終電みたいな恋だった

彼が結婚したと知ったとき、「おめでとう、よかったね」と思った。

嘘じゃない。心からの祝福だ。

――それなのに。

どうして、胸の奥が小さな針で刺されたみたいに、痛むんだろうか。

***

彼は、同じ営業部の同期だった。鳴海翔真。それは私の中での、チャラ男の代名詞だった。

「ねえ、鳴海どこ行った?」

午後三時。西日が差し込むオフィスで、私は山のような資料を抱え、周囲に聞いて回った。

「たぶん喫煙所ですよー」

「……また!?」

非常階段そばの喫煙スペース。扉を開けると、白く濁った煙の向こうに彼がいた。

壁にもたれて、女と電話をしながらタバコを吸う。端正な顔立ちのせいか、悔しいくらいに絵になった。

そんな彼を連れ戻しに行くのは、営業事務である私の、不本意な日課だった。

「もうすぐ会議始まるんだけど」

「うわ、出た。風紀委員」

「出た、じゃないでしょ。……あと、会社で『紗瑛』って呼ぶのやめて。周りに変な勘違いされるから」

私が大きなため息をつくと、彼は煙を細く吐き出し、意地悪く口角を上げた。

「いいじゃん、勘違いさせとけば。……俺と紗瑛の仲だし?」

「はあ? ふざけないでよ! あんたなんかと、何もないわ!」

私が資料の束で軽く小突くと、彼は「ははは!」と声を立てて笑った。

鳴海は不真面目なくせに、恐ろしく仕事ができた。

天性の人たらしに加え、資料の読み込みも、商談の空気作りも天才的だ。営業成績は常に上位。たぶん本気を出したら誰にも敵わないのに、彼はいつも、もったいないくらいに不真面目で、私生活がだらしなかった。

***

「鳴海、香水きつすぎ。また別の女?」

ある朝、エレベーターで二人きりになったとき。そう指摘すると、彼は欠伸まじりに答えた。

「昨日、逆ナンされた子の家からそのまま来たからね〜」

「あんた、いつか刺されて死ぬわよ」

女の影が絶えないわりに、不思議とトラブルにならないのが余計に鼻につく。

「そうならないように、紗瑛が彼女になってよ〜」

「女が掃いて捨てるほどいるあんたと付き合うわけないでしょ! それに、彼氏いるし」

「……あ、第二ボタン開いてる。まったくだらしないんだから」

「え、マジ? ……じゃあ、とめてよ」

そう言って、彼はわざとらしく私に近づき、首元を差し出してきた。一瞬、彼の少し汗ばんだ鎖骨が視界をよぎり、心臓が跳ねる。

「はあ? それくらい自分でやりなさいよ。……ほら、もう着いた」

階数表示が変わる。扉が開いた先は、いつもの慌ただしいオフィスだった。

「ちぇー。おまえ、ほんと俺の姉ちゃんみたい」

鳴海は肩を揺らして笑った。

同期って便利な言葉だ。興味がないなら、放っておけばよかったのに。後で思い返すと、私は彼にばかり「余計な言葉」を使っていた気がする。

周りからはよく、「付き合ってるの?」と茶化された。

そのたび私は即答した。

「あいつだけは絶対ないです!」

彼も笑っていた。

「こいつ怖すぎだから無理」

本当に、そういう関係だったはずなのに。

***

私が会社を辞めることになったのは、婚約者の転勤が決まったからだった。送別会の居酒屋を抜け出した私は、店の前で鳴海に出くわした。

「あれ? 主役がもう帰るの? 早くない?」

「二次会は断ったの。結婚式の準備で忙しいし」

「そっか」

「そっちは?」

「彼女とちょっと揉めて電話してた〜」

私は呆れて笑った。

「ほんと懲りないよね」

「付き合うのって、むずかしいよなー」

その言い方が、少しだけ、いつもの彼らしくなくて引っかかった。

「……ちょっとだけ、飲む?」

気づけば、自分からそう言っていた。

***

居酒屋近くのダイニングバー。終電まであと一時間。薄暗く、オレンジ色の間接照明に照らされた店内には、数組の客が点在しているだけだ。

「紗瑛は、俺のこと嫌いだと思ってたよ」

鳴海がカラン、とグラスの氷を回しながら言う。

「別に……嫌いではないけど」

私は気まずくなって、視線をそらす。喉が渇いて、私はジントニックを口に含んだ。そういえば、いつもは同期4、5人で飲みに行くのが当たり前で、鳴海と二人きりになるなんて、かなり久しぶりだった。

「でもいつも扱い雑すぎじゃん?」

「それはあんたがちゃんとしないからでしょ!」

いつも通りのやり取りに戻ってほっとした。この軽口を叩き合える距離感が、私達の安全地帯なのだ。

「……彼氏とは、うまくいってる?」

「うん。今、すごく幸せ」

「ふーん。紗瑛なら、普通に、真っ当に、幸せになりそうだもんな~」

「……何よ。私が幸せになっちゃいけないみたいに。相変わらず失礼なやつ」


「……そういう意味で言ったんじゃないよ」


不意に、彼から笑みが消えた。彼は少しだけ目を伏せた後、顔を上げた。いつもヘラヘラしているくせに、めずらしく真剣な眼差しで私を射抜く。

「俺さ……ずっと見てたよ。紗瑛のことだけ」

心臓がどきり、と嫌な音を立てる。

「……っ。鳴海、あんた彼女いるでしょ」

「うん」

「私に婚約者がいるのも、知ってるでしょ」

「……うん。知ってる」

「じゃあ、なんで今更言うのよ……」

一瞬の沈黙。彼は少しだけ困ったように、でも、今までで一番綺麗な顔で笑った。

「最後の、わがままかな」

ずるい、と思った。

***

街灯がまばらな、駅までの道。

「ハグしていい?」

私は答えなかった。

彼の体温が重なった瞬間、私の鼻先をくすぐったのは、嫌いなタバコの匂いでも、他の女の香水でもなかった。

微かな石鹸の香りに混じる、どこか切ない、鳴海自身の匂い。

(……なにこれ。知らない。こんなの、知らない)

チャラい同期としての「鳴海」ではない、一人の男としての素顔を見た気がした。

「……っ」

視界が、鳴海で埋め尽くされる。吸い寄せられそうになるのを、私は理性の残骸をかき集めて遮った。至近距離まで迫った彼の唇を、とっさに右手で塞ぐ。

手のひらに、鳴海の熱い吐息が触れた。回ったアルコールのせいか、それとも掌から伝わる彼の体温のせいか。自分の心臓の音が耳元で鳴っているみたいにうるさくて、一瞬、立っている場所が分からなくなった。

「……今、キスしようとしたでしょ」

「うん」

「それはだめ。絶対に……」

鳴海はいたずらっぽく、でもどこか諦めたように笑って、私の肩に額を預けた。

「じゃあ、もうちょっとだけ、このままでいていい?」

私は彼の背中に手を回しかけ――左手薬指の指輪の重みを思い出し、やめた。

***

駅のホーム。アナウンスとともに、終電が滑り込んでくる。私たちは一度も振り返らず、急ぎ足で別々のホームへと消えた。

***

数年後。育休中のある昼下がり、インスタのタイムラインに彼の写真が流れてきた。

「とうとう年貢の納め時です」なんてコメント、いかにも彼らしかった。

――あの夜。

あれは、たぶん、恋にならない恋だった。何も始まらなかったからこそ、今でも、こんなふうに綺麗な形のまま思い出せるのだ。

もし出会う順番が違っていたら。そんなことを考えるほど、私は子どもじゃない。

でも、ふと考えずにはいられない夜が、人生にはたぶん、少しだけある。

私はあの夜、恋を「見送った」。だからきっと、これでよかったのだ。

あれは―― 終電みたいな恋だった。