ミッドウェー・バースデー

 美術の授業でわずかに会話を交わしたその日から、桧琉は俺に少しずつ絡んでくるようになった。

『…………全てのものから、距離をとりたい』

 そんな人間関係そのものを拒絶するみたいな俺の発言を「そっか」と受け取り、「文世って呼んでいい?」「また絵見せてよ」なんてまるで普通の調子で去っていったよく分からない奴。
 分かるのは、常に人に囲まれて明るいオーラを放つ、いわゆる“人気者”ということくらいだった。食堂や浴場などの下宿における共有スペースにいるとき、もちろん学校ですれ違うときでも、必ず桧琉は輪の中心にいる。華やかな容姿の上に、よく笑って誰に対しても同じ態度だから嫌味がなくて……とにかく俺の持っていない要素だけで構成されたみたいな人物だ。
 クラスは違うので学校で会うことは少ないかと思ったが、一応同じ学年のため体育や美術がよく被った。最初のうちはそういう時に目が合うと手を振られるくらい。大抵俺は小さな会釈で返していたのだけど、桧琉はその程度で終わらせるつもりではないとやがて知ることになる。

「あ、文世おかえり。帰宅部なのに結構帰り遅いんだな」
「……は?」

 やや時が流れて6月の頭。17歳の誕生日が迫っていたバイト帰りのある夜、桧琉はなぜか俺の部屋の前で待ち構えていた。
 いつからそこにいたのだろう。驚いて変な声が出る。

「いっつもこのくらいの時間だよね。一応隣人だからドアの音で分かるんだよ。門限的には問題ないけどもう暗いしさ……誰かと遊び?」
「えっと……」

 悪気なく聞いてくる桧琉から、俺は目を逸らした。まさかガソリンスタンドでアルバイトしていてその帰りです、なんて正直に言えるわけがない。原則うちの高校ではバイトが禁止だ。誤魔化す言葉も浮かばなくて、俯きがちに髪の毛を耳にかける。

「──いやっ、ううん、答えなくてもいい。なんかいきなりだったよな。それより、文世と会えたら言おうと思ってたことがあって」
「……あ、うん」
「改めて、黒松桧琉です。オレ、どうしても文世と仲良くなりたい」
「はっ?」

 またもや変な声が出た。しかも今度は、動揺して肩にかけていたカバンまで落としてしまう。慌てて拾おうとすると桧琉は既にしゃがんでいて、「大丈夫?」と散乱した中身を元に戻し始めていた。

「あれ、これ……」

 その中には、パステル画を描き溜めた俺のスケッチブックも紛れていた。桧琉は落下したはずみで開いたページを目にした瞬間、それを手に取ってまじまじと眺めだす。俺は咄嗟に「返して」と言いかけたが、その時、

「桧琉ー? 今日の宿題で見せてほしいとこあるんだけどいるー?」
「頼むからおれも見せてくれえ。絶対ジュース奢るから!」

 と、下の階から上がってくる他の下宿生たちの声が耳に届いた。どうしよう。これ以上誰かの視界に入りたくない。桧琉の手に渡ってしまった絵も、桧琉のそばにいるには明らかに不釣り合いな自分の姿も、一瞬にして消してなかったことにできればいいのに……そう思っていると、いつの間にか桧琉は「鍵借りるね」と俺の持ち物から部屋の鍵を探し当て、ドアを開けるや否や腕で俺の身体を引き寄せた。

「……ん? いない感じ?」
「多分コンビニでも行ったんじゃね」

 奇跡的に、間に合った。バタンとドアが閉まった数秒後に彼らは廊下を通って、俺と桧琉は一緒にいるところを見られずに済んだのだ。やけに鼓動が速いのが分かる。

「よかった…………」
「ん?」

 あ、と思った。そうだ、俺は俺の部屋にいるからもう安心していい気がしていたけど、同時にこいつも隠れていたんだった。

「よかったって、何が?」
「いや、別に……そっちこそ、なんで俺のこと隠したんだよ」
「なんでだろう。文世が逃げたいって顔してたから?」
「なんだそれ……」

 電気も点けていない部屋のドア付近で、身を寄せ合ったままの俺たち。おかしな状況にため息をつくと、桧琉はふっ、と笑い声を漏らした。

「何?」
「あぁ、ごめんごめん。やっと今初めて、文世とちゃんとした会話ができた気がして」

 やっぱり、変な奴だ。どうしてそれだけで、そんなに嬉しそうな顔ができるのだろう。なんの躊躇いもなく俺に近付こうとするのだろう。

「……なんで?」
「え?」
「俺と喋ってみたいとか、さっきも、俺と仲良くなりたいとか。……絶対、メリットないのに」
「気になるからだよ」

 食い気味で降ってきた声は真剣で、その目は吸い込まれそうに深い黒だった。

「照夫さんが、実はオレと文世が誕生日一緒なんだよって教えてくれて。しかも部屋が隣って結構すごいじゃん。知ったのは最近なんだけど、その前から下宿(ここ)で文世を見るたびに仕草とか雰囲気とか全部が気になってた。ただそれだけ」
「……」
「だから文世は深く考えなくていいよ。喋るのが苦手なら無反応でいいし、別にオレに興味がなくていい。でももし嫌じゃなかったら、近付くのだけは許してほしい」

 頭が追いつかない。気になるから、全部が気になってたから……だけど深くは考える必要がなくて、嫌じゃないなら近付かせてほしい? 言葉を反復してみても自分に向けられた実感は湧かないが、今「嫌」と言わなければどうなるんだ? 人との距離は3メートル……その一つ目のルールは守らなかったら何が起こるんだっけ?

「じゃあ、あいつらも行ったみたいだしオレ戻るよ。おやすみ。あと、これ返す」

 思考が停滞しているうちに桧琉はそう告げ、俺にさっきのスケッチブックを手渡した。
 すぐに見えなくなるシュッとした後ろ姿。結局、「嫌」とは言えなかった。