ミッドウェー・バースデー

 深いところにあった意識が徐々に浮上してきて、久しぶりに両の目をゆっくり開ける。
 まず初めに感じたのは鋭い眩しさ。次に、肺が空気を取り込んで膨らむ感覚。俺は瞬きを二、三回して、やっと視界に真っ白な天井を捉えた。

「…………」

 ここは一体どこだろう。なんとか首を動かしてみる。すると、一人の人物が俺の気配に気付いて顔を上げた。

「文、世──?」

 その顔を見て、頭が一気に冴える。なぜ、どうして俺の目の前にいるんだ。「あぁ、よかった気が付いて」と、手を握られるが思考が追いつかない。

「母さん…………」

 そう、そこには紛れもなく、瞳に涙を浮かべる母さんの姿があった。耳に届く声も手の平から伝わってくる体温も、とてもリアルで夢とは思えない。俺は起きたばかりの声帯を必死に動かして、状況を理解しようと試みた。

「なんで、俺……」
「三日間、目が覚めなかったのよ。ここは文世が運ばれた病院。下宿が火事になったのは覚えてる? だけど、文世はもう大丈夫だからね」

 母さんは俺が聞き取れるように、身を近付けてそう言った。母さんの生の声なんて、ずっと帰省していなかったから本当に久々だ。俺は時間をかけてその言葉を咀嚼して、目線だけで辺りを見渡した。

「病院……本当だ」
「うん、文世はここのベッドでずっと眠っていたの。お母さん、すごく心配だったけど……でも本当によかった。文世が無事でいてくれてよかった」

 母さんは、俺に向かって微笑んでいる。そんな表情もいつぶりだろう。

「そうか、俺、生きてたんだ……」
「そうよ」
「あの下宿から、出られたんだ」

 言葉に出すと、実感が湧いてくる。6月4日の夜に起こった事件、そして誕生日を迎え、燃えたはずの空間に閉じ込められていた不思議な記憶。頭に様々な映像が駆け巡って、唯一はっきりと分かったのは、今俺の心臓が力強く動いているということだった。
 母さんは安心したような顔をしていたが、やがて意識を取り戻した俺の姿を眺めていると、雰囲気を変え少し声を落として喋り始めた。

「でもね、文世──お医者さんが言ってたの」
「?」
「火事の炎で、背中に酷い火傷がある。それは理由が説明できるけど、身体中の傷跡はおそらく違うって」

 俺は、なんの話かすぐに理解した。

「左耳の形も、そう。……文世、お母さんの知らない間に何があったの?」

 それは決して、強い問い詰めではなかった。言いたくないなら言わなくていいと、そんな目をしながらも心配を隠せない様子の母さん。数年の間にできた親子間の溝に、俺だけでなくきっと母さんもどこまで歩み寄るべきか迷っているのだ。
 本当は、誰にも打ち明けるつもりのなかった痛み。こんな形で知られることになるとは予想していなかったし、今までの俺なら「なんでもないよ」と答えたかもしれない。でも、長い眠りから醒めた現在、なぜか隠し通さなければとはもう思わない。

「…………あのね、母さん。俺、自分が傷つけられる側になるなんて考えたことなかったんだ」

 だから俺は、誤魔化すのではなく正直に話すことにした。

「でも、俺はある人にとって目障りだったから殴られるようになった。怖くって、抵抗できなかった。助けを求める力も湧かなくて……気付いたらもうぼろぼろだった」
「え……」

 母さんはショックを受けて言葉を失う。

「死にたいって思ったり、朝が来てまた生きようって思ったり。そんなことの繰り返し。それまではずっと、心のどこかで母さんを弱い人だと思ってたんだよ。でも、逆だって気付いた」

 母さんと似たような経験をして。恐怖を味わう度に「なんで俺が」って声にならない声を上げて。
 自分の弱さと醜さを知った。

「傷ついてるのに、母さんはちゃんと生きてた。逃げないで、負けないで俺たちを守るために生きてた。……俺は、母さんほど強い人は見たことがないよ」
「文世…………」

 これを伝えられる日が来るとは、かつての俺は想像もしないだろう。
 母さんはベッドに横になったまま話し終えた俺を、すすり泣きながら抱き締めた。温かい腕だ。「ごめんね」と、その体勢で謝られる。

「母さん──?」
「お母さんのせいで、文世にたくさん我慢させたよね。小っちゃい頃から、今日までずっと」
「……」

 不意に言われて、反応できない。

「文世はすごく優しい子だから、その分居づらくさせちゃったよね。家を出るって言ったときも、これじゃお母さんが追い出してるみたいだなって、なんとなく感じてはいたけど引き止められなくて……」

 ああ、母さんもなんの感情もなく、俺を送り出したわけじゃなかったんだ。

「まだ高校生の文世を一人にさせたのはお母さんのせい。その上酷い目にも遭ってたなんて……ごめん、ごめんね。許さなくていいから」
「…………そんな」
「でもね、これだけは本当。18年前に生まれたときからずっと、文世のことが大切よ」

 そして、俺は母さんの“邪魔”ではなかったんだ。
 母さんは「お誕生日おめでとう」と三日遅れのお祝いを口にして、更に身体をきつく抱き締めた。俺も、ゆっくりと腕を動かしてその背中に回す。
 白い光に満ちた病室で、俺は幼い子供のように母の体温を独り占めした。