ミッドウェー・バースデー

「……だんだん、思い出してきたんだ。誕生日の前の日の夜、オレが下宿に火をつけたこと」

 長い長い沈黙の後の桧琉の告白は、眠っていたはずの俺の記憶も、ゆっくりと時間をかけて呼び起こした。
 脳裏に刻み込まれた炎の色。むせ返るような煙の臭い。それらをどうして今まで忘れていたんだろう。

「オレは忘れものを取りに中に入っていった文世を追いかけて、床に倒れ込んでる姿を見たところまでは覚えてる。……でも、その先は思い出せない」
「忘れもの…………あぁ、スケッチブック……」

 そうだった、とその日の行動が蘇った。「逃げろ」という声がしたから何も持たずに咄嗟に逃げたけど、いざ下宿から離れるとなって急に気が付いたんだ。あの絵を母さんに見せなくちゃ。ただそれだけが頭に浮かんで、俺は周りが見えなくなったのだと思う。

 ──スケッチブックは、唯一の俺の生きた証だったから。

 桧琉はぎゅっと、俺の存在を確かめるみたいに両手を握ってこう続けた。

「熱くて、苦しくて……きっとオレもそのまま文世のそばで倒れたんだ。目の前にいる文世を、助けられないまま」
「……」
「文世が死ぬのが怖くて下宿(ここ)を燃やしたのにね。結局、オレのせいで文世は──」

 俺は「待ってよ」と遮った。桧琉のせいで、なんて俺は微塵も思っていない。

「そもそも、俺たちが死んだ証拠なんてないだろ? こうして息をして、喋ってる。身体に触れることもできる」
「じゃあなんで出られない?」
「それ、は……」
「誰もいないのも電気が点かないのも、外が煙に囲まれてるのもおかしいよ。もう、ここは普通じゃない」

 見えているのに見えないふりをしてきた、異変の数々。桧琉はすぐに状況を飲み込んで、まるで平気なように俺の前じゃ振る舞っていたけど、何も考えていないわけじゃなかった。「でもね」、と桧琉は俺の目を見る。

「オレ、ここを燃やしたこと自体は後悔してないんだ。だって、文世が文世に殺されることも、他の奴らの歪んだ感情に殺されることも、絶対に許せなかったから」

 どきりとした。迷いのない響き。
 桧琉は俺の日記を読んでからというもの、きっとたくさんのことを考えてくれたのだろう。それはさっきの屋上での台詞からも伝わる。

『もっと自由に、勝手に生きていいんだよ。何にも(とら)われず、何にも押し殺さず、本当は文世は生きていっていいんだよ』

 あんなの、いくら飛び降りようとしている人間を見かけたからって、すぐには出てこない言葉たちだ。
 でも、だからって俺一人のために。桧琉は本来、そんな道を歩むはずのなかった人物じゃないか。

「なんでだよ……」
「え?」
「桧琉は自分で取捨選択が苦手って言ってただろ。これからやりたいこともいっぱいある」

 俺は口に出さずにはいられなかった。

「なのになんで…………こんな、全部をめちゃくちゃにするようなことした?」

 それは桧琉の放った火で、俺が死んだかもしれないという怒りじゃない。桧琉が桧琉の人生を棒に振って、周りからの信頼も放棄するような選択をしたことに対する怒りだ。18で見切りをつけようとしていた俺とは違うだろ、と、感情的になって桧琉の肩を掴む。

「なぁ桧琉……」
「違う。文世、文世聞いて」
「え──?」

 桧琉はそんな俺の顔を覗き込み、言い聞かせるみたく微笑んだ。

「オレはなんにも捨ててないんだよ。今までごちゃごちゃしてた色んなものが頭から消えてなくなって、文世が俺の見える全部になって、それを拾っただけだから」
「っ…………」
「オレは結局、全部を選んだんだ」

 ああ、俺はこの男を、どう受け止めればいいんだろう。肩を掴んでいた手の力が抜けて、代わりに服を引っ張った。後悔していないならそれでいいよって、そんな簡単には思えない。

「桧琉……桧琉……」
「うん?」

 でも、起こってしまったことを今更言うのはもう遅いし。

「……本当は、少しだけ怖い?」
「へ──」

 そう問うと、桧琉はつうっ、と一筋の涙を溢した。
 桧琉は俺よりも強いから、こんな姿を見るのは初めてだ。不安が自分一人のものではなくなったとき、誰もが上手く隠せなくなる弱い部分を。

「……桧琉も静かに泣き出すんだな」

 いつの日か桧琉に言われた言葉を思い出して、俺は困り笑いを浮かべながらその頭を撫でた。
 何が間違いだったとか、考えるのは大人になってからでいい。
 今はただ、桧琉の全てが好きだ、と思う。