ミッドウェー・バースデー

 人との距離は3メートル、大きな声や物音は出さず、やさしい色の服を着る。
 それが俺が母親と暮らす上での必要不可欠なルールだった。

「母さん、あっちのレジの方が空いてるよ」
「……どうしてもあそこには並べないの」

 振り返ってみると、それは俺が物心ついたときからだ。
 目線の先には、手際よくレジを打つ男性店員。俺は母さんについて行った買い物先で、たとえ時間がかかっても女性店員の列にしか並ばない姿など、男嫌いの一面をよく目撃していた。
 母さんはいつも何かに怯えるように、周りをきょろきょろと気にして歩く。外はもちろん、家の中でも母さんの神経は敏感だ。テレビで男性タレントが騒がしく声を上げたりすると、怪訝な顔をしてすぐに電源を消したし、突然の物音にも弱いのか、俺がうっかりコップを落とせば叱るより先に耳を塞いで震えていた。
 これは歳を重ねてから分かったことなのだが、母さんが俺の5つ下の弟を産んですぐに別れた元夫は、いわゆるDV気質だったらしい。俺は父親にあたるその人のことについてほとんど記憶がないけれど、母さんを見れば真実は明らかだった。

「ごめんね、もう少し小さな声で喋れる?」

 トラウマに襲われ、それでも二人の子供を守ろうと仕事に行っては虚ろな顔で帰ってくる母さん。そんな様子を日々近くで見ていると、母さんの注意は全て聞き入れざるを得なかった。
 怖がらせてはだめだ、食器は静かに置こう。嫌われてはだめだ、男の子っぽい遊びは避けよう。
 そう母さんの機嫌を伺いながら、俺は自然と自分にルールを課していった。髪の長さや服装などの見た目に関することから、生活習慣に至るまで。なにより頼れる大人が他にいないから、母さんが不安定になってしまうと家が回らない。その環境下で生きていくには、まず自分という存在の色を和らげることが必要だったのだ。

「ねえ、文世は大人になったら何になるの?」
「え?」
「僕はね、綺麗なお花屋さん。だってお母さんお花見るとにこにこになるでしょ」

 しかし、弟が成長するにつれ、俺は自分の不足に気付き始めた。必死に嫌われまいとどんな本音もただ丸呑みにしてきた俺と、生まれながらに愛嬌を持ち、自身を偽ることなく母さんの喜ぶ言動をしてみせる弟。それは埋まりようのない差で、素質と呼ぶべきものかもしれない。何が母さんの気に障るか分からないからといって、常に家庭内で息を潜める癖のついた俺は、弟を真似するにも遅かった。

「そんなこと言ってくれるんだ、真世(まなせ)
「えー? 前にも僕言わなかったっけ」
「ごめんごめん、お母さんが忘れちゃったのかも」

 実際、母さんもそんな弟の方を可愛がっているように見えた。それは仕方のないことなのだ。だって、丁度その頃中学に上がりたての俺は、身長が伸びたり声変わりを迎えたりと、男の要素が増していく一方だったから。
 本当は分かっている。母さんは防御反応が強く出てしまうだけで、心から息子のことを忌み嫌っているわけではないと。それでもだんだん母さんから向けられる目線が冷たくなっていくように感じて、俺は自分から距離を取り始めた。

 ──人との距離は3メートル、大きな声や物音は出さず、やさしい色の服を着る。
   自分から近付かなければ誰のことも傷つけず、邪魔にならず、疎まれることもない。

 気付けば、そのルールは母さんに対してだけじゃない。学校でも、出掛けた先でもどこでも、常に心がけて生きるようになっていた。というか、ほぼ癖だ。努力せずともそれは俺の型になり、

「志田って、誰ともまともに会話してるとこ見ないよな」
「一人が好きなんじゃない?」
「それにしても、ちょっと静かすぎる気がするけど……」

 そんな風に同級生たちが抱く俺の印象が、全員見事に一致するくらいだった。
 友達もいない俺のやることといえば、勉強とパステル画を描くことだけ。その絵だって小さい頃母さんが褒めてくれたから、なんとなく続けていただけだ。アイデンティティの欠片もない俺は、次第に進路に迷い始めた。

「志田なら、このくらい偏差値の高い公立でも目指せると思うが……興味はないか?」

 そんなときだった。中二の個人面談で、俺は担任から今の高校を紹介されたのだ。田舎町のここら辺にはない進学率と、私服通学が基本という自由性に富んだ学校。ここならいい意味で誰も俺のことなんて注目しないだろうし、それに……。

「まぁ、少し遠いから、下宿住まいにはなっちゃうんだけど」

 入学を理由に家を出られる。その選択肢があったのかと、俺はすぐに食いついた。
 母さんは最近調子がいい。やっと「働きやすいところを見つけた」とケーキ製造の仕事を随分気に入り、家でも笑う回数が増えてきた。人前に立つことなく女性だけの職場で安心して作業ができて、その上目の前でかわいいお菓子が出来上がるのが嬉しいのだと。でも、だからこそ今だ。
 俺がいなくなったら母さんはもっと笑える。もっと、のびのび生きていける。
 俺も家を出れば弟と自分を比べたりせず、情けない兄にならなくて済む。

 ──決めた、この高校に合格しよう。家の負担になったら本末転倒だから、受かった後はたくさんバイトしよう。

 俺はそうして家族から逃げるように、自分の行く先を選んだのだった。