「ちょっと、ちょっと待ってよ文世!」
玄関で靴を履いていると、やけに慌てた声で呼び止められる。ドタドタと足音が近付いてきて、俺は何事かと振り返った。
「どうした? 真世」
「もう、間に合わないかと思ったよ。いっつも早朝に家出ちゃうんだから」
「うん。だからこんな時間に起きてこなくていいのに」
「そうじゃなくて、これっ」
はい、と何かを差し出される。手の平を広げて受け取ると、それはフェルトで作られたお守りのようなものだった。
「これは……?」
「僕が作ったんだよ。今日も病院、寄るんでしょ。文世のお友達にそれ渡してあげて」
あぁ、と納得して笑みがこぼれた。そのために俺が出発する寸前になって追いかけてきたと。真世が「下手だと思ってるでしょ」と少し不貞腐れたので、俺は「いいや」とお守りを握り締めた。
「ありがとう。きっと喜ぶよ」
そう伝え、アパートのドアノブを回して外に出る。部屋の奥から「行ってらっしゃい」という、寝起きの母さんの声も聞こえた。
夏休みが明け、日差しが落ち着いてきた9月中旬。それでも道端の緑は青々として、生命力のままに歩行者の行く手を阻んでくるのは田舎特有の景色だ。俺はそんな駅までの少しの距離を歩き、時間通り在来線の列車に乗り込む。
揺られること、約2時間半で高校近くの駅に着く。俺は現在実家に戻り、母さんと弟の二人と共に暮らしているのだ。通学には苦労するけど、大分早起きにも慣れてきた。むしろどこか懐かしいこの車内で、軽い考え事をしながら窓の外を眺めているのは、なかなかに悪くない心地がする。
「『大丈夫』、か」
真世に渡されたお守りを思い出して、それをカバンから取り出した。ハサミで切り抜いたのであろう文字の部分には、「健康」とか「安全」ではなくて『大丈夫』。最近中学で裁縫クラブに入ったらしい真世が、俺のことを考えて作ってくれたんだと思うとむず痒い。急に家に戻ってきた5つ上の兄を、寛大に受け入れてくれているからありがたい限りだ。
もちろん、火事で住む場所を失った下宿生たちには、少しして学校側から仮の住まいが与えられた。皆はそこへ移ったのだけれど、俺はあと半年しかない高校生活を見直し、善意を蹴って地元にいる。
「次は○△駅、○△駅──。お降りの方はお忘れ物のないよう注意して──」
アナウンスに顔を上げ、広げていた勉強道具などをしまってカバンを肩に掛けた。
大学受験が刻一刻と迫っているが、俺の目指しているところは「無理のない進路」だ。まだ、狭い部屋で殴られる夢もみる。通りすがりの男性に恐怖を覚えることもある。下宿から離れて安心できる環境に暮らし始めたとはいえ、きっと今はまだ神経を尖らせるときじゃないと自覚していた。それに人生というものは、そんなに焦らなくても前に進む。
あの日から変わったことといえば、竹中が学校を辞めたことくらいだ。高卒資格を自分で取れば問題はないのかもしれないけど、知ったときはさすがに驚いた。それも、自ら決めたんだそうだ。夏休み明けの俺の机の中には、こんな紙切れが入っていた。
『誰かに「まともじゃない」って言われたわけでもないのに、ずっとそう思われてる気がしてた』
「ごめん」でも「さようなら」でもない、たったそれだけのメッセージ。何を伝えたかったのか全ては分からなかったけど、俺は少しだけ腑に落ちた。竹中も何かに囚われて、希望を失い喘いでいるのだろうと、やられる側なりに思っていたから。
列車を降りたら、ホームには秋の匂いの風が吹いていた。
七時間の授業を終え、俺は足早に病院へと向かう。急がないと、面会時間が終わってしまうのだ。
見舞いに来たというのになんのお土産も持たず、コンコンとその病室の扉をノックした。
「桧琉、入るよ」
決まってちゃんと、口に出すようにしている。誰だって、いきなり自分のスペースに上がり込まれたらびっくりするだろうから。それは相手がどんな状態であれ、変わらない。
「お土産……ではないけど、はいこれ。弟から」
ベッドの上で目を閉じたままの桧琉に、『大丈夫』のお守りを見せる。もちろん反応は返ってこなかった。俺は一つ深呼吸し、それをそっと枕元に置いてやった。
桧琉はあの日から3か月以上、この世界では眠ったままだ。病室には桧琉の家族からの花が飾られてあるが、食べ物や飲み物は一切ない。もう、この光景は当たり前になりつつある。
「…………よし、描くか」
俺はイスに腰を下ろして、カバンからスケッチブックと16色入りのオイルパステルを取り出した。どちらも、火事の後に新しく買ったものだ。けれどここへ来る度俺は絵を描くので、減りは随分早い気がする。
捲っても、捲っても桧琉の寝顔だけ。今日もいつもと同じくそのスケッチブックに、桧琉の姿を浮かび上がせることにした。
『なんで。一生捨てないよ』
俺が前に描いた似顔絵を、そう言って大切にしてくれていた桧琉。でも、残念ながらそれも、火の中で燃え尽きてしまったことだろう。だから俺は描き直す。次いつうっかり失くしてもいいように、同じものを何枚でも、何冊でも。
紙に乗せたパステルの色を指で伸ばしながら、考えた。桧琉はもしかして、“こっち”に戻ってくることを恐れているんじゃないかと。
下宿で火災が発生してすぐ、その原因は放火によるもので、犯人が黒松桧琉であろうということは、容易に見当がついていたらしい。つまりは高校の生徒にもその保護者たちにも、情報として知れ渡っているのだ。俺も一度警察から話を聞かれたが、「火をつける瞬間は見ていない」とだけ答えた。そしてもう一つ、
「…………だけど桧琉は、目を覚ましたらきっと正直に自分のやったことを言うはずです」
とも、確信を持って伝えた。
「いつでも起きていいんだよ、桧琉」
俺はベッドに手を置いて、その綺麗な寝顔に喋りかける。
確かに世間からすれば、桧琉は大きな間違いを犯した少年かもしれない。または、受験を目前にして眠り続ける哀れな高校生。でも桧琉なら絶対に大丈夫だ。どんな困難や理不尽に遭っても、夢を掴み取る強さを持ってる。回り道さえ笑いながら歩ける。
──それに、俺が味方でいる。だから…………。
『ちょっとは遅くなるかもしれないけどさ、約束。だからあっちに行っても安心して待ってて』
その約束を守ってくれると信じて疑わず、俺は俺のまま生きる。
「……目が覚めたら、今度は俺からキスするよ」
きっとそれは、数秒後の未来だ。
玄関で靴を履いていると、やけに慌てた声で呼び止められる。ドタドタと足音が近付いてきて、俺は何事かと振り返った。
「どうした? 真世」
「もう、間に合わないかと思ったよ。いっつも早朝に家出ちゃうんだから」
「うん。だからこんな時間に起きてこなくていいのに」
「そうじゃなくて、これっ」
はい、と何かを差し出される。手の平を広げて受け取ると、それはフェルトで作られたお守りのようなものだった。
「これは……?」
「僕が作ったんだよ。今日も病院、寄るんでしょ。文世のお友達にそれ渡してあげて」
あぁ、と納得して笑みがこぼれた。そのために俺が出発する寸前になって追いかけてきたと。真世が「下手だと思ってるでしょ」と少し不貞腐れたので、俺は「いいや」とお守りを握り締めた。
「ありがとう。きっと喜ぶよ」
そう伝え、アパートのドアノブを回して外に出る。部屋の奥から「行ってらっしゃい」という、寝起きの母さんの声も聞こえた。
夏休みが明け、日差しが落ち着いてきた9月中旬。それでも道端の緑は青々として、生命力のままに歩行者の行く手を阻んでくるのは田舎特有の景色だ。俺はそんな駅までの少しの距離を歩き、時間通り在来線の列車に乗り込む。
揺られること、約2時間半で高校近くの駅に着く。俺は現在実家に戻り、母さんと弟の二人と共に暮らしているのだ。通学には苦労するけど、大分早起きにも慣れてきた。むしろどこか懐かしいこの車内で、軽い考え事をしながら窓の外を眺めているのは、なかなかに悪くない心地がする。
「『大丈夫』、か」
真世に渡されたお守りを思い出して、それをカバンから取り出した。ハサミで切り抜いたのであろう文字の部分には、「健康」とか「安全」ではなくて『大丈夫』。最近中学で裁縫クラブに入ったらしい真世が、俺のことを考えて作ってくれたんだと思うとむず痒い。急に家に戻ってきた5つ上の兄を、寛大に受け入れてくれているからありがたい限りだ。
もちろん、火事で住む場所を失った下宿生たちには、少しして学校側から仮の住まいが与えられた。皆はそこへ移ったのだけれど、俺はあと半年しかない高校生活を見直し、善意を蹴って地元にいる。
「次は○△駅、○△駅──。お降りの方はお忘れ物のないよう注意して──」
アナウンスに顔を上げ、広げていた勉強道具などをしまってカバンを肩に掛けた。
大学受験が刻一刻と迫っているが、俺の目指しているところは「無理のない進路」だ。まだ、狭い部屋で殴られる夢もみる。通りすがりの男性に恐怖を覚えることもある。下宿から離れて安心できる環境に暮らし始めたとはいえ、きっと今はまだ神経を尖らせるときじゃないと自覚していた。それに人生というものは、そんなに焦らなくても前に進む。
あの日から変わったことといえば、竹中が学校を辞めたことくらいだ。高卒資格を自分で取れば問題はないのかもしれないけど、知ったときはさすがに驚いた。それも、自ら決めたんだそうだ。夏休み明けの俺の机の中には、こんな紙切れが入っていた。
『誰かに「まともじゃない」って言われたわけでもないのに、ずっとそう思われてる気がしてた』
「ごめん」でも「さようなら」でもない、たったそれだけのメッセージ。何を伝えたかったのか全ては分からなかったけど、俺は少しだけ腑に落ちた。竹中も何かに囚われて、希望を失い喘いでいるのだろうと、やられる側なりに思っていたから。
列車を降りたら、ホームには秋の匂いの風が吹いていた。
七時間の授業を終え、俺は足早に病院へと向かう。急がないと、面会時間が終わってしまうのだ。
見舞いに来たというのになんのお土産も持たず、コンコンとその病室の扉をノックした。
「桧琉、入るよ」
決まってちゃんと、口に出すようにしている。誰だって、いきなり自分のスペースに上がり込まれたらびっくりするだろうから。それは相手がどんな状態であれ、変わらない。
「お土産……ではないけど、はいこれ。弟から」
ベッドの上で目を閉じたままの桧琉に、『大丈夫』のお守りを見せる。もちろん反応は返ってこなかった。俺は一つ深呼吸し、それをそっと枕元に置いてやった。
桧琉はあの日から3か月以上、この世界では眠ったままだ。病室には桧琉の家族からの花が飾られてあるが、食べ物や飲み物は一切ない。もう、この光景は当たり前になりつつある。
「…………よし、描くか」
俺はイスに腰を下ろして、カバンからスケッチブックと16色入りのオイルパステルを取り出した。どちらも、火事の後に新しく買ったものだ。けれどここへ来る度俺は絵を描くので、減りは随分早い気がする。
捲っても、捲っても桧琉の寝顔だけ。今日もいつもと同じくそのスケッチブックに、桧琉の姿を浮かび上がせることにした。
『なんで。一生捨てないよ』
俺が前に描いた似顔絵を、そう言って大切にしてくれていた桧琉。でも、残念ながらそれも、火の中で燃え尽きてしまったことだろう。だから俺は描き直す。次いつうっかり失くしてもいいように、同じものを何枚でも、何冊でも。
紙に乗せたパステルの色を指で伸ばしながら、考えた。桧琉はもしかして、“こっち”に戻ってくることを恐れているんじゃないかと。
下宿で火災が発生してすぐ、その原因は放火によるもので、犯人が黒松桧琉であろうということは、容易に見当がついていたらしい。つまりは高校の生徒にもその保護者たちにも、情報として知れ渡っているのだ。俺も一度警察から話を聞かれたが、「火をつける瞬間は見ていない」とだけ答えた。そしてもう一つ、
「…………だけど桧琉は、目を覚ましたらきっと正直に自分のやったことを言うはずです」
とも、確信を持って伝えた。
「いつでも起きていいんだよ、桧琉」
俺はベッドに手を置いて、その綺麗な寝顔に喋りかける。
確かに世間からすれば、桧琉は大きな間違いを犯した少年かもしれない。または、受験を目前にして眠り続ける哀れな高校生。でも桧琉なら絶対に大丈夫だ。どんな困難や理不尽に遭っても、夢を掴み取る強さを持ってる。回り道さえ笑いながら歩ける。
──それに、俺が味方でいる。だから…………。
『ちょっとは遅くなるかもしれないけどさ、約束。だからあっちに行っても安心して待ってて』
その約束を守ってくれると信じて疑わず、俺は俺のまま生きる。
「……目が覚めたら、今度は俺からキスするよ」
きっとそれは、数秒後の未来だ。
