ミッドウェー・バースデー

 毎朝、文世の顔を一番に見たいと思うようになった。
 それは底知れない不安からだ。というのも、なんだか最近文世が常に暗い顔をしている気がする。前から笑顔は少ないタイプだったけど、その瞳は澄んでいてちゃんと静かな生気があった。でも、今は何か違う。

 ──目を離したら、どっか遠くに行っちゃいそうな……。

 形のない不安がよぎる度、オレは文世の存在を確かめるように部屋のドアを叩いた。鍵が開いた瞬間滑り込み、少し痩せたようにも見えるその輪郭に手を添えキスをする。

「んっ……」

 文世の鼻からわずかに漏れる息に、ほっとした。それに唇を離した直後の文世の瞳には、一瞬だけかつての光が戻るように見えたのだ。オレは「何かあったの」と直接聞くこともできないまま、ただただ体温を分け与え続けた。
 時は流れ、高校三年生になった。文理で分かれるので文世とはまた違うクラスだ。
 とある昼休み、オレは文世の教室の前を通りかかり、不思議に思う。窓際の席にその姿がない。文世は大抵どこにも行かず自分の机で昼を食べるのに、今日はどうしたんだろうか。

「え、保健室?」

 親切な女子に教えてもらい、文世の居場所をすぐに突き止めた。彼女が言うには授業中、意識が遠のいてイスごと倒れたという。オレが慌てて保健室に向かうと、そこには養護教諭が不在でベッドが一つだけ使用中になっていた。

「寝て、る…………?」

 小声で確かめながら、そろそろと近付く。文世はきちんと布団を掛けないまま深く眠っていて、オレの気配に気付く様子はない。布団を直そうと更に一歩近くへ行くと、開きっぱなしのスケッチブックが目に入った。

 ──これ、文世がいつも持ち歩いてるやつだよな……?

 前に一度だけ中身を見たことがあったけど、それは確かケーキのような絵だったはずだ。しかし、今見えているのは小さく書き綴られた文字。つい、気になって手に取ってしまう。
 そしてオレは衝撃を受けた。4月28日、今日の文章だ。「一つでも歳を重ねてから死んだ方が──」……何のことだ? これは本当に文世が書いたのか?
 分からなくって、ページを遡る。絵の裏に日記、それがこのスケッチブックの形式らしい。文世の考えていることが知りたくて、今すぐ知らなきゃ何かよくないことが起きる予感がして、オレは急き立てられるように最初から順を追って読み始めた。



 オレは、なんにも文世の力になんてなれていなかった。
 生々しい日々の記録と、それを際立たせるみたいな綺麗なお菓子たち。全てを読み切ってまた4月28日の文に戻り、オレはやっと理解する。このままじゃ、文世は今年の誕生日を過ぎた頃には……。
 オレは首を横に振って、そっとベッドの上にスケッチブックを戻した。そして、布団を掛け直してやる。

「……オレが、なんとかするから」

 小さく呟いて、物音を立てないように保健室を後にした。すると、オレが自分の教室に戻ろうと廊下を歩いていたときだ。

「──竹中? 何してんだ、こんなところで」

 向かいからやって来た竹中と、鉢合わせた。オレと逆の方向へ行くということは、と咄嗟に考えて引き止める。竹中は「別に?」と答えただけで、そのまま先へ行こうとした。

「待てよ。保健室なら先生はいないぞ」
「……は?」

 図星だったからだろうか、竹中は不機嫌そうにこちらを睨んだ。

「何が言いたいんだよ」
「保健室じゃないなら別にいいけど。……あとさ、今日の部活の後、バスケ部の中で下宿住みのメンツだけ集めて話がしたい」
「……なんだよ、急に」
「連絡だよ。竹中ももちろん来いよ」

 いつもの笑顔は、作れない。オレは少しも口角を上げず竹中にそう告げ、一瞥してからその場を去った。
 そして、その日の部活終わり。予告通りオレが「話がある」と呼びかけると、皆はつまらなそうな顔をしつつも集合してくれた。体育館の隅、突然に重い空気が流れる。

「…………誰が、とかは言わないけど」

 オレは意を決して口を開いた。

「下宿の中で、複数人からいじめを受けて辛い思いをしてる子がいる。そのせいで体調を崩したりもして、ぎりぎりの状態になってるのを見聞きしたんだ。もしこの中でそのいじめに関係してる人がいるのなら、今すぐやめた方がいい」

 皆、オレの言葉に下を向く。中には後輩もいて、きっと三年から言われるというのはかなりの効き目だ。オレは続けた。

「……あと、暴力を振るうなんていうことは、あったとしたら更に大問題だ。オレはそいつを逃がさない」

 あえて竹中の方は見ず、全体に向けてそう言った。オレだって、日記を読んだだけじゃ全ては把握できていない。ただ、忠告がしたかった。誰であれ文世を追い詰めている奴は、今のうちに踏みとどまるべきだと。

「分かった、分かった。皆は行っていいよ」

 しかし話が終わったところで、竹中が勝手に場を解散させた。「あとはこいつと二人で話すから」と、手振りを使って皆を遠くに行かせる。

「お前さあ、顧問みたいな顔して説教? してたけど」
「……」
「普通にキモいよ。志田なんかの味方して何が得なの」

 そうして二人になった瞬間、竹中はニヤついた表情でオレに近付いてきた。

「あいつが女みたいだからって誘惑されかけてんじゃねえの?」

 つん、と指で肩を(つつ)かれる。オレは頑なに顔色を変えなかった。

「……それは竹中の方だろ」
「は?」
「何かある度に『女みたい』とか、いちいち言うのお前だけだよ。他の奴らは指示されてるだけで、そんなに文世に執着してんのも竹中だけ。思ってることあるなら回りくどいことするなよ」
「…………うるせぇよ」

 竹中は途端に眉間に皺を寄せた。いちばん刺されたくないところを刺された、みたいな反応で、動揺したのか表情をころころと変える。しかし、再び薄ら笑いに戻って、

「あいつのせいで……おれは……」

 と、自ら悪意を認めるような発言をし始めた。

「大体、男のくせに中途半端な見た目してるから悪いんだよ。……本当に、あいつのせいで滅茶苦茶になった」
「……竹中?」
「おれは高校で真面目にやって、いい大学行って、親父の病院継がなきゃなんねえんだよ。まともに生きるはずだった……おれが狂ってるなんて知られたら、親父に捨てられて将来終わりだ…………」

 竹中はぶつぶつと、独り言のようにそんなことを喋った。笑みを浮かべてはいるが、瞳の奥はちっとも笑っていない。むしろ声にはならない悲痛な叫びを、その中に無理やり閉じ込めているように見える。

「竹中……。でも、その不安を文世にぶつけるのは──」
「お前だって同じだろ」
「え?」
「志田のこと、前からそういう目で見てたんだろ」

 心臓が跳ねる。竹中は、オレたちのことを勘付いていたのか? それだけじゃない。まさか、竹中自身も……。

「──なぁ、おれが志田のこと犯すって言ったら、どう思う?」

 オレはその言葉に頭が真っ白になって、しばらくそこから動くことができなかった。