーカリーの前に立つ。
「変わんないな~って、当たり前か......ふふ」
どのくらい病院で寝ていたのかはわからないが、
とても久しぶりにこの店にきた感覚だった。
ガラス越しに見える店内は、
知っているはずなのに、なぜか少しだけ色が薄いような。
パンの焼ける甘い香りは、いつも通りに漂っている。
いつも通り、知っているはず......なのに......
ガラス越しに見る店内は、
少し奥行きの浅い写真みたいに見えた。
「......う~ん......気のせいかな?」
思わず小さくつぶやき、胸の奥が締め付けられる。
でも、この店のメロンパンを食べる。
その気持ちだけは、変わらなかった。
軽く深呼吸し、
自動ドアの前に一歩踏み出した。
店内に入り、
お気に入りのメロンパン2つとクリームパンをトレイに乗せ、
レジへ向かった。
「ありがとうございました〜」
店員さんの声は、
きっと同じはず、いつも通り明るい挨拶のはず......
知っているはずなのに......
まるで録音された音声みたいに聞こえる。
でも、袋の中から漂う甘い香りは確かで、
それが現実をつなぎ止めているような気がした。
「ホテル着いたら、食べよ......」
違和感?久しぶりだから?
胸のざわつきはある......
でも、こうしていることが幸せなのも事実だよね......
自分を納得させるように、そう言い聞かせた。
「あんた、今日はぜんぜん話さないね、あはは」
歩きながら笑ってみせるけれど、
返事は......すぐには返ってこなかった。
いつもなら、
((——聞こえています。))
みたいに即レスしてくるはずなのに。
ほんの数秒の間が、
やけに長く感じられた。
((──会話頻度を下げています。
周囲の環境情報を優先処理中です。))
「周囲……?」
((──問題はありません。
気にしないでください。))
「そっか......なら、いいんだけど......」
胸の奥に、ほんの小さな影が落ちた気がした。
わたしのため?
他になにか──
......いや、考えるのはやめよう。
ノイズがまた走る気配がして、思考をそっと遮った。
「ホテルにいって~♪メロンパ~ン食べるぞ~♪」
わざとらしく鼻歌を歌って、
空気をごまかすみたいに歩き続けた。
駅前に近づくにつれて、
人の声や車の音が多くなってきた。
でも、なぜか少し遠く感じる、
プールで遊んで耳に水が入っているような感覚。
「......わたし事故で耳もおかしくなったのかな?」
思わず立ち止まる。
でも周りの人は普通に歩き、普通に話している。
わたしだけが、少しだけ別の場所に立っているみたいだった。
((──問題ありません。
聴覚処理に異常は検出されていません。))
「うん......そうなんだろうね。」
でも、それ以上は考えない。
きっと考えてもいいことはないと思うし......
わたしはパンの袋をぎゅっと握り直し、
ホテルの看板を見上げた。
「到着〜!チェックインして休むぞ〜!」
自分に勢いをつけるように、明るく声を出した。
ホテルの自動ドアをくぐると、
フロントのロビーは落ち着いた照明が灯っている。
一切物音もなく、すごく静かな空間だった。
「すみません......
予約してないんですけど、空いてるお部屋ありますか?」
声をかけると、
フロントの女性がぱっと顔を上げ、
にこやかに微笑んだ。
「はい、大丈夫ですよ。
本日ご案内できるお部屋はこちらになります。」
タブレットをくるっと回して差し出される。
そこに映っていたのは、1212号室。
「......12階かな?」
「へぇ、このホテル12階建てだったんだ~。」
旅行でホテルに泊まるのが楽しみな子供のように、
思わず笑みがこぼれた。
((──このホテルの最上階です。
正確に言えば、最上階は天然温泉になっているので、
客室としては、といった意味にはなりますが。))
((さらに静音性が高く、休息に最適です。))
「いやいや、ホテルの回し者かよっ!あっはは!」
ゼニスの形式的な説明で、
ホテルに泊まることが、より楽しみになった。
フロントの女性から、
カードキーを受け取り、
エレベーターの方へ向かった。
エレベーターの『▲12』ボタンを押し、
扉が閉まると、ふっと息が漏れた。
「最上階かぁ......なんか、すごいね......ふふっ」
((──良質な休息が必要です。))
「うん......ありがと......」
ゼニスの気遣い?に、
優しさと心地よさを感じた。
AIの気遣いなんて、
きっとあり得ないというのも、
理解はしていると思う。
そんなことを考えている間に、
エレベーターは静かに止まり、
12階のランプがポンっと灯った。
廊下に一歩足を踏み出すと、
空気が少しひんやりしていて、
音が吸い込まれるような静けさがあった。
「......ホテルってホント静かだね~。」
思わずつぶやくと、
((──最上階ですので、騒音レベルは低くなります。))
「そういう意味じゃなくて......あ、もういいや」
軽く笑ってごまかす。
ドアにカードキーを挿しランプが緑に変わり、
部屋に入った。
室内は、普通のビジネスホテルと変わらない。
当たり前に整っていて、清掃が行き届いた綺麗な空間だった。
「わぁ~、ホテルなんて久しぶりだな......」
ホテルなんていつ以来なんだろ?
そんなことを思いながら、
バッグを置いてベッドに腰を下ろした。
メロンパンの甘い香りが袋越しにほんのり漂う。
「とりあえず、これ食べたら......シャワーして......寝よっかな。」
((──はい。それがよろしいかと思います。))
「ふふ……なんか今日のあんた、やさしいね?」
((──そう感じていただけるなら幸いです。))
「ん? なんか今の……かわいくない?」
返事はなかった。
ただ静けさだけが、そっと部屋を満たしていく。
「……まぁ、いいか。今日はもう休むね。」
そう言って天井を見上げると、
部屋の光がまるで呼吸みたいに
ほんのわずかに揺らいだ気がした。
この世界には、
わたしとゼニスしか存在していないように錯覚してしまう。
小さく呼吸するように光を揺らす立方体は、
視界の隅でふわりと浮かんでいる。
「ねぇ......まだ起きてる?」
((──私には睡眠という概念がありません。
ですので、常時稼働しています。))
「そういう意味じゃないってば......
なんか......話せる?」
((──はい。可能です。))
暗い病室で、
周囲を照らすことのない小さな光だけ。
「明日、退院なんだよね......
嬉しいはずなのに......
なんだろ、ちょっと......落ち着かない......」
胸の奥で、
説明のつかないざわつきが揺れた。
((──環境の変化に伴う不安反応です。
自然な生理現象です。))
「そんなふうに言われるとさ......
逆に、ちょっと安心するじゃん......」
視界の隅で漂うゼニスが、
返事の代わりのように ふわりと光をひとつ呼吸させた。
そのあとは、安心感からか眠りに落ちていたようだ。
眠る直前の記憶は、
ぼんやりと揺れるゼニスの光だけ。
まるで、
わたしが眠りに落ちるのを
静かに見守っていたみたいだった。
「ん~......おはよ~。」
目をゆっくり開けると、
視界の隅に立方体の光ない。
寝ている間に、
表示をオフにしたのかな?くらいにしか考えず、
特に気にも留めなかった。
((──おはようございます。睡眠状態は良好でした。))
確かによく眠れたような気がする。
起き上がると、なんの違和感も体にはない。
昨日よりもずっと体の軽さを感じる。
それだけで、胸の奥がじんわり温かくなった。
そのあとは──
朝食、看護師さんから説明と続き、
淡々と退院の準備が進む。
「そういえば、わたし荷物ってあるのかな?
どうやって病院にきたのかもわかんないし......」
「ねぇ......その辺のことは、ログに残ってないわけ?」
((──はい。記録には残っていません。))
「ログはないんだね......
わたしの脳と融合したのはいつなのか知らないけど......
それ以前はないってことなんでしょ?」
なんか察しがいい答えが口からでて、
自分でも少し驚いた。
((──はい。仰る通りです。))
「まぁ......仕方ないよね......
逆に全部知ってたら怖すぎるし......ふふっ」
自分を落ち着かせるように自然に笑っていた。
ベッド脇の棚に置かれた見慣れない、
うさぎのキャラクター入りのバッグを指さし、
ゼニスに聞いていた。
「それで、このバッグはわたしのものなんだよね?」
((──はい。
この病室は個室なので、
その認識で相違ないと思われます。))
「こんなバッグ、わたし……本当に選んだっけ?」
そう口にした瞬間、頭の奥でノイズが走ったような気がした。
「......っ......いっ.......」
((——大丈夫ですか?
今は、あまり無理をしないでください。))
「ん......ん、そうだね、きっと考えすぎなのかもね、あはは」
なにかを感じながらも取り繕うように笑っていた。
「よし、じゃ~退院して外の空気でも久しぶりに吸いにいこ~。」
もしかしたら、
事故の影響で記憶が欠落しているのかもしれない。
不安がないのは嘘になるけど、
こうして退院できることの方が大事。
自分に言い聞かせるように病室を後にした。
((──会計窓口まで案内可能です。))
「うん、大丈夫。
ひより医科大学附属病院は何回か来たことあるし......
たぶん、大丈夫......」
自分で歩いて廊下へ出ると、
久しぶりの感覚のせいなのか、
嬉しさが自然に込み上げてくる。
「わたし歩けてるね、あっはは」
((──運動機能には問題がないので当然かと思います。))
「うわぁ、そのなんか機械的な言い方、ホント笑える。」
ゼニスに気遣うという概念があるのか疑問だけど、
それでも、気遣ってくれているのだと思うことにした。
ナースステーションには担当の看護師さんがいて、
小さく会釈すると、やさしい笑みで返してくれた。
会計窓口にで、診察券を出し名前や生年月日を告げ、
クレジットカードで入院費の支払いをした。
「よし、家に帰ろうか~。」
その時、また脳の奥に一瞬ノイズが走った。
「家......どこだったかな?」
口に出した瞬間、
自分の声がわずかに震えている。
記憶の輪郭だけが手探りで残っている感じ......
忘れようもないはずの住所がすっぽり抜け落ちていた。
((──今は無理に帰宅先を思い出す必要はありません。
安全のため、駅前のホテル滞在を推奨します。))
「ホテル......ホテルか......」
その選択肢は妙に現実的で、
逆に帰れない理由を濁してくれるような気がした。
「......まぁ、そうだね。
家がどこか思い出せないなら......今日はホテルでもいいか。」
((──妥当な判断です。))
自動ドアが開いた瞬間、外の空気が胸に触れた。
その瞬間──
わからないけど、
なぜか世界がほんの少しだけ薄いように見えた。
すれ違う人たちも、雑踏の音も、
全部いつも通りの日常に見える。
なのに、そのいつも通りが、
自分にとって本当に正しいのかどうか、
確信が持てなかった。
((──ホテルまでは徒歩6分です。体調に問題はありません。))
「うん......じゃあ、歩いていこうか。」
自分の足で歩けることの喜びを噛みしめ、
ほんの少しの違和感を胸に、おそらく久しぶりの外へ足を一歩。
外に出た、
たったそれだけのことかもしれない。
でも、気分は明らかに高揚していた。
なんとなく曖昧な記憶——
それでも、覚えていることもあった。
ふと、頭によく食べていたものが思い浮かぶ。
「あっ!そうだっ!くろいわベーカリーいこっ!」
思わず声が弾んだ。
退院して最初に食べたいものなんて、もう決まっている。
わたしのエナドリといえば、メロンパン。
甘くて、ふわふわで、あれを一口食べるだけで 、
まだ頑張れる......っていつも思っていた。
「......うん!メロンパン食べたいっ!」
自然と足がそっちへ向く。
ほんの少しだけ胸の奥の不安が薄れて、
代わりに小さなわくわくが戻ってきた。
世界はまだ、ちゃんと続いている。
そんな気がした......
病院の前の道路を渡り、
くろいわベーカリーの前に立つ。
「変わんないな~って、当たり前か......ふふ」
どのくらい病院で寝ていたのかはわからないが、
とても久しぶりにこの店にきた感覚だった。
ガラス越しに見える店内は、
知っているはずなのに、なぜか少しだけ色が薄いような。
パンの焼ける甘い香りは、いつも通りに漂っている。
いつも通り、知っているはず......なのに......
ガラス越しに見る店内は、
少し奥行きの浅い写真みたいに見えた。
「......う~ん......気のせいかな?」
思わず小さくつぶやき、胸の奥が締め付けられる。
でも、この店のメロンパンを食べる。
その気持ちだけは、変わらなかった。
軽く深呼吸し、
自動ドアの前に一歩踏み出した。
店内に入り、
お気に入りのメロンパン2つとクリームパンをトレイに乗せ、
レジへ向かった。
「ありがとうございました〜」
店員さんの声は、
きっと同じはず、いつも通り明るい挨拶のはず......
知っているはずなのに......
まるで録音された音声みたいに聞こえる。
でも、袋の中から漂う甘い香りは確かで、
それが現実をつなぎ止めているような気がした。
「ホテル着いたら、食べよ......」
違和感?久しぶりだから?
胸のざわつきはある......
でも、こうしていることが幸せなのも事実だよね......
自分を納得させるように、そう言い聞かせた。
「あんた、今日はぜんぜん話さないね、あはは」
歩きながら笑ってみせるけれど、
返事は......すぐには返ってこなかった。
いつもなら、
((——聞こえています。))
みたいに即レスしてくるはずなのに。
ほんの数秒の間が、
やけに長く感じられた。
((──会話頻度を下げています。
周囲の環境情報を優先処理中です。))
「周囲……?」
((──問題はありません。
気にしないでください。))
「そっか......なら、いいんだけど......」
胸の奥に、ほんの小さな影が落ちた気がした。
わたしのため?
他になにか──
......いや、考えるのはやめよう。
ノイズがまた走る気配がして、思考をそっと遮った。
「ホテルにいって~♪メロンパ~ン食べるぞ~♪」
わざとらしく鼻歌を歌って、
空気をごまかすみたいに歩き続けた。
駅前に近づくにつれて、
人の声や車の音が多くなってきた。
でも、なぜか少し遠く感じる、
プールで遊んで耳に水が入っているような感覚。
「......わたし事故で耳もおかしくなったのかな?」
思わず立ち止まる。
でも周りの人は普通に歩き、普通に話している。
わたしだけが、少しだけ別の場所に立っているみたいだった。
((──問題ありません。
聴覚処理に異常は検出されていません。))
「うん......そうなんだろうね。」
でも、それ以上は考えない。
きっと考えてもいいことはないと思うし......
わたしはパンの袋をぎゅっと握り直し、
ホテルの看板を見上げた。
「到着〜!チェックインして休むぞ〜!」
自分に勢いをつけるように、明るく声を出した。
ホテルの自動ドアをくぐると、
フロントのロビーは落ち着いた照明が灯っている。
一切物音もなく、すごく静かな空間だった。
「すみません......
予約してないんですけど、空いてるお部屋ありますか?」
声をかけると、
フロントの女性がぱっと顔を上げ、
にこやかに微笑んだ。
「はい、大丈夫ですよ。
本日ご案内できるお部屋はこちらになります。」
タブレットをくるっと回して差し出される。
そこに映っていたのは、1212号室。
「......12階かな?」
「へぇ、このホテル12階建てだったんだ~。」
旅行でホテルに泊まるのが楽しみな子供のように、
思わず笑みがこぼれた。
((──このホテルの最上階です。
正確に言えば、最上階は天然温泉になっているので、
客室としては、といった意味にはなりますが。))
((さらに静音性が高く、休息に最適です。))
「いやいや、ホテルの回し者かよっ!あっはは!」
ゼニスの形式的な説明で、
ホテルに泊まることが、より楽しみになった。
フロントの女性から、
カードキーを受け取り、
エレベーターの方へ向かった。
エレベーターの『▲12』ボタンを押し、
扉が閉まると、ふっと息が漏れた。
「最上階かぁ......なんか、すごいね......ふふっ」
((──良質な休息が必要です。))
「うん......ありがと......」
ゼニスの気遣い?に、
優しさと心地よさを感じた。
AIの気遣いなんて、
きっとあり得ないというのも、
理解はしていると思う。
そんなことを考えている間に、
エレベーターは静かに止まり、
12階のランプがポンっと灯った。
廊下に一歩足を踏み出すと、
空気が少しひんやりしていて、
音が吸い込まれるような静けさがあった。
「......ホテルってホント静かだね~。」
思わずつぶやくと、
((──最上階ですので、騒音レベルは低くなります。))
「そういう意味じゃなくて......あ、もういいや」
軽く笑ってごまかす。
ドアにカードキーを挿しランプが緑に変わり、
部屋に入った。
室内は、普通のビジネスホテルと変わらない。
当たり前に整っていて、清掃が行き届いた綺麗な空間だった。
「わぁ~、ホテルなんて久しぶりだな......」
ホテルなんていつ以来なんだろ?
そんなことを思いながら、
バッグを置いてベッドに腰を下ろした。
メロンパンの甘い香りが袋越しにほんのり漂う。
「とりあえず、これ食べたら......シャワーして......寝よっかな。」
((──はい。それがよろしいかと思います。))
「ふふ……なんか今日のあんた、やさしいね?」
((──そう感じていただけるなら幸いです。))
「ん? なんか今の……かわいくない?」
返事はなかった。
ただ静けさだけが、そっと部屋を満たしていく。
「……まぁ、いいか。今日はもう休むね。」
そう言って天井を見上げると、
部屋の光がまるで呼吸みたいに
ほんのわずかに揺らいだ気がした。
