終電みたいな恋だった

「……これ、誰が作った? 全部、古いデータのままだぞ」

メンターの先輩の低い声とともに、提案資料が机に叩きつけられる。

フロア全体の空気が、ぴたりと止まった。

(……まずい、あれ、私たちのチームの資料だ……)

「おい、鳴海」

名前を呼ばれた本人は、椅子に深くもたれたまま、気の抜けた返事をした。

「はーい」

「作成代表者のところにお前の名前があるぞ? この数字、先方にそのまま出したのか」

「出しましたね~」

「ふざけるな! これ、仕様変更前の数値だぞ! 客先からクレーム来てるんだぞ!」

一瞬だけ、鳴海の視線が落ちる。

「……あー、やばいですね、それ」

軽い口調のまま、短く息を吐いた。

(はあ、もう違うでしょ……!見てられない!)

「それ、鳴海“だけ”の責任にするのは違いますよね」

空気が凍る。

先輩の視線が、ゆっくりと私に向いた。

「……どういう意味だ?」

一拍置いて、私は言葉を続けた。

「……私たち、最新データの保管場所、教わっていません」

「それに、この案件の承認フローには先輩やチーム長の名前もありましたよね?確認不足はチーム全体の責任じゃないんですか?」

周囲のざわめきが大きくなった。

先輩は苦虫を噛み潰したような顔で私を睨み、やがて短く舌打ちをした。

「……言い訳はいい。お前らで今日中に数字を全部修正しろ。あと、この仕様書をベースに提案資料も作り直せ!」

***

深夜のオフィス。

静まり返ったフロアに、キーボードを叩く音だけが響いている。

「普通、ああいうとき黙ってない? 紗瑛は損するタイプだよ~」

隣で長い足を机に投げ出し、のんきにゲームをしている鳴海に、私はブチ切れそうになっていた。

「鳴海が全部悪いなら黙ってるわよ。でも、理不尽なのは嫌なの」

「ふーん」

「……ねえ。さっき私、あんたのことかばったんだけど。なんで今、堂々とゲームしてんの? ……まじで損したわ」

私が向き合っているのは、海外メーカーの医療機器の仕様書だ。自動翻訳にかけても、意味不明な日本語が並ぶだけで、全く理解できない。

私が大きなため息をつくと、鳴海はようやくスマホを置き、パソコンの画面を覗き込んだ。

「あーこれ?」

少しスクロールして、

「“compliance”って“遵守”じゃなくて、この文脈だと“安全基準クリア”って意味じゃん」

さらっと英語を読み上げる。

「で、ここ、規制番号書いてあるでしょ。だから性能じゃなくてリスク説明。資料はここ削っていいよ~」

「え、ちょっと待って、なんでわかるのよ?」

「普通に読めるじゃん」

彼はあっさりと言った。私が1時間格闘していた内容は、ほんの数分で片付いた。

「英語できるなら最初からやってよ!!」

思わず叫ぶと、鳴海はふっと笑った。

「そうやってちゃんと怒るの、紗瑛だけだよ」

「他のやつらは、俺に何も言わないし」

少しだけ肩をすくめて、

「……ほんと、こういうとこ最低だよな~」

「はあ? 自覚あるなら直しなさいよ!」

私が睨むと、鳴海は一瞬だけ視線を合わせて、

「……だから、安心してサボれる」

「なによそれ!? 最悪なんだけど!」

彼は軽く笑って、椅子をきしませながら背伸びをする。

そのまま、ぼそっと。

「お前が見てるなら、いいかなって」

「……は?」

聞き返したときには、もういつもの顔に戻っていた。

腹立たしくて、憎たらしくて。少しだけ落ち着かなかった。