未だ一人きりの保健室。俺は『La fraise bleue(ラ・フレーズ・ブルー)』のウィークエンドシトロンを描き終え、ゆっくりとベッドから立ち上がった。
窓の方に近付いて、他に誰もいないからとカーテンを開けてみる。真っ直ぐな陽射しが差し込んできて、その眩しさに俺は片目を瞑った。
「……桧琉みたいだ」
無意識に出た独り言に、はっとする。今朝も顔は見たけどそれはキスだけで会話はほとんどしていないし、普段からも桧琉のことはあまり考えないようにしているのに、どうして俺はまた思い出すのだろう。嫌になって窓に背を向けた。
桧琉の存在なんて俺にとって都合のいい幻想に近い。だからあえて幻想を掻き消すために左耳に触れると、ほら。一瞬で生々しい映像と共にあいつの声が蘇ってくる。
『……お前のせいだ……』
『なんなんだよ。うぜぇんだよ』
『男のくせに、気持ち悪いんだよ』
「っ…………」
俺はまた教室で倒れたときみたいにふらふらしてきて、よろつきながらも自力でベッドに戻った。俺は何がしたいんだろう。疲れてしまったから手だけを動かして、そこに置いてあったスケッチブックを胸に抱く。
今更実家には帰れないのに、心のどこかで「いつか母さんに見せたい」と想像しながら描いてしまった幼稚な感情の集まり。今すぐ破りたいけど実際は肌身離さず持ち歩くくらい大事で、俺はきっとこの一冊に命よりも執着している。
「母さん……」
竹中に殴られるようになるまで、俺はずっと大きな勘違いをしていた。
男に生まれて男として生きていく限り、自分から危害を加えないことだけ忘れずにいれば十分だと思っていたんだ。でも違った。男とか女とかじゃない。この世の誰もが”傷つけられる側”になり得るし、いとも簡単に生きていく勇気なんて奪われてしまうのだ。
嫌がらせの毎日になり、母さんはこんな気分だったんだと思い知った。竹中に似た背格好の男を見かけただけで身がすくむ感覚。不眠のせいで勉強にも集中できなくなり、今後の進学や就職を考えると真っ暗に見える未来。母さんも体感したであろう、大げさじゃなく世界の全てが、みるみる恐怖の対象に変わっていく過程を。
──あとどのくらい、俺はこの絶望に閉じ込められていればいい?
頬を冷たいものが伝う感覚がして、保健室のベッドを濡らしてはいけないと頭の向きを変えた。すると、いきなり眩しくなる。さっきカーテンを開けた窓からの日光が、ベッドに横たわる俺を照らしていたのだった。
温かくて優しい。真っ直ぐで逃がしてくれない。
ああ、やっぱり、桧琉に似ている。
『ずっと喋ってみたいって思ってたから』
『オレ、どうしても文世と仲良くなりたい』
『そんなとこでどうしたの』
『……オレも皆と同じだと思うの?』
『可哀想なだけじゃ優しくしない』
『嫌じゃなかったら明日も開けて』
その光から目を逸らせないでいると、今度は桧琉の声が脳内に流れてきた。
途端に、一つの考えが俺の中に浮かぶ。涙は更に溢れてきたけど、拭う暇もない。心変わりする前にと、俺はそれを今日の絵の裏に綴った。
『2026年4月28日[ウィークエンドシトロン]
考えた。あいつの、そして自分の誕生日までは生きよう。思い上がりかもしれないけど、俺のせいで暗い気持ちのまま誕生日を迎えさせたくないから。それに一つでも歳を重ねてから死んだ方が、神様に怒られない気がするから』
書き終えた後は今までになく胸がすっきりして、そのまま眠ってしまった気がする。目が覚めたのは、昼休みの終わりかけ。ドアが開け閉めされたような物音がしたのだが、
「あれ…………」
相変わらず保健室には俺一人で、でもなぜか上半身に布団が掛け直されていた。
窓の方に近付いて、他に誰もいないからとカーテンを開けてみる。真っ直ぐな陽射しが差し込んできて、その眩しさに俺は片目を瞑った。
「……桧琉みたいだ」
無意識に出た独り言に、はっとする。今朝も顔は見たけどそれはキスだけで会話はほとんどしていないし、普段からも桧琉のことはあまり考えないようにしているのに、どうして俺はまた思い出すのだろう。嫌になって窓に背を向けた。
桧琉の存在なんて俺にとって都合のいい幻想に近い。だからあえて幻想を掻き消すために左耳に触れると、ほら。一瞬で生々しい映像と共にあいつの声が蘇ってくる。
『……お前のせいだ……』
『なんなんだよ。うぜぇんだよ』
『男のくせに、気持ち悪いんだよ』
「っ…………」
俺はまた教室で倒れたときみたいにふらふらしてきて、よろつきながらも自力でベッドに戻った。俺は何がしたいんだろう。疲れてしまったから手だけを動かして、そこに置いてあったスケッチブックを胸に抱く。
今更実家には帰れないのに、心のどこかで「いつか母さんに見せたい」と想像しながら描いてしまった幼稚な感情の集まり。今すぐ破りたいけど実際は肌身離さず持ち歩くくらい大事で、俺はきっとこの一冊に命よりも執着している。
「母さん……」
竹中に殴られるようになるまで、俺はずっと大きな勘違いをしていた。
男に生まれて男として生きていく限り、自分から危害を加えないことだけ忘れずにいれば十分だと思っていたんだ。でも違った。男とか女とかじゃない。この世の誰もが”傷つけられる側”になり得るし、いとも簡単に生きていく勇気なんて奪われてしまうのだ。
嫌がらせの毎日になり、母さんはこんな気分だったんだと思い知った。竹中に似た背格好の男を見かけただけで身がすくむ感覚。不眠のせいで勉強にも集中できなくなり、今後の進学や就職を考えると真っ暗に見える未来。母さんも体感したであろう、大げさじゃなく世界の全てが、みるみる恐怖の対象に変わっていく過程を。
──あとどのくらい、俺はこの絶望に閉じ込められていればいい?
頬を冷たいものが伝う感覚がして、保健室のベッドを濡らしてはいけないと頭の向きを変えた。すると、いきなり眩しくなる。さっきカーテンを開けた窓からの日光が、ベッドに横たわる俺を照らしていたのだった。
温かくて優しい。真っ直ぐで逃がしてくれない。
ああ、やっぱり、桧琉に似ている。
『ずっと喋ってみたいって思ってたから』
『オレ、どうしても文世と仲良くなりたい』
『そんなとこでどうしたの』
『……オレも皆と同じだと思うの?』
『可哀想なだけじゃ優しくしない』
『嫌じゃなかったら明日も開けて』
その光から目を逸らせないでいると、今度は桧琉の声が脳内に流れてきた。
途端に、一つの考えが俺の中に浮かぶ。涙は更に溢れてきたけど、拭う暇もない。心変わりする前にと、俺はそれを今日の絵の裏に綴った。
『2026年4月28日[ウィークエンドシトロン]
考えた。あいつの、そして自分の誕生日までは生きよう。思い上がりかもしれないけど、俺のせいで暗い気持ちのまま誕生日を迎えさせたくないから。それに一つでも歳を重ねてから死んだ方が、神様に怒られない気がするから』
書き終えた後は今までになく胸がすっきりして、そのまま眠ってしまった気がする。目が覚めたのは、昼休みの終わりかけ。ドアが開け閉めされたような物音がしたのだが、
「あれ…………」
相変わらず保健室には俺一人で、でもなぜか上半身に布団が掛け直されていた。
