「文世はいたんだ」という桧琉の言葉の意味は、部屋を出るとすぐに理解した。どういうわけか、廊下を歩いて他の部屋の前を通ってもシンとして一切気配がない。その上電球が切れてしまったのか薄暗く、それは一階の食堂に行っても同じだった。
「なんで……皆どこに……」
俺はつい呟いてしまう。だって、普段は味噌汁の匂いが漂い、登校前の生徒が揃って白米をかきこんでいるはずの空間が文字通り空っぽなのだ。誰の声もしない。そこには賑やかさも眩しさもなく、夜と朝の中間みたいに全体がただ藍色っぽい。
「うん、誰もいないみたいでさ。さっき文世の部屋行く前に皆の部屋もノックしてみたけど、どこも返事ないんだよ。おまけに食堂行っても照夫さんさえいないのか朝飯が準備されてない」
そうか、そういえば照夫さんも。
こんなに下宿が静まり返っているのは、実は俺と桧琉の二人が無自覚に酷い寝坊をしていて、皆がとっくにここを出たから……そういう可能性も考えられたけど、管理人さんの姿もないとなるとどうやら違うらしい。
不自然な光景に戸惑いながらも、今存在を確認できる唯一の相手をゆっくり見上げてみた。バスケをするために産まれてきたみたいな身長に、さっぱりとした黒髪。やや骨の出た頬が男っぽくて、でもこちらの目線に気付き「ん?」と俺に向けるその声は決して威圧的じゃない。
「いや……本当に俺たちしか今この下宿にいないのかなって」
「そうだと思うよ。よく分からないけど」
「“よく分からない”って……」
あっけらかんと返されたので拍子抜けした。桧琉らしいといえばらしいが、相変わらず状況を受け入れるスピードが早く物怖じしない。今も「朝飯どうするー?」なんて言って、既に共有の冷蔵庫の中身を物色し始めているくらいだ。
「あれ? あんまり冷蔵庫冷えてないような……。そういえばどこも電気ついてないし、停電?」
桧琉はそう言うなり、歩き回ってあちこちのスイッチをカチカチと押してみせた。俺は少し離れたところからそれを見守る。結果はどれも無反応だった。ブレーカーごと落ちてしまっているのだろうか。
「うーん、こういう時ってどこかに電話とかした方がいいんだろうけど、スマホ今日やたらと電波悪くてさ。停電なら下宿の電話も使えないし」
「……俺のもだ」
「文世も同じか」
すぐに画面に表示される電波の本数を確認し、使い物にならないと判断したスマートフォンをポケットにしまった。
電気が使えない、通信が届かない、食べ物も大して残っていない。これでもし外へも出られなかったら、まるで二人で無人島にでも取り残されたみたいだなと、俺は寝起きのぼやけた頭で考える。しかし桧琉が「近所の人に頼んでみよう」と玄関のドアノブに手をかけるまで、まさかそれが本当になるとは想像もしていなかった。
「…………開かない」
耳に届いた低いトーン。
噓だろ、と反射的に言いかけたが飲み込んだ。桧琉はいくら俺と真逆で場を和ませるのが得意な人間といっても、くだらない噓をつくようなタイプじゃない。雑多に高校生男子の運動靴が並ぶ玄関に、わずかな緊張感を含んだ沈黙が流れる。
桧琉はしばらくの間ガチャガチャと色んな開け方を試したりドアと挌闘しているようだったが、やがて後ろで立っていた俺の方を振り返り、
「仕方ないね、今日はこのまま学校サボっちゃおうか」
なんて、諦めたように笑った。
