終電みたいな恋だった

居酒屋近くのダイニングバー。終電まで残り一時間。オレンジ色の間接照明に照らされた薄暗い店内には、数組の客が点在しているだけだ。

「紗瑛は、俺のこと嫌いだと思ってたよ」

鳴海がカラン、とグラスの氷を回した。

「別に……嫌いではないけど」

私は気まずくなって視線をそらす。喉の奥がやけに乾いて、ジントニックを流し込んだ。

そういえば、いつも同期数人で飲みに行くのが当たり前で、彼と二人きりで飲むなんて、あの合宿の夜以来だった。

「でもいつも扱い雑すぎじゃん?」

「それはあんたがちゃんとしないからでしょ!」

いつも通りのやり取りに戻ってほっとした。この軽口を叩き合える距離感が、私達の安全地帯なのだ。

「……彼氏とは、うまくいってる?」

「うん。今、すごく幸せ」

「……紗瑛が結婚するって聞いたときさ……ちょっとだけ、ムカついた」

「……何よ。私が幸せになっちゃいけないみたいに。相変わらず失礼なやつ」

「……そういう意味で言ったんじゃないよ」

不意に、彼から笑みが消えた。彼は少しだけ目を伏せた後、顔を上げた。いつも本心を隠しているくせに、めずらしく真剣な眼差しで私を射抜く。

「俺さ……ずっと見てたよ。紗瑛のことだけ」

ドクン、と心臓が嫌な音を立てる。

「……っ。鳴海、あんた彼女いるでしょ」

「うん」

「私に婚約者がいるのも、知ってるでしょ」

「……うん。知ってる」

「じゃあ、なんで今更言うのよ……」

一瞬の沈黙。彼は少しだけ困ったように、でも、今までで一番綺麗な顔で笑った。

「最後の、わがままかな」

ずるい、と思った。

***

街灯がまばらに続く、駅までの道。

「ハグしていい?」

私は答えなかった。

彼の体温が重なった瞬間、私の鼻先をくすぐったのは、嫌いなタバコの匂いでも、他の女の香水でもなかった。

微かな石鹸の香りに混じる、どこか切ない、鳴海自身の匂い。

(……なにこれ。知らない。こんなの、知らない)

チャラい同期としての「鳴海」ではない、はじめて一人の男としての素顔を見た気がした。

「……っ」

視界が、鳴海で埋め尽くされる。吸い寄せられそうになるのを、私は理性の残骸をかき集めて遮った。

至近距離まで迫った彼の唇を、とっさに右手で塞ぐ。

手のひらに、鳴海の熱い吐息が触れた。回ったアルコールのせいか、それとも掌から伝わる彼の体温のせいか。

自分の心臓の音がうるさくて、立っている場所が分からなくなる。

「……今、キスしようとしたでしょ」

「うん」

「それはだめ。絶対に……」

鳴海はいたずらっぽく、でもどこか諦めたように笑って、私の肩に額を預けた。

「じゃあ、もうちょっとだけ、このままでいていい?」

私は彼の背中に手を回しかけ――左手薬指の指輪の重みを思い出し、やめた。

***

駅のホーム。アナウンスとともに、終電が滑り込んでくる。私たちは一度も振り返らず、急ぎ足で別々のホームへと消えた。