ミッドウェー・バースデー

 ガチャガチャとドアノブを回しても、もちろん開かないその扉。でも俺はこの先に行くしかない。桧琉はあともう少しでやってきてしまう。

「……くそっ」

 何か方法はないかと考えて、周りを見る。すると何かの踏み台にしていたのであろうコンクリートブロックを足元に見つけ、俺は迷わずそれを持ち上げた。
 ドアノブめがけて、力任せに振りかざす。ガンッ、ガンッと大きな音が響いて、この行為をしているのが自分だなんて信じられない。けれど何度も繰り返しているうちに形は歪んでいき、

「っ、開いた────」

 俺はついに扉を破壊することに成功した。
 しかし外に出てみても、やはり白い(もや)が一面に広がっていて遠くが視認できない。かろうじて屋上の柵の位置は分かるけど、その先は本当に何があるか分からなかった。

「けほっ、けほ」

 そしてその視界を悪くしているものの正体は、どうやらただの霧ではなく煙に近そうだ。息を吸った瞬間激しく咳き込んでしまい、俺はよろけながらも屋上の端を囲う柵にしがみつく。今すぐここから消えてしまいたかった。

「文世!!」

 足を掛けようとしたそのとき、俺の名前を叫ぶ声がした。遅れてやってきた桧琉だ。桧琉は俺と同じく苦しそうな咳をし、けれど立ち止まることなく近付いてくる。

「文世。文世がこの扉壊したの? なあ、そんなとこで何してるんだよ」
「……こっちに来るな」

 俺は震える声で桧琉を制止させた。煙のせいでこの下がどうなっているかは見えないけど、もういつでも飛び降りる準備はできている。しかしまた後ろから桧琉が近付いてくる気配がして、

「来るなって!」

 と、涙をぼろぼろ溢しながら叫んだ。

「やっと俺は死ねるんだ。誕生日まで耐えてきた。ずっと、もうずっと死にたかったんだよ」
「待ってよ文世。こんなところから飛び降りたって……下に地面があるかも分からないよ」

 冷静さを保った桧琉はそうなだめてくる。俺は負けじと言い返した。

「いいんだよ! どうなってもいい。ここから飛んだら生まれ変わるかもしれないし、生まれ変わらないかもしれない。でもどっちにしろ今よりは…………今よりはマシなはずだ」
「…………」
「俺が死んだって勝手だろ」

 とても桧琉の顔なんて見ることはできない。背中を向けているから言える台詞たちは、所詮ただの強がりなのだろう。その証拠に俺の顔は涙でぐちゃぐちゃで、息も苦しくて、柵に掴まって立っているのがやっとなくらいだった。

「──そうだね」

 だけど、少しして返ってきた桧琉の言葉に、俺は一瞬で意識を持っていかれて固まった。今、桧琉はなんと言った。自分の耳を疑って、柵に乗せようとしていたもう片方の脚も動かない。

「……え──?」
「でも、生きるのだって勝手だよ」

 恐る恐る、振り返る。桧琉は屋上の真ん中に立ち、安心させるように微笑んでただ俺だけを見据えていた。

「もっと自由に、勝手に生きていいんだよ。何にも(とら)われず、何にも押し殺さず、本当は文世は生きていっていいんだよ」
「…………」

 静かにまた一つ、滴が落ちた。
 じわじわと、胸の辺りに暖かい日の光が差し込むような感覚。
 桧琉がゆっくりと歩み寄ってくる。俺は小さく首を横に振るけど、それを拒否する声は喉から出てこない。そのまま距離は縮まって、

「文世はきっと、生まれ変わらなくても幸せになれる」

 桧琉の腕に強く抱き締められ、耳元でそう祈るように言われた。

「かい、る…………」
「辛かったよね。怖かったよね。オレも混乱させたよね」
「けほっ、っ……」
「ごめん、ごめん。もうこれ以上文世を悩ませないから」

 桧琉は俺の背中をさすりながら、何度も「ごめん」を繰り返した。俺は泣きじゃくったせいと煙を吸ったせいで息苦しいが、心にはだんだん隙間ができていくのを感じる。そして自覚した。
 そうか。全部どうでもいいと諦めていたつもりだったけど、俺も本当は幸せになりたかったんだ。
 誰かに愛される夢をみて、だけどそんなのは贅沢だと否定していなきゃやっていけなくて。
 
 ──“死にたい”って、“もっと幸せになりたい”ってことだったんだ。

「文世。オレは、文世が好きだよ」
「え……?」

 そのとき、そんな突然の桧琉の言葉に、俺は数えられないくらいの瞬きをした。時が止まる。訳が分からなくて、でもその響きは生まれたときからずっと欲していたもののように聞こえて、俺は反射的に桧琉の顔を見上げた。

「好きになったから、声をかけた。好きになったから、キスをした。だけどそんなこと言ったら文世は追い詰められてオレの前からいなくなるだろうから、ずっと言えないまま今日になった」

 桧琉は俺の目を見て話し続ける。

「でもずるいよね。文世の言う通りだ。告白はしないくせにキスはして、きっと抵抗できないだけなのに受け入れられてる事実に甘えて。……なんだこいつって思ったよね」
「…………」
「何も言わないことが文世を追い詰めてるって、やっと分かったから。遅くなってごめん」
「桧琉──」

 信じられない。今までの言動、今までの視線。慰められたときの空気の甘さ。それらに理由があったらいいのにと、俺は一人になる度ぐるぐる彷徨っていた気がする。でもまさか、それが「好きだった」という簡単な言葉で説明がつくなんて……俺にとって曖昧だった関係が、桧琉にとっては感情の答え合わせだったなんて……。

「でも桧琉、俺……」
「いいよ」
「え?」

 言葉を途中で遮られた。

「考えようとしなくていいよ」

 桧琉はそう言って、俺を抱き締めていた腕を解く。そして屋上の入口の方へ歩いた。

「──どういう、意味……」
「オレだって少しはあるよ。不安な感覚。これって周りにどう見られるんだろうとか、本当に自分は間違ってないのかとか。それを今の文世にまで背負わせたくない」

 「だからさ」と、桧琉は背中を向けた。

「オレに好きって言われて返事はどうしようとか、そういうの文世は考えなくていいから。遠くに行かないでくれれば、それだけでいいから」

 その声は優しくて、少し寂しそうだった。
 俺は迷う。引き止めなければ、桧琉はこのまま行ってしまう。きっと俺が何も答えなくても、これまで通り平気な顔で笑いかけてくれるだろうけど、果たしてそれでいいんだろうか。
 俺が少しだけ勇気を出したら、何か変わる? そのせいでまた誰かに指を差される? いくらでも悪い方向に物事は想像できるけど。

 ──もう、俺は勝手に生きていいんだった。

「桧琉っ!」

 俺は立ち去ろうとする桧琉に後ろから抱きついた。
 人との距離は3メートル。そんなものを忘れてしまったかのように、初めて自ら近付いたのだ。だってさっきあれだけ叫んだり、大きな物音を立てて扉を壊したりしておいて、ルールに囚われるなんて今更でしかない。
 俺は想いを、返したい。

「……考えさせてよ」
「文世──?」

 桧琉は驚いた様子で俺の顔を見た。

「なんで桧琉の前だと泣けるのか、なんで桧琉にされるキスで救われるのか、ずっと考えないようにしてきたけどもう辛いよ。“嫌じゃないなら”考えてって言えよ」
「…………」

 震える手で、桧琉の服を掴む。心臓は痛いくらいに速かった。だけどこの下宿に閉じ込められる前と後、走馬灯のように浮かぶこれまでの記憶が俺の背中を押したから、

「俺も好きって言いたかったよ……」

 その言葉は自然と漏れていた。