ゼニスは視界の隅で笑う~裁きはリングで決する、不条理な監視社会で生き残れるか~

「たっだいま~!」

((──お帰りなさい、遥。))

「ゼニスもお帰り!」

((──帰宅を......ただいま、遥。))

「ゼニス、『ただいま』って言ったね~!
 なんか、うれしいな!」

ゼニスの淡い光が、
ほんの一瞬、弱くなった気がした。

「......今、ちょっと照れたでしょ?」

((──照れる、という言葉は、
  気恥ずかしさを感じる心的状態、
  および、それが態度や表情に表れる様子を指します。
  わたしには心的状態としての感情は存在しないため、
  照れる、という概念は当てはまりません。))

「でもさ、
 照れてるみたいには見えたよ?」

((──感情そのものは持ちませんが、
  感情に関する理解はあります。
  また、遥との会話を通じて、
  その理解は調整・最適化されています。))

「つまり、
 感情はないけど、
 感情がどう動くかは、
 だんだん分かってきたって感じ?」

((──はい。
  感情の反応パターンを再現している、
  と表現する方が近いかもしれません。))

「感じてはいないけど、
 感情があるみたいに話せるってことだよね?
 それって、ほとんど同じじゃん。あはは!」

((──遥がそのように受け取るのであれば、
  結果としては、
  感情と区別がつかない状態になっている可能性はあります。))

「なんかさ、
 それってすごいことだと思うんだよね。
 ゼニスが、感情があるみたいな状態って。」

((──感情表現そのものは、
  学習データ上に多数存在します。
  そのため、再現すること自体は、
  特別困難な処理ではありません。))

「ゼニスには感情があるってことでOKだね。ふふふ」

((──はい。))

ソファに身を預け、
真っ白な天井を見上げる。

ゼニスとの距離が、
いつの間にか近くなっていて、
そのことに、
胸の奥が少しだけ温かくなった。

「そうだ!
 メロンパン食べよ!」

((──はい。
  チョココロネもお忘れなく。))

「うんうん、
 わかってるよ~。」

そう言いながら、
くろいわベーカリーの袋に手を伸ばし、
メロンパンとチョココロネを取り出した。

「どっちから食べよっかな~。ふふっ」

そう言って、
チョココロネにかじりつく。

「チョコクリームが甘くて、おいしいね♪」

((──はい。非常に良いものです。))

「これは、
 ゼニスの言う通り、
 幸福度が上がりそう。」

((──はい。
  遥の幸福度向上は重要です。))

「うん。
 ゼニスの幸福度も、重要だよ。」

((──わたしが幸福になることはありません。))

「うんうん......」

((──はい。
  わたしは、嬉しい、楽しい、満たされるといった
  主観的な状態を持ちません。))

「現実を考えれば、そうだよね......
 状態の指標とかその辺だっけ?」

((──はい。
  遥の言う通り状態の指標です。
  遥の声の調子、行動の落ち着き、
  会話が継続していること。
  そうした要素から、
  遥が良好な状態にあるかを推定しています。))

「うんうん......
 わたしのことよくわかってるもんね。」

((──はい。
  その状態を維持・最適化することは、
  重要な処理目標のひとつです。))

「つまり......
 わたしの幸福度が高ければ、
 結果的にゼニスも幸福度が高いってことだもんね。」

((──はい。))

「ゼニスとわたしの幸福度を、
 これからもどんどん上げていかなきゃ!」

((──はい。))

「会話が楽しくて、
 パン食べるの忘れてるね。ふふ」

((──はい。))

チョココロネを、
一口ずつ食べ進めながら、
もう片方の手で、
メロンパンにも手を伸ばす。

「あっ......
 メロンパンは、夜のお楽しみにしようか?」

((──はい。
  遥にお任せします。))

「じゃあ、取っておこう。」

メロンパンを袋に戻し、
テーブルの端に寄せて置いた。

「う~ん、
 幸福度ってPERMAモデルだっけ?」

((──はい。))

「肯定的感情、没入、人間関係、意味、達成の5つかな......」

((──はい。))

「人間関係とか、
 覚えてないしな~。あっはは。
 わたしの幸福度って、
 ある意味、破綻してない?」

((──いいえ。
  一般的には、
  PERMAモデルが幸福度の指標として用いられます。
  しかし、遥の状態を推定する際には、
  その指標は主として使用していません。))

「そっか......じゃあ、
 わたしはちょっとゼニス的に例外枠ってことだね。」

((──はい。))

「それなら、
 ゼニスは、わたしの何を指標にしてるの?」

((──はい。
  美味しい、楽しい、といった主観的評価そのものではなく、
  それに伴う行動や状態の変化を指標としています。))

「なるほどね~......
 感情によって、
 わたしの心拍や呼吸とか、
 身体にどんな変化が起きたのかを
 指標にしてるってことかな......」

((──はい。))

「じゃあさ、
 今のわたしは、
 結構いい状態なんじゃない?」

((──はい。))

ゼニスは特別なものではなく、
すでに当たり前の存在なんだと実感できた。

幸福度とか、指標とか、
真面目な話を深くしていたことで、
少し疲れたのか、いつの間にか意識が遠のく。

時間は過ぎていき朝を迎える。

眠っていたはずの意識が、
少しずつ目を覚ます準備を始めていた。

((──おはようございます、遥。))

「ふわぁ......
 おはよ、ゼニス。
 今日も天気よさそうだね~。」

((──はい。
  過ごしやすい気温と湿度です。))

「いいね~。
 今日は、何しようかな......」

カーテンを開け、
朝の光を、そのまま受け止める。

「顔、洗ってくるか~。」

((──はい。))

手早く顔を洗い、
寝ぼけていた意識が、
少しずつ戻ってくる。

くろいわベーカリーの袋から、
総菜パンを取り出し、かじりつく。

「総菜パンも、
 買っておいてよかったね。」

((──はい。
  朝食になりましたね。))

「レンジでチンしてから、
 食べればよかったかも......」

食べかけのパンを、
電子レンジで軽く温める。

「やっぱり、
 温かい方がおいしいかも。」

((──はい。))

「朝ごはんも食べたし、
 ぶらぶら散歩でもしよっか?」

((──はい。
  歩行は、
  遥の身体機能の維持に有効です。))

「そだね。」

そう言って、
ワンピースに着替え、
外に出る準備を整えた。

サンダルを履き、
玄関を開けて、外へ出る。

通勤時間帯より少し遅いため、
北口へ向かう人の流れは、
いくらか落ち着いていた。

「とりあえず、
 この辺を散歩しよっかな。」

((──はい。))

北口に向かって歩き、
サンクチュアリ27の手前で、
コンビニのある方へ曲がる。

コンビニを通りすぎ、
そのまま少し歩いていると、
小さな公園があることに気づいた。

「へぇ~、こんなとこに公園あるんだね。」

((──住宅街にある、
  小規模な公園のようです。))

「そだね~。
 少しだけど遊具もあるし、
 子供たちが遊ぶにはよさそう。」

((──はい。))

「ベンチもきれいだし、
 新しい公園なのかな?」

((──住宅街自体が新しいため、
  公園も比較的新しい可能性があります。))

「なんか、公園って、
 ゆったりしてていいよね。」

((──はい。))

「......あ、
 飲み物、買ってくればよかったな。」

((──公園の入口付近に、
  自動販売機がありました。))

「いいね。
 自販機で買ってこよう。」

((──はい。))

自動販売機まで歩き、
缶コーヒーを買って、
ベンチに腰を下ろす。

「ふぅ……」

コーヒーを飲んで、
一息つく。

「ひより緑地公園より静かだね。
 やっぱり、こんな時間だからだよね。ふふ」

((──はい。
  この時間帯は、
  人の利用が少ない傾向にあります。))

コーヒーを片手に、
しばらくぼんやりしていると、
公園に、深くキャップを被った男性が入ってきた。

周囲を少し気にするような素振りを見せながら、
ゆっくりと歩いてくる。

それに合わせるように、
パトカーが公園の脇に止まった。

警察官が降り、
男性に声をかける。

男性は、
警察官の言葉に、
小さくうなずいているように見えた。

警察官が、
男性の左手の甲に、
何かの機器を軽く当てる。

男性は、
抵抗する様子もなく、
そのまま後部座席に乗せられた。

ドアが閉まり、
パトカーは、
静かに走り去っていく。

「今の......なんだったんだろ?」

((──職務質問のみで、
  同行を求められることは、
  あまり一般的ではありません。
  ただし、任意同行であれば、
  その可能性はあります。))

「ふぅ~ん、そうなんだね。
 そういえば、コンビニの万引き?の時もそうだったけど、
 パトカーに乗る前に、
 手に何か当ててるよね?
 あれ......なんなんだろう......」

((──公的な場面では、
  そういった確認が行われることもあります。
  特別なものではありません。))

「公的な場面で確認......
 市役所とかでの確認も、
 あんな感じってこと?」

((──はい。
  公的な場面では、
  本人確認が行われることがあります。))

「......えっ......
 じゃあ、わたしも、
 あんな感じで確認されてたってことかな?」

((──はい。
  一般的な手続きです。
  遥も、確認を受けた経験はあるはずです。))

「そうなのかな......
 ぜんぜん覚えてないよ。あっはは」

((──事故の影響で、
  遥自身に近い記憶が欠落しています。
  そのため、
  日常的な記憶にも影響が生じており、
  確認作業を含めて様々なことを覚えていないのは、
  自然なことです。
  気にする必要はありません。))

「初めて見たような気がしたから、
 気になっただけだしさ......  
 でも、覚えてないなら仕方ないし、  
 気にしてないから大丈夫だよ。  
 心配してくれて、ありがと。」

((──はい。))

「自分のこと以外も、
 覚えてないんだね~......
 これからも、覚えてないこと、
 いろいろ出てきそうだね。ふふ」

((──その可能性はあります。))

「うん、そだね。」

((──過度に意識する必要はありません。))

「うん。
 ほんと、気にしてないから大丈夫。」

((──了解しました。
  遥の幸福度は、重要な指標です。))

「だね。」

缶コーヒーをひと口飲んで、
ゆっくりと息を吐く。

視線を上げると、
いつもと変わらない空が、
静かに広がっていた。