ミッドウェー・バースデー

 誕生日の朝に下宿に閉じ込められたりしなければ、18になった俺は遠いどこかへ行けるはずだった。

「……こっそり人の日記読んだりして、悪かったとは思ってる。でも、オレはむしろもっと早く読んでいればって後悔した」

 スケッチブックの表紙を撫でながら、桧琉は窓の外を眺めてそう言った。どうせ俺の部屋からも真っ白な霧のようなものしか見えないが、床に座り込む今の俺はあまりに哀れで、桧琉も見るに堪えないのかもしれない。ただ、秘密を暴いた・暴かれた直後の重たい空気が、二人の間にどんよりと流れていた。

「竹中たちが文世に嫌がらせしてたことはなんとなく知ってたよ。でもまさか暴力を振るわれてるとまでは思ってなかった。毎日文世の顔は見てたけど、どこにも傷なんてなかったから。……そういう場面も、噂になってなかったし」
「……そりゃそうだろ」

 そんな中でも話しかけてくる桧琉に、俺は不思議と渇いた笑みがこぼれてくる。

「どうして?」
「竹中は自分の部屋でしか俺を殴らないし、人に気付かれるような箇所は狙わない」
「え……それって、文世が竹中の部屋によく行ってたってこと?」
「そうだよ」
「……無理やり連れ込まれてたの?」

 桧琉は憐れむような表情をして俺の方を振り向いた。今度は俺が窓の外に目線を逸らす。

「……別に。いつも自分の足で行って、自分の足で帰ってきてた」
「…………」

 答えておいて、俺は本当に頭がおかしいなと思う。でも事実だ。抵抗することで竹中の機嫌を損ねて更に酷い乱暴をされるくらいなら、最初から大人しく従う方が身のためだって、信じて疑っていなかったから。
 言葉も出ない様子の桧琉だったが、少しして何か思いついたように、俺のスケッチブックを再び捲りだした。

「──じゃあこれは? 『母さんも昔こういう思いをしてたんだろうか』とか、『このまま俺も母さんと同じになるだけだ』とか。文世が死にたいって思うことと、文世のお母さんは何か関係してるの?」
「……母さんも、昔父さんに殴られてたらしいから。それで男嫌いになって、仕事にも生活にも悪く影響してるのを側でずっと見てきた。男なのに男に抗えない俺は、母さんと同じ道を辿るんだろうなって、リアルに想像できただけ」
「あぁ、男嫌い…………前に文世が言ってた、『母さんの視界から消えてあげたかった』ってやつ?」
「そう、それだよ」

 今なら普段口の堅い俺が、諦めてなんでも素直に答えると思っているのだろう。桧琉はここぞとばかりに日記について追及してくる。

「でも、だからって……お母さんみたいになったら、文世は生きていけないの?」
「……それはまだ分からないけど、ただ」
「ただ?」

 俺は言葉を探した。

「母さんを傷つけたくなくて、髪を伸ばしたり声を殺したり、できるだけ存在感を消して生きてきた。結局息苦しくなって距離を置いたけど、その先でもそんな俺の様子は他の誰かにとって目障りで、逆に『男のくせに』って殴られた。どこに行っても邪魔になる。それが俺の現実だ」
「文世……」
「でも、もうどうでもいい」

 こんな話、将来有望で人気者の桧琉にして何になるというのだろう。俺はひと通り話し終えたので、「(わら)っていいよ」と自嘲気味に付け足す。しかし桧琉は「……本当に?」と真剣な顔で聞き返した。

「本当に、どうでもいいって思ってる?」

 そう真っ直ぐに問われて、俺は困惑した。

「……え?」
「オレがいるから、もう少しだけ生きようって思ってくれたんでしょ? 書いてあったよね、『思い上がりかもしれないけど、俺のせいで暗い気持ちのまま誕生日を迎えさせたくない』って。思い上がりじゃないよ。文世が死んだらオレは悲しい。そのことが分かってるのに文世は死ぬの?」

 聞かないでくれ、と俺の頭は桧琉の言葉を拒否した。思い上がりじゃない? そんなことを言われたら、今更淡い期待を抱いてしまう。ただ、これ以上誰の邪魔にもなりたくないから、いなくなろうと……本当に、本当にそれだけで。

「オレのことも、心からどうでもいいって言える?」
「…………なんなんだよ……」

 気付いたら俺は、桧琉を睨んでいた。
 何が言いたいんだ。何を言わせたいっていうんだ。
 桧琉はいつも、俺の心をぐちゃぐちゃに掻き乱す。桧琉がいなかったら俺はもっと簡単に死ねたのに、そうやって真っ直ぐな瞳で引き止めるから、俺はずっと苦しいんだ。

「……ずるいんだよお前!!」

 駄目だ、溢れてしまう。

「俺にばっかり、問い詰めて聞いてくるけどさ……。桧琉の方がなんにも教えてくれない。何考えてるかいつも分かんねえんだよ。急に近付いてきて、理由も説明せずただ『気になってた』とか言って味方みたいな顔して…………なんで俺なんかにキスしたんだよ。なんで毎朝俺のとこくるんだよ!」

 桧琉は、突然の俺の大声に目を見開いて固まった。

「恋人でもないのにとか、男同士なのにとか、考えだすと怖くなって更に消えたくなるから俺は黙って流してた。それどころじゃなかったんだよ。なのに、桧琉は当たり前みたいに……」
「待って。文世、それは──」

 言っている途中で、視界が滲んでくる。俺は弱い。自分を抑えることに慣れすぎて、いざ本音を口に出そうとするとそれだけで泣きそうになるのだから。

「──もう、頼むから放っておいて」

 俺は伸びてきた桧琉の手を払って立ち上がり、衝動的に部屋から飛び出した。「文世!」と後ろから声がするけど振り返らない。
 下宿の廊下を走って、階段を駆け上がる。追いかけてくる桧琉の足音から逃げるように辺りを見渡し、

「屋上…………」

 一番上にその出口を見つけた。