「母さん、仕事はいいの?」
ベッド横に飾られた花の水を替えようとしている横顔に、俺は声を掛ける。綺麗に咲く黄色のマリーゴールドは、明るいオーラを放って少々俺には似合わない気がするが、選んでもらったという事実が嬉しい。
「いいのいいの。こんなときくらい人の心配しないで」
「……けど、真世もいるし」
「真世は学校。それにもう小学生じゃないのよ。母さんはお休み貰ってるし、夜には一旦家に戻るから安心して」
そう母さんは俺をなだめた。
家族なら日常的にするであろう、いたって普通のコミュニケーション。でもこんな何気ない会話が、俺にとっては新鮮だ。自分から距離を置いたのが原因で作り上げられた空白の数年間は、既に少しだけど取り戻されつつある。
「あ、そうだ。文世の回復と18歳になったお祝いも兼ねて、お母さんケーキ作ろうかしら」
「え、俺に?」
「もちろん。それにまだ文世、お母さんのケーキ食べたことなかったでしょ。……うーん、どんな見た目がいいかしら」
腕を組んで考えだす母さんに、俺も頭の中で思い浮かべてみた。
苺、レモン、ブルーベリー。生クリームやチョコレート。ホームページでたくさん写真を見てきた俺の脳内には、すぐに様々な種類のケーキが流れてくる。
でもそのとき、ふっと一つのことを思い出した。
「あ…………スケッチブック」
「え?」
「スケッチブック。どこに行った? 俺、それを取りに建物に戻った気がするんだよ」
突然の発言に、困惑した様子の母さん。「なんのこと?」と聞き返されて、俺はすぐにその行き先を察した。
「……きっと、探してる間に燃えたんだろうな。それには俺がいつもパステルで描いてた絵があってさ。ちょっとした日記も一緒に書いてた」
「そう……大事だったのね」
「大事かどうかはよく分からないけど。まあ、でも仕方ないか」
そう俺は諦めるように笑って、あれ、となる。もっと、他の大事なことを忘れているような。
「行くな」と火に向かう俺を止める声。短いキスと長いキス。そして、暴かれた日記の中身────そうだ。
「桧琉、桧琉…………?」
その存在に気が付いて、途端に嫌な汗が全身から噴き出した。きょろきょろと周りを見てもそこには姿がない。スケッチブックなんかより先に思い出すべきだったのに、俺という人間は今までどうして。
「文世、どうしたの落ち着いて」
「母さん、桧琉はどこにいるの」
「っ……」
「生きてるよな? ねえ答えてよ母さん」
縋りつくように問い詰める。俺はもう、冷静ではいられなかった。
「黒松……桧琉くんのこと……?」
母さんの口から出た名前に、俺はこくこくと頷いた。すると母さんは複雑な表情をする。
それはどういう躊躇いなんだ。
推測が悪い方向へと暴走しそうになる。黙って次の言葉を待っている時間が、まるで永遠のように感じられた。
「…………まだなの」
「え?」
「文世と同じ、病院に運ばれて……でもまだ、彼は目が覚めていないの」
ようやく聞けた桧琉の居場所は、思ったよりも近く、遠かった。
それから俺は先生や看護師に身体の状態を診てもらい、病室からの出歩きを許可された。このまま経過が順調なら、もうじき退院できるそうだ。
母さんからは桧琉の病室の番号を聞いた。そのメモに従い、院内をゆっくりと自分の足で進む。走って一秒でも早く桧琉の顔を見に行きたかったが、なんせ立ち上がることさえ3日ぶりだ。途中途中廊下の手すりを借りながら、俺は転ばないよう慎重に歩いた。
「──あれ、志田くん」
やっと桧琉の病室の目の前まで来た、そのときだった。聞き馴染みのある穏やかな声。俺ははっとして足を止める。
「…………照夫さん」
声を出した俺を見て、その人物は呆然としている。しかしすぐに「本当に、志田くんだ」と安心したような表情になり、こちらにタッと近寄ってきた。
「ああよかった。目が覚めたんだね。もう一人で歩いて大丈夫なのかい」
「……はい。今のところ大きな問題はないと。ご心配かけてすみません」
確かめるように肩を触られて、俺は小さく頭を下げた。火事が起きたあの夜も、懸命に生徒たちを守るという役目を果たそうとしていた照夫さんには、申し訳ない気持ちでいっぱいだ。制止を聞かず危険な場所に飛び込んで、しまいにしばらくの間意識を失ったままで。責任を持つ大人として、気が休まらなかったことだろう。
「びっくりしたよ、あのときの志田くんには……」
「はい……すみません」
「謝らなくていいんだよ。それより僕は、こんなことになってやっと後悔したんだ」
「後悔、ですか──?」
すると、照夫さんは急に俯き始めた。ポリポリと頭を掻いて、言いにくそうに、でも何かを俺に伝えようとしている。
「……大人って、歳を取っても情けないものだよね。一時の感情に流されたり、間違いに気付いたのにそれを直す方法さえ分からなくなったり」
「…………」
「僕は志田くんに対して失礼なことをした」
真剣な目で、見つめられる。一方の俺はどんな顔をすればいいか分からない。
「一人の生徒に、他と違う対応を取るべきじゃなかった。そのせいで周りから嫌な言葉を掛けられたなら申し訳ない」
そこまで聞いて、照夫さんの謝罪が何を指しているのかを理解した。アルバイトができなくなった俺を、個人的に心配して力になろうとしてくれた照夫さんの行動。けれど“お手伝い”と称した金銭のやり取りは贔屓だと非難され、気付けば照夫さんとの関係もぎこちなくなっていた。
きっと、少なからず俺が噂されているのを見聞きしていたのだと思う。でも、確かにそれも嫌がらせのきっかけではあったけど、考えてみれば一番じゃない。それまでに散々人と壁を作ってきた俺の態度、集団生活に向いてない打たれ弱さ。結局はそれらを改善しようとしない、自分自身にも問題があったのだ。
「……照夫さんこそ、謝らないでください」
「え──」
「嫌なこともあったけど、照夫さんは優しかった。そもそも俺を見てくれていなかったら、何かしようとも思わないはずです。色々、ありがとうございました」
俺はそう礼をして、くるりと向きを変え病室のドアに手を置いた。
照夫さんはそんな俺に、「黒松くんはまだ……」と言いかける。
「顔、見たいので」
それを遮って俺は答えた。起きているか起きていないかは関係ない。その扉をそっと横に引く。
俺が中に入っていくのを見送る照夫さんは、どこか少し泣きそうな顔をしていた。
「桧琉…………」
その病室には、一つのベッドだけ。
ピ、ピ、という規則的な機械音に、俺が名前を呼ぶ声だけが重なる。
「桧琉、こんなところにいたんだな」
そばにイスを持ってきて腰掛けながら、そう喋りかけてみてももちろん返事はない。桧琉は静かに瞼を閉じて、口に当てられた呼吸器からただ酸素を送り込まれていた。
睫毛が、綺麗だ。離れ離れになってしまうかもしれないと恐れたあの部屋での最後の時間が、とても懐かしく感じられる。桧琉は、まだ薄暗くて誰もいない下宿に、一人取り残されているのだろうか。
──俺だけが、現実に戻ってきたんだよな。
母さんは俺が眠っていたのが三日間と言ったけれど、確かに“中間の世界の下宿”に二人で閉じ込められていた時間はそれぐらいに相当するかもしれない。空腹も眠気もほとんど感じずに、ただ水だけが嘘のように美味しかった。きっとそれは火の中で力尽きた俺たちが、救助されて病院へ来た後も、本能的にそれを欲していたからだと思う。
本当に不思議な時間だったな、と振り返りながら、俺は桧琉の頭に手を伸ばした。少しだけ焦げた、黒い髪。それを手櫛で梳いてやる。
「夢だったとは、思わないよ」
俺は小さく呟いた。
「泣いたり、笑ったり、トランプしたり。全部慣れないけど楽しかったな。ずっと桧琉が優しいから、出られなくてもいいやって思ってた」
いつまでも誕生日を二人きりで過ごそうって、桧琉は言った。不気味なはずの空間が、俺の傷一つ一つを癒してくれた。
たった今、そんな全ての瞬間を鮮明に思い出せる。
『文世。オレは、文世が好きだよ』
『俺も好きって言いたかったよ……』
それらを夢だと片付けてしまうのは、あまりに寂しいことだろう。
だから先に目覚めた俺だけは、誰に否定されようと心の中で信じていたい。
ベッド横に飾られた花の水を替えようとしている横顔に、俺は声を掛ける。綺麗に咲く黄色のマリーゴールドは、明るいオーラを放って少々俺には似合わない気がするが、選んでもらったという事実が嬉しい。
「いいのいいの。こんなときくらい人の心配しないで」
「……けど、真世もいるし」
「真世は学校。それにもう小学生じゃないのよ。母さんはお休み貰ってるし、夜には一旦家に戻るから安心して」
そう母さんは俺をなだめた。
家族なら日常的にするであろう、いたって普通のコミュニケーション。でもこんな何気ない会話が、俺にとっては新鮮だ。自分から距離を置いたのが原因で作り上げられた空白の数年間は、既に少しだけど取り戻されつつある。
「あ、そうだ。文世の回復と18歳になったお祝いも兼ねて、お母さんケーキ作ろうかしら」
「え、俺に?」
「もちろん。それにまだ文世、お母さんのケーキ食べたことなかったでしょ。……うーん、どんな見た目がいいかしら」
腕を組んで考えだす母さんに、俺も頭の中で思い浮かべてみた。
苺、レモン、ブルーベリー。生クリームやチョコレート。ホームページでたくさん写真を見てきた俺の脳内には、すぐに様々な種類のケーキが流れてくる。
でもそのとき、ふっと一つのことを思い出した。
「あ…………スケッチブック」
「え?」
「スケッチブック。どこに行った? 俺、それを取りに建物に戻った気がするんだよ」
突然の発言に、困惑した様子の母さん。「なんのこと?」と聞き返されて、俺はすぐにその行き先を察した。
「……きっと、探してる間に燃えたんだろうな。それには俺がいつもパステルで描いてた絵があってさ。ちょっとした日記も一緒に書いてた」
「そう……大事だったのね」
「大事かどうかはよく分からないけど。まあ、でも仕方ないか」
そう俺は諦めるように笑って、あれ、となる。もっと、他の大事なことを忘れているような。
「行くな」と火に向かう俺を止める声。短いキスと長いキス。そして、暴かれた日記の中身────そうだ。
「桧琉、桧琉…………?」
その存在に気が付いて、途端に嫌な汗が全身から噴き出した。きょろきょろと周りを見てもそこには姿がない。スケッチブックなんかより先に思い出すべきだったのに、俺という人間は今までどうして。
「文世、どうしたの落ち着いて」
「母さん、桧琉はどこにいるの」
「っ……」
「生きてるよな? ねえ答えてよ母さん」
縋りつくように問い詰める。俺はもう、冷静ではいられなかった。
「黒松……桧琉くんのこと……?」
母さんの口から出た名前に、俺はこくこくと頷いた。すると母さんは複雑な表情をする。
それはどういう躊躇いなんだ。
推測が悪い方向へと暴走しそうになる。黙って次の言葉を待っている時間が、まるで永遠のように感じられた。
「…………まだなの」
「え?」
「文世と同じ、病院に運ばれて……でもまだ、彼は目が覚めていないの」
ようやく聞けた桧琉の居場所は、思ったよりも近く、遠かった。
それから俺は先生や看護師に身体の状態を診てもらい、病室からの出歩きを許可された。このまま経過が順調なら、もうじき退院できるそうだ。
母さんからは桧琉の病室の番号を聞いた。そのメモに従い、院内をゆっくりと自分の足で進む。走って一秒でも早く桧琉の顔を見に行きたかったが、なんせ立ち上がることさえ3日ぶりだ。途中途中廊下の手すりを借りながら、俺は転ばないよう慎重に歩いた。
「──あれ、志田くん」
やっと桧琉の病室の目の前まで来た、そのときだった。聞き馴染みのある穏やかな声。俺ははっとして足を止める。
「…………照夫さん」
声を出した俺を見て、その人物は呆然としている。しかしすぐに「本当に、志田くんだ」と安心したような表情になり、こちらにタッと近寄ってきた。
「ああよかった。目が覚めたんだね。もう一人で歩いて大丈夫なのかい」
「……はい。今のところ大きな問題はないと。ご心配かけてすみません」
確かめるように肩を触られて、俺は小さく頭を下げた。火事が起きたあの夜も、懸命に生徒たちを守るという役目を果たそうとしていた照夫さんには、申し訳ない気持ちでいっぱいだ。制止を聞かず危険な場所に飛び込んで、しまいにしばらくの間意識を失ったままで。責任を持つ大人として、気が休まらなかったことだろう。
「びっくりしたよ、あのときの志田くんには……」
「はい……すみません」
「謝らなくていいんだよ。それより僕は、こんなことになってやっと後悔したんだ」
「後悔、ですか──?」
すると、照夫さんは急に俯き始めた。ポリポリと頭を掻いて、言いにくそうに、でも何かを俺に伝えようとしている。
「……大人って、歳を取っても情けないものだよね。一時の感情に流されたり、間違いに気付いたのにそれを直す方法さえ分からなくなったり」
「…………」
「僕は志田くんに対して失礼なことをした」
真剣な目で、見つめられる。一方の俺はどんな顔をすればいいか分からない。
「一人の生徒に、他と違う対応を取るべきじゃなかった。そのせいで周りから嫌な言葉を掛けられたなら申し訳ない」
そこまで聞いて、照夫さんの謝罪が何を指しているのかを理解した。アルバイトができなくなった俺を、個人的に心配して力になろうとしてくれた照夫さんの行動。けれど“お手伝い”と称した金銭のやり取りは贔屓だと非難され、気付けば照夫さんとの関係もぎこちなくなっていた。
きっと、少なからず俺が噂されているのを見聞きしていたのだと思う。でも、確かにそれも嫌がらせのきっかけではあったけど、考えてみれば一番じゃない。それまでに散々人と壁を作ってきた俺の態度、集団生活に向いてない打たれ弱さ。結局はそれらを改善しようとしない、自分自身にも問題があったのだ。
「……照夫さんこそ、謝らないでください」
「え──」
「嫌なこともあったけど、照夫さんは優しかった。そもそも俺を見てくれていなかったら、何かしようとも思わないはずです。色々、ありがとうございました」
俺はそう礼をして、くるりと向きを変え病室のドアに手を置いた。
照夫さんはそんな俺に、「黒松くんはまだ……」と言いかける。
「顔、見たいので」
それを遮って俺は答えた。起きているか起きていないかは関係ない。その扉をそっと横に引く。
俺が中に入っていくのを見送る照夫さんは、どこか少し泣きそうな顔をしていた。
「桧琉…………」
その病室には、一つのベッドだけ。
ピ、ピ、という規則的な機械音に、俺が名前を呼ぶ声だけが重なる。
「桧琉、こんなところにいたんだな」
そばにイスを持ってきて腰掛けながら、そう喋りかけてみてももちろん返事はない。桧琉は静かに瞼を閉じて、口に当てられた呼吸器からただ酸素を送り込まれていた。
睫毛が、綺麗だ。離れ離れになってしまうかもしれないと恐れたあの部屋での最後の時間が、とても懐かしく感じられる。桧琉は、まだ薄暗くて誰もいない下宿に、一人取り残されているのだろうか。
──俺だけが、現実に戻ってきたんだよな。
母さんは俺が眠っていたのが三日間と言ったけれど、確かに“中間の世界の下宿”に二人で閉じ込められていた時間はそれぐらいに相当するかもしれない。空腹も眠気もほとんど感じずに、ただ水だけが嘘のように美味しかった。きっとそれは火の中で力尽きた俺たちが、救助されて病院へ来た後も、本能的にそれを欲していたからだと思う。
本当に不思議な時間だったな、と振り返りながら、俺は桧琉の頭に手を伸ばした。少しだけ焦げた、黒い髪。それを手櫛で梳いてやる。
「夢だったとは、思わないよ」
俺は小さく呟いた。
「泣いたり、笑ったり、トランプしたり。全部慣れないけど楽しかったな。ずっと桧琉が優しいから、出られなくてもいいやって思ってた」
いつまでも誕生日を二人きりで過ごそうって、桧琉は言った。不気味なはずの空間が、俺の傷一つ一つを癒してくれた。
たった今、そんな全ての瞬間を鮮明に思い出せる。
『文世。オレは、文世が好きだよ』
『俺も好きって言いたかったよ……』
それらを夢だと片付けてしまうのは、あまりに寂しいことだろう。
だから先に目覚めた俺だけは、誰に否定されようと心の中で信じていたい。
