ゼニスは視界の隅で笑う~裁きはリングで決する、不条理な監視社会で生き残れるか~

コン、コン。

さっきまでの静けさが嘘みたいに、軽いリズムのノックが病室に響いた。
返事をする間もなく、扉がそっと開き、看護師が顔を覗かせる。
こちらを見るなり、ぱっと驚いた表情を浮かべた。

「七瀬さん!起き上がっても大丈夫ですか?
どこか痛いところはありませんか?」

心配そうな看護師の顔を見ながら、

「え......あ、はい。大丈夫......だと思います」

声が自分でも驚くほどかすれていた。

起き上がるのが不思議なくらい、寝ていたってことなのかな?
まぁ......事故があったことを考えれば、当たり前の反応かもね......ふふっ......

そのあたりに関しては、あえて口にすることをやめた。

看護師は、座った姿勢をもう一度確認するように見つめ、安堵するように小さく息をついた。

「七瀬さん、起き上がれているんですね。本当に良かった......」

その声色は、安心したような、でも、なんとなくだけど......
驚きを引きずっているような響きだった。

看護師は、もう一度こちら振り向いて小さく頷く。

「では、先生を呼んできますね。
少しだけこのまま待っていてください」

そう言って、慌ただしく部屋を出ていった。

扉が閉まる音が遠くに消える。

そのタイミングで、ゼニスに質問を投げかけた。

「ねぇ......わたしって、そんなに寝てたわけ?」

((——はい。あなたの睡眠時間は長期に分類されます。
ただし詳細な経過は、あなたが望むのであれば、お答えします。))

「うわ、なんか言い方が怖いんだけど......」

胸のざわつきが、さっきより少し強くなったかも......
ゼニスの一言で、全てを悟ったような気がした。

おそらく、数日......?
いや、あの看護師の表情からして......数ヶ月だったとしてもおかしくない。

きっと、そうなんだろう。

理解した瞬間、胸の奥がきゅっと縮む。
けれどその痛みを、わざと深く追わないようにした。

なにも考えないことにしよう。
だって生きてるし、こうして......目覚めることができた。

それだけで十分だと、自分に言い聞かせるように納得させる。

静かな病室は、わたしの胸の鼓動だけが響いているような気がした......
と、その静けさを破るように。

コン、コン。

さっきの看護師よりも、わずかに重みのあるノック音。

扉が開き、白衣をまとった初老の医師と、
その少し後ろに先ほどの看護師が控えるように立っていた。

白髪混じりの髪はきちんと後ろへ撫でつけられ、
深い皺の刻まれた目元には、長年の臨床で培われた観察の癖が宿っていた。

「七瀬さん、目が覚めたと聞きました。」

低く落ち着いた声。
医師は、とても慎重に言葉を選んでいるような節があった。

後ろの看護師は、こちらの表情と体の状態を気遣うように、そっと医師の横へ並んだ。

医師はベッドのそばで立ち止まり、
まるで経過の記録と一致しているか確認するように、じっとこちらを見つめている。

「体の具合はどうですか?痛みや違和感はありませんか?」

優しい声色。
けれどその奥には、こちらの返答を推し量るような静かな圧が潜んでいた。
医師はカルテを確認しながら、いくつかの質問を淡々と投げかける。

「頭痛はありますか?」

「......少しだけ......でも、我慢できる程度です。」

「吐き気は?めまいは?」

「いえ......特には......」

「指先は動きますか?」

医師の言葉に合わせて、
ゆっくりと両手の指を開いたり閉じたりしてみる。

「大丈夫......だと思います......」

淡々とした会話が続く——

会話中も、医師の視線だけは、こちらの動向を注視しているように感じた。
一通り答え終えると、医師は深く息をつき、カルテを閉じる。

「大きな問題は、今のところ見当たりません。
念のため、いくつか検査を行いますが、問題がなければ、退院の方向でお話を進めましょう」

へぇ......意外にも退院できるんだ。
医師が言ってるんだから、大丈夫ってことなのかな?

その時、頭の奥でゼニスの声がそっと揺れた。

((——退院は、安全性が確保されているからこその判断です。))

「まぁ......そうなんでしょ......ふふっ......」

自分に言い聞かせるように小さく笑ったその直後、
頭の奥でゼニスの気配がふっと静かになる。

その様子に気づくはずもなく、
医師は軽く頷き、カルテをめくりながら淡々とした口調に戻った。

「では七瀬さん。これからいくつか検査を行います。
血液、CT、簡単な神経反射のチェックといった基本項目です。
どれも大きな負担にはなりませんので、ご安心ください。」

看護師が横で小さく頷き、
必要な準備を確認するように視線を落とす。

「結果に問題がなければ、退院の日程を調整しましょう。
あまり緊張なさらずに、ゆっくりで構いませんよ」

そう告げると、医師と看護師は静かに部屋を後にした。
閉まった扉の向こうで、かすかに足音が遠ざかっていく。

退院できるんだ......
どのくらい寝ていたのかはわからないけれど、
それでも、やっぱり嬉しい。

そんなことをぼんやり考えていた、そのとき。

ドアが開き、看護師が顔をのぞかせる。

「七瀬さん、失礼しますね。
検査は明日の予約がとれました。ですので、今日はゆっくり休んでください」

そう言って、にこやかに微笑む。

「検査の結果に問題がなければ、明後日には退院できる予定です。
その際の手続きなどは、また明日ご説明しますね」

退院——
今度は少し現実味を帯びて、その言葉が胸に落ちていく。

看護師は軽く会釈して、そっと扉を閉めた。

また静けさが戻る病室で、
嬉しさと少しの不安、ほんの少しだけの不安を......
胸の奥にそっと押し隠すように深呼吸をした。

静かすぎる病室には、胸の鼓動だけが響いているように感じる。
退院できる期待と不安を抱えたまま、意識はゆっくりと深く沈んでいった。

翌朝——

カーテン越しの朝の光は柔らかく、ただ目を開けただけなのに、
なんだか胸の奥がじんわり温かくなった。

起きられること自体が、こんなにも嬉しいなんて思いもしなかった。
少しだけ不思議な気持ち......

((——おはようございます。体調は安定しているようです。))

「......ん、おはよ。
体調が安定してるとかもわかるの?
めっちゃ監視されてるみたいなんですけど~......あはは、でも、ありがと。」

((——監視ではありません。
安全のための、必要最小限のモニタリングです。))

「はいはい、そういうことにしておきますよ~。」

軽く笑いながら上体を起こすと、
まだ少しだけ腕にだるさが残っていた。

しばらくして届いた朝食は、
ほとんど米の粒が残っていないようなお粥と、具材のない味噌汁。

「あぁ~、さすがに固形物はないんだね......」

手術後かよっ、とツッコミを入れたかったが、
病院の配慮に感謝した。

それよりも、
お粥の器をそっと手に持って、
自分でスプーンを口まで運べること。

——その当たり前みたいな動作が、胸の奥にじ~んと来た。

((——食事動作も問題なさそうです。手の震えもありません。))

「......ほんと細かいところまで見てるよね......
地味に恥ずかしいんだけど......でも、ありがと。」

温かいものが胃に落ちていく感覚に、
ほっと息が漏れた。

しばらくぼーっとしていると、
ふと、頭の中で響くゼニスの声が
思っていた以上に近いことに気づく。

「......ねぇ」

((——はい。何でしょう。))

「脳内で直接会話するのってさ......地味に疲れるんだけど。
いや、別に嫌じゃないんだけどさ......
常に内側に声がするって、慣れないというか......なんというか。」

自分で言いながら、なんとなく頬が熱くなった。

((——疲労軽減のための補助方法があります。))

「補助方法?」

((——視覚投影による外部具現化モードが使用可能です。
視神経に干渉し、実際に目の前に存在するようにする方法で、私を表示する事ができます。))

「えっ......そんなこと、できるの?」

((——はい。必要であれば。))

「いや、必要っちゃ必要なんだけど......ていうか姿ってあるの?
その......なんか......人型とか?」

数秒の沈黙。

((——人型は非推奨です。
情報量が多いため、脳負荷が高まります。))

「あ、うん、じゃあ、どんな感じなの?」

((——立方体での表示が最適です。))

「立方体......って......
それってわたしがよく触ってた、ルービックキューブみたいなやつ……?」

((——形状としては類似しますが、単一色です。))

「単色ルービックキューブって揃えようないじゃん。つまんないね、それ」

((——パズル機能は不要です。))

「いや知ってるよ!?遊び心とかさ......あるじゃん......」

((——必要であれば、検討します。))

「絶対わかってない返しだよそれ......ふふ」

思わず苦笑したそのタイミングで、
病室の光が少しだけ揺れたように見えた。

((——では、表示しますか?))

「......え、ちょっと待って......
表示したとしても、声は脳内で聞こえるんだよね?」

((——はい。声の伝達経路は変わりません。
ただし視覚情報により、脳負荷は一定量軽減されます。))

「なるほどね......
とりあえず、検査終わってからにしない?
なんか今だと落ち着かないしさ。」

((——承知しました。))

その返事を最後に、脳内の声はふっと静かになった。

コンコン——

タイミングを見計らったように病室の扉がノックされる。

「七瀬さん、これから検査にいきましょう。」

白衣の看護師がにこやかに顔をのぞかせ、
そのまま車椅子の準備を整えてくれる。

そこから先は、流れるように時間が過ぎていった。

血液検査、CT、神経反射、どれも大げさな検査ではなかった。
何度か立ったり座ったりするだけで、自分の体が少しずつ自分に戻っていく感覚。

検査のあとは、
落ち着いた優しい声の医師から、明日の退院についての説明を受けた。
続けて、看護師から必要な手続きの案内。

気づけば、もう外は夕方だった。

病室に戻ると、
ほんのり橙色の光がカーテン越しに差し込んでいる。

そして——

病院生活最後の夜になった。

照明を落とした病室は静かで、
昼間の慌ただしさが嘘のようだ。

ひとつ息を吐くと、
胸の中にまだ少し残っている緊張がゆらりと揺れた。

明日で、ここを出る。

その事実が、嬉しいような、少しだけ怖いような......
そんな不思議な気持ちを連れてくる。

ベッドに腰を下ろしながら、ふと思い出した。

「......ねぇ。さっきの表示って......今、できる?」

落ち着いた声で問いかけたつもりなのに、
胸の奥がふわりと跳ねた。

((——はい。可能です。))

「じゃあ......お願い。ちょっと、見てみたい」

返事は短く、静かだった。

病室の空気が——
ほんのわずかに震えた気がした。

照明を落とした薄暗い部屋の中、
視界の隅がゆっくりと光を帯びる。

最初は、弱い残像のような淡い光。
それが少しずつ形を持ち始め、輪郭が固まっていく。

やがて——

手のひらほどの立方体が、ふわりと浮かび上がった。
単色の、どこまでも均一な色をまとったキューブ。
表面はかすかに光を反射し、呼吸しているみたいに微かに揺れている。

「おっ......ほんとに、立方体なんだね......
なんだろ、ルービックキューブなのかな?親戚みたいな?」

((——形状の安定性が高く、視神経への負荷が最も低い形式です。))

「単色なのは......やっぱり、つまんないけどね。」

((——パズル機能は不要です。))

「その返し......ブレないんだね......あはは」

思わず笑ってしまう。
こんな姿なのに、なぜかそこに確かに存在を感じた。

キューブは、
視線に反応するように、ゆっくりと角度を変えた。

なんだろう......
初めてなのに、不思議と怖くない。

むしろ——
ずっと前から、この部屋にいたみたいな安心感。

((——表示を続けますか。))

「うん......今日は......そのまま、そこにいて......」

キューブは、静かに光を揺らした。

まるで((——了解))と言ったように。