ミッドウェー・バースデー

 人との距離は3メートル、大きな声や物音は出さず、やさしい色の服を着る。
 それが俺が生きていく上での必要不可欠なルールだった。

「えー、じゃあ今日の授業では皆さんにデッサンをしてもらいます。デッサンといっても、使う画材は自由。同じ対象を描いたとしても、それを捉える角度が違えば見え方が変わってくるように……」

 だから、今から約1年と2か月前の高2の春、俺が桧琉に初めて話しかけられたその日も、生徒の輪から自らはみ出た俺はクリーム色のカーディガンを着て淡々と画用紙に向き合っていたと思う。
 美術室の中央には、デッサンの対象として置かれた洋梨の模型。美術を希望した2クラス分の男女がそれに群がっていたから、俺は当然のように壁際に移動したというわけだ。よく観察して描く……には遠すぎる場所だけど、これでいい。我慢や妥協ではなく選択だった。

 ──ルールは平穏のためにある。
   自分から近付かなければ誰のことも傷つけず、邪魔にならず、疎まれることもない。
 
「……志田くん? 志田文世(しだふみせ)、くん?」

 そんな時だった。
 いきなり呼ばれた自分のフルネーム。恐る恐る顔を上げると、どこかで見かけたことのある男子生徒がいた。しかし名前などは分からない。

「えーと、オレのこと見覚えはあるよな? 黒松桧琉(くろまつかいる)。バスケ部で、クラスは違うけど下宿の部屋が隣の」
「……」

 一日学校にいてもろくに人と会話をしないので、急に話しかけられると声が出ないものだ。
 一方的に自己紹介をしてきたその男は、満足したのか次は俺の絵を堂々と盗み見ている。「わ、めっちゃうまい」と笑顔で距離を詰められて、3メートルなんてルールはいとも簡単に崩れた。

「これ……何で描いてるの? クレヨン?」
「……」

 手には使い古したオイルパステルがあった。クレヨンとはちょっと違う。小さな頃に買ってもらったもので、今でも俺は絵を描くときによくこれを使っていた。
 絵の具みたいに水がいらないからどこでも手軽に描けるし、パステル画は部活にも入っていない俺の唯一の趣味に近しいもの──けれど、まだ声は出ない。
 
「あぁ、ごめんね急に。邪魔するつもりはなくて、ただずっと喋ってみたいって思ってたから。それにちょっと、気になって」

 ずっと喋ってみたいと思ってた? 何を考えているのだろう。
 俺は運動部の男子が多い下宿内では更に、ひときわ異質で浮いた存在だ。愛想がないとか壁を作りすぎだとか、そういうマイナスな評判しかこの男の耳にも入っていないはずなのに、その俺にわざわざ関わろうとするなんて時間の無駄でしかない。

「どうしてそんなに離れて描くのかさ」

 でも、眩しかった。こんな普通の人間みたいに、声をかけられたこと自体久しぶりだったから。

「…………全てのものから、距離をとりたい」

 やっと俺が発することのできた言葉は、それだった。