ミッドウェー・バースデー

 あれから、何時間くらいが経っただろう。本来の目的であった着替えをとうに終えても、俺は自分の部屋に(こも)ったままでいた。
 こんな状況だし桧琉の元へ戻ろうかとも思ったけど、次どんな顔をして振る舞えばいいのか分からないのだ。細身のジーパンに上は淡い水色のパーカー。寝癖も直してもうやることはないのに、ただ膝を抱えてぐるぐると答えの出ないことを考えている。

 ──誰にも頼らないって決めたくせに、少し優しくされたぐらいで全部受け止めてもらえるなんて危うく想像しかけて……。

 馬鹿みたいだ。やはり自分の中には情けない部分しか見つからない。

「…………文世」

 しかし不意に声が聞こえて、俺は反射的に顔を上げた。桧琉だ。

「ここにいるんだよな? あのさ、オレ色々考えたんだけど……さっきは文世が答えにくいようなこと聞いて悪かった。できれば顔見て謝りたい」

 ドアの向こうから、桧琉は真面目な調子でそう投げかけてきた。俺は迷う。けれどすぐにガチャ、と音がして、「なんだ開いてたんだ」という柔らかいその声は間近までやってきてしまった。

「……桧琉が謝る必要はない」
「文世がそうでも、オレは違う。そもそも文世を一人にさせるようなこと言いたくなかった」

 桧琉も俺に合わせて床に腰を下ろした。俯いたままで目は見れないが、意外と心配していたような気まずさはない。
 狭い部屋に二人きり。3メートルのルールは当然破綻しているものの、その相手が桧琉であるから俺は今逃げられないんだろうか。

「そういえば着替えたんだね」
「……まぁ」
「綺麗だよな、そのパーカー。文世はやさしい色が似合う」
「そういうのいいよ」

 先程より空気が軽くなってきた気がして、試しに俺は「お菓子でも食べる?」と問いかけてみた。あまり多くはないけど、照夫さんから分けて貰ったものなどがストックとしてベッドの下にあるはずだ。「じゃあ食べよっかな」と桧琉が言うので、俺は床を擦って入れ物の缶に手を伸ばす。

「──ごめん文世」
「へ……」

 その缶をベッド下から取り出して頭を上げたとき。耳元でそんな声が聞こえ、さっきもう謝られたはずじゃ……と思っていると、いきなり視界がぐるりと反転した。目の前には桧琉の顔と、その奥に天井。どうやら俺は組み敷かれている。

「……見せて」
「は? なんだよ急に離れっ──」
「耳。ちゃんと見せてよ。隠してほしくない」

 咄嗟に首をふるふると振った。怖い。真っ黒な瞳は俺だけを捉え、気付けば手首も拘束されている。強い力じゃないけれど、桧琉が何を考えているのか分からな過ぎて怖かった。

「……い、嫌だ……」
「なんで?」
「嫌だから」
「……文世にちゃんと“嫌”って言われたの初めてだな」

 その言葉に、諦めたかと油断しかけた次の瞬間。
 顔の横に手がぬっと迫ってきて、俺は数日前までの黒い記憶がフラッシュバックしそうになりきつく目を閉じた。この体勢とこの流れ。もう俺は脱力して頭を空っぽにするしかない……。

「……やっぱり。殴られてたんだろ、ずっと」

 あれ? と気が付いて、俺はゆっくり瞼を開けた。すぐそこには心配しているような悲しんでいるような、どっちともいえない表情の桧琉がいる。そうか、今一緒にいるのは他の誰でもない桧琉だった。俺は何に怯えていたのだろう。

「あいつら? それとも主に竹中(たけなか)? この耳、一日二日でなるものじゃないよな」

 髪の毛を梳かれ、そこにそっと触れられる感覚。呆然と固まっていた俺はハッとして左耳を覆い隠した。しかしすぐにその手も桧琉によって優しく剝がされる。
 俺の中にはじわじわと羞恥心がこみ上げてきて、でも同時にどうでもよさみたいなのも生まれて、

「……そうだよ。気持ち悪いだろ。だからこんなの見せたくなかったんだよ」

 と、開き直ったかのように答えた。
 この耳は耳介血腫(じかいけっしゅ)、いわゆる柔道耳といわれるやつだ。日常的に耳に強い衝撃を受け続けることで血が溜まり、ぼこぼこと醜く変形してしまう現象。俺の場合は理由が理由だから病院には行けず、もう手遅れで元の見た目に戻ることはない。
 桧琉の指摘どおり、髪をかける癖はそのせいで自然と変化していたのだと思う。

「ほんと、そういうときだけ笑うよね」
「え?」

 桧琉はまた複雑な表情を浮かべそう言うと、俺の上から静かに退いた。俺も、上体を起こして乱れを整える。

「文世が笑うのは悲しいとき。笑ってほしいってずっと思ってたけど、オレが見たかったのはこういうのじゃない」
「……」
「強引にしてごめんね。でもちょっと強引なくらいじゃないと、文世を暴けないって学んでるから」

 強引だとか暴くだとか、少しだけ痛々しくて重い響き。でも、それらを口にする桧琉から、俺はなんだか目が逸らせなかった。
 嫌じゃないから。桧琉にならきっと、何を言われても奪われても。

「文世は(こら)えるのが上手すぎる」

 桧琉は呟き、俺の頬に手を添えじっと見つめてきた。打ち明けるつもりのなかった痛みを慈しむように流れる、薄暗い部屋での噓みたいに甘い時間。現実をつい忘れそうになる。
 だからこそ俺は怖くなった。考えられる一つの可能性────もしかしたら、今この下宿に閉じ込められている不可解な状況は俺のせいかもしれない。

 一度だけ、本当に一度だけ。
 こいつと世界で二人きりになれたらいいのにって、願ってしまったことがあるから。