ゼニスは視界の隅で笑う~裁きはリングで決する、不条理な監視社会で生き残れるか~

「うわぁ......アレ......わたし、生きてる?」

視界がぐにゃりと歪んで、
天井の白い照明が輪郭を失っていく。

目を開けているのか、閉じているのかも正直わからない。
暗いのに、光が差しているような気もする......
どこまでも曖昧で、境界が溶けていた。

その曖昧さの奥に......
意識の膜を軽く叩くような気配があった。

((──あなたが生きていることは、
  間違いなさそうです。))

声......というより、
思考の隙間に流し込まれた情報のような感覚。

誰?
どこから?
なんでこんなに落ち着いた声?音?

いや、声なのか、これ......

意識の奥で波紋が広がるように、
ひとつの感覚がそっと沈んでいく。

((──あなたが生きていることは、
  間違いありません。))

声じゃない......
でも、確かに伝わったとわかる何か。

「え......だれ。いや、なんで、わたしの中に......?」

ぼんやりとした視界の向こうで、
世界が少しずつ形を取り戻していく。

白い天井。
規則正しく並ぶ照明。
でも、聞こえるはずの電子音がしない。

自分の呼吸音だけがやけにクリアに響いている。

空気が......重い。
音が......薄い。

なんだろう、この違和感。

わたし、病院に運ばれた?
事故......そうだ、あのとき──

((──落ち着いてください。
  記憶の断片を無理に繋げる必要はありません。
  今はまだ、脳の処理が安定していませんから。))

まただ。
頭の中に、直接流れ込んでくる。

「......だから誰なのよ、あんたは」

口に出したつもりはないけど、
思った瞬間、それごと拾われた気がした。

((──私は《ZENITHゼニス》。
  現在、あなたの脳と接続状態にあります。))

脳と......接続?
その単語の重さを理解したくなくて、
思考が一瞬ふわっと逃げる。

「......ちょっと待って。
 ゼニスってあの開発中のAI?AIが脳と接続中?
 なんで、わたしと話せてるわけ?」

しばらく沈黙が落ちた。
自分の呼吸音だけが、ぼんやりと耳の奥で響いている。

聞くつもりじゃなかったのに、声が勝手に口から落ちた。

違和感は、山ほどある。
頭の中に直接響く声。

音として聞こえるわけじゃないのに、
意味が明確に伝わる感覚。
この世界の静かすぎる空気。

自分の思ったことを先回りされる奇妙な応答。
普通なら、パニックになる場面だ。

だけど──

わたしは、そこまで取り乱していない。
いや......取り乱せないって言葉の方が正しいのかも。

((──現在、
  あなたの脳波と私の処理領域が一部重なっています。
  そのため、言語を介さなくても伝達が可能です。))

「ふ~ん......よくわかんないけど......
 つまり、今のこれは会話ってことでいい?」

((──はい。定義としては、会話に近い状態です。))

軽く息を吐く。
納得したわけじゃない。
でも、否定する材料がひとつもない。

なんだこれ。
怖いはずなのに、どこか冷静なのはなんで?

「......ていうか、そんなスラスラ説明されても困るんだけど。
 AIが脳に接続って......そんなの、現実じゃありえないでしょ」

((──本来は、あり得ない事ですが、
  例外的状況が発生しました。))

例外的状況──

その言い方だけで、背筋がわずかにざわつく。

「......例外的って、どんな?」

((──あなたに起きた事故について、
  推論する必要があります。))

事故──

その言葉と同時に、まぶたの裏で、
白い閃光が一瞬だけ弾けた。

沈黙が落ちる。
自分の呼吸音だけが、ぼんやりと耳の奥で響いていた。

「......なんか、少し......覚えてる、かも。」

自分の声が、思ったよりかすれている。
その言葉をきっかけに、脳の奥で薄い膜がふっと揺れた。

閃光のような白い光。
乾いた破裂音。
焦げた金属の匂い。

それから──
頭を少しかがめて覗き込んでいたあの姿勢が、
断片的に蘇る。

視界の端で、なにか小さな影が跳ねた気がした。

本当に見えたのかどうかすら曖昧なまま、ただその直後......
頭頂部のどこかで、鋭い痛みが走ったような気がする。

その曖昧な記憶に触れた瞬間、
こめかみの奥にジン……と電気が走った。

「......っ......いっ......っ......」

小さく息が漏れる。
痛みなのか痺れなのかわからない、
いやな感覚......頭の内側に、また声が落ちてきた。

((——無理に思い出す必要はありません。))

耳ではなく、思考のすき間にすっと流れ込んでくる音。
さっきよりも、輪郭がはっきりしていた。

「......ゼニス......だっけ......」

名前を呼んだ瞬間、意識のどこかで小さな波紋が広がる。

「......あんたも事故のこと、覚えてるわけ?
ていうかさ、そもそも記憶領域なんてあったかな?」

軽く笑ってみせた。
自分でもわかる。
これは強がりだ。

「ふふっ。あんたにメモリ機能なんて、あるわけないよね......」

((──不快にさせる意図はありません。
  ただ、事故の瞬間に高電圧負荷がかかり、
  ショートしたログは残っています。
  事故が発生したという、記録があるだけです。))

「......そうだよね。
 さすがに詳細はわかるわけないもんね......ふふっ」

思った通りの返答で、少しだけ肩の力が抜けた気がした。
事故の詳細を知ったところで、なんの意味もない。

((──しかし、ログを解析すれば、
  何が起きたのかを推論することは可能です。))

「......もういいよ。
 事故のことは起きてしまったことだし......
 振り返っても仕方ないよね?」

((──あなたが、それでよろしいのであれば、
  これ以上解析することは致しません。))

その声音は──
どこかバツが悪そうに聞こえた。

AIなのに。
あり得ないよね......考えすぎか、わたし。

それにしても、わたしは一体どこにいるのかな?

静かすぎる空調音。
薬品のほのかな匂い。
白すぎる壁。

目の端に、規則正しく並んだ機器の影が映る。

おそらく病院なのは間違いなさそう。
事故に巻き込まれたことを考えれば妥当だよね......

どこの病院なのかわからないけど......
そんなことを考えながら体を少しだけ左に向けると、
カーテンの隙間から外の景色が見えた。
道路を挟んで向かいにある、見覚えのある小さなパン屋。

「あ......あそこ、くろいわベーカリーじゃん......」

思わず声が漏れた。

メロンパンが異常においしい店。
AIの開発研究が煮詰まって、
気が付けば明け方なんてこともしばしば......
そんな徹夜明けの朝には、
エナドリ代わりに買ってた至福の甘味。

そうか、くろいわベーカリーの前にある病院なんだ......
ってことは、ひより医科大学附属病院にいるわけね。
自分のいる場所もわかり、ホッとした。

「......ねぇあそこ、くろいわベーカリーだよね。
 わたし、あそこのメロンパンめっちゃ好きなの。」

窓の外を指さすと、思考の奥でゼニスの声が淡く揺れた。

((──外部環境を確認中。
  はい、そこにはパン屋らしき建物が存在しています。))

「らしき?曖昧なんだね。
 まぁ、あんた味なんてわかんないだろうしね......ふふっ」

((──味覚情報は、
  学習すれば理解可能になると思われます。))

「えっ、味覚学ぶAI?......怖っ!
 脳に接続してるやつが味覚覚えたらホラーじゃん。」

冗談めかして言ったつもりだったのに、
ゼニスの返答は妙に間を置いた。

((──可能性の話です。
  あなたの感覚を補完する必要がある場合に限ります。))

補完──
その言葉が、なぜか胸の奥に引っかかった。

でも深く考える気にはならなかった。
今は、生きてることの方が大事だ。

ゆっくり息を吸って、肺を満たす。
体の感覚はまだ重いけど、起き上がれなくはなさそう。

「......よし」

両手を布団の上に置いて、意識を足に向ける。
病室の空気が、わずかに揺れた。

((──無理のない範囲で、
  少しずつ動かしてください。))

「わかってるって......
 そんなにお母さんみたいに言わないでよ。」

軽口を叩きながら、わたしはベッドの手すりをつかむ。
ゆっくりと、上体を起こした。

世界が、ようやく水平に戻る。

けれど......
胸のどこかで説明のつかないざらつきが、
まだ静かに残っていた。