ミッドウェー・バースデー

 自分が一番分かってる。「死にたい」なんて願わなくても、人はいつか必ず死ねることを。
 だからこそ強く恐れてる。「死にたい」と他の誰かに打ち明けて、「面倒くさいね」と(わら)われることを。

「──ちょ、桧琉どこ行くっ……」

 食堂にしばらくの沈黙が流れた後。俺が予想だにしていなかった展開に呆然としていると、桧琉は無言でどこかに向かい始めた。俺は慌てて後を追う。一歩一歩に迷いがなくて、気を抜くとすぐに置いていかれそうな速さだ。

「待ってって……」

 階段の途中でそう俺が頼んでも返事はない。明らかにいつもの桧琉じゃなくて、怒っているのかと不安になる。もしくは俺に呆れているか。どちらにせよ俺が原因なので、誤解があるなら解かなければならない……でもその誤解って何だろう。
 「俺が死のうとしてたなんて誤解だよ」? ──いいや、それは嘘になる。
 「死のうとしてたのは本当だけど、桧琉に慰めてほしかったわけじゃないよ」? ──じゃあなんで口に出したんだって話になる。

「え、ここ……」

 そう頭の中でぐるぐる考えていると、辿り着いたのは俺の部屋だった。桧琉は俺に断りも入れずドアを勢いよく開ける。他の下宿生たちがいないから必要ないかと思い、鍵はかけていなかったのだ。

「か、桧琉?」
「どこにある?」

 桧琉は部屋に立ち入るなり、俺にそう聞いてきた。口調も普段の穏やかさはない。

「何が……」
「スケッチブック。どこにある」

 そして次に放たれた台詞に、俺は目を見開いた。そうか、桧琉は俺のスケッチブックを探すためにここに上がり込んだんだ。
 それがただ俺の描き溜めたパステル画を見たいとか、そんな理由だったらまだいいけど、きっと違うから桧琉は今……。

『ちょっと強引なくらいじゃないと、文世を暴けないって学んでるから』

 桧琉の言葉を、思い出す。俺は急いで止めに入った。しかし狭い部屋の中で一冊のスケッチブックを見つけるなんていうのは決して難しいことではなく、桧琉の動きを阻止するには到底俺の力も足りなくて、

「…………あった」

 残念ながら間に合わなかった。

「……返して。なんでそんなもの、急に……」
「証拠だよ。オレが文世の抱えてたもの、少し前から知ってたっていう」

 嘘だ、そんなの噓だ。
 俺はとうとう足の力が抜け、床にへたりと座り込んでしまう。桧琉はそれを手にしたまま、何か覚悟を決めたような顔をして息を吸った。

「このスケッチブックは文世の日記でもあったんだ」
「……」
「決まってパステルで描いた甘いお菓子の絵と、その裏に日付。タイトルみたいなものに加えて、文世の独り言も小さく書かれてあった」
「……は? なんで、それを」

 突然流暢に話し始める桧琉。俺は耳を疑いながらも理由を尋ねるが、答えは返ってこない。

「2025年4月16日、苺のロールケーキ」
「へ──」

 その上だ。あろうことか、桧琉はスケッチブックを開き、俺の日記を声に出して読み上げ始めた。一体何が起こっているんだろうと、俺の頭はパニックになる。



「『2025年4月16日[苺のロールケーキ]
 今日、二年生になってから初めての美術の授業があった。急に別クラスの男子に話しかけられたと思ったら、隣部屋の人だった。変なことを答えてしまい後悔している』

『2025年4月24日[さくらプリン]
 体育のとき、この間の人と目が合った』

『2025年5月1日[抹茶シフォンケーキ]
 また目が合って、手を振られた。遠くから俺の下の名前を叫ぶのはやめてほしい』」



「ちょ、ちょっと桧琉……」

 俺は狼狽えた。目の前でこんなの、耐えられない。それでも桧琉は聞く耳を持たず、更にページを捲り続ける。



「『2025年6月2日[アップルパイ]
 部屋の前で黒松桧琉が待ち伏せしていて、いきなり仲良くなりたいとかよく分からないことを言われた。友達を作るつもりはない』

『2025年6月5日[ガトーショコラ]
 17歳になった。夜、桧琉からアイスを貰ってしまった。一応お礼を忘れないようにする』」



「や、やめろって…………」

 もう俺の声なんて届いていないみたいだ。どうにかしがみついてスケッチブックごと取り返そうと試みるが、敵わない。



「『2025年7月3日[メロンのショートケーキ]
 バイトをしていることを竹中に知られた。最悪だ』

『2025年7月10日[甘夏ゼリー]
 もう働くことができない。けど、照夫さんが話を聞いてくれた。少し気分が楽になった』

『2025年7月15日[ブルーベリータルト]
 今日も手伝いをさせてもらった。実家でやっていたときより褒められる』





『2025年8月8日[シュークリーム]
 下宿の皆に手伝いのことがバレた。誤魔化せなくてただ逃げた』

『2025年8月10日[マスカットのムース]
 最近、変なことが立て続けに起こる。たぶん竹中たちの仕業だ』

『2025年8月20日[フロランタン]
 もう浴場には行きたくない』」



 その内容は、少しずつ色味を変えていく。俺はだんだん耳を塞ぎたくなってきた。



「『2025年9月10日[ナポレオンパイ]
 昨日の分。俺の鍵と下着がなくなって、桧琉の部屋に入れてもらった。アイスのお礼も兼ねて絵を描いた。けどこれ以上はここには書けない』」



「…………なあ、頼むから……」

 そしてあの夜のことも書いてあった。俺が泣いて、初めてのキスをされて、心がぐちゃぐちゃなのに身体は安心した夜。
 思い出すと顔を上げていられなくなって、俺は床を見つめて懇願する。

 

「『2025年9月11日[くるみパウンドケーキ]
 初めて人に殴られた』

『2025年10月30日[南瓜のマフィン]
 あちこち痛くて眠れない。特に耳が腫れている。母さんも昔こういう思いをしてたんだろうか』





『2025年11月7日[キャラメルチーズケーキ]
 もう嫌だ。おかしくなりそうだ。桧琉の顔を見るとぐちゃぐちゃになる』

『2025年11月21日[モンブラン]
 死にたい』」



「だから、やめろってば……!」

 ついに俺は声を荒げてそう言った。さすがの桧琉も一度読むのをやめ、ゆっくりとしゃがみ込んで俺の目線まで下りてくる。慣れない大声を出した反動で咳をしてしまった俺の背中を、そっとさすって落ち着かせようとしてくれた。

「ごめんね、文世」
「けほっ、けほ……」
「でも、あとちょっとなんだ。オレが本当に読みたいのはここから」
「…………」
「日付がないのもあるんだけどね」

 そりゃそうだ。徐々に絵を描く気力もなくなって、ただ感情を書きなぐる日も増えていったんだから。ここまで来たなら好きにすればいいと、俺は投げやりな気持ちになってくる。
 その後桧琉は静かなトーンで、再び続きを読み始めた。自分の中に閉じ込めておくはずだった、醜いけど切実な文字の羅列だ。



「『このまま俺も母さんと同じになるだけだ。死にたい』

『キスされると生きてることを思い出す』

『でもやっぱり死にたい』





『2026年1月9日[ザッハトルテ]
 死ぬとしたら、いつ死のう』」



 そこまでを読み上げた桧琉は、「……そして、ここ」と次のページを指差した。たしかそれは俺がストレスから体調不良を起こし、学校の途中で保健室に世話になった日の日記だ。



「『2026年4月28日[ウィークエンドシトロン]
 考えた。あいつの、そして自分の誕生日までは生きよう。思い上がりかもしれないけど、俺のせいで暗い気持ちのまま誕生日を迎えさせたくないから。それに一つでも歳を重ねてから死んだ方が、神様に怒られない気がするから』」



「う、っ…………」

 嗚咽のようなものが出る。

「──これを読んでオレは、やっと文世がここまで追い詰められてるって知ったんだよ」
「……」
「覚えてる? この日はすごく天気が良かった。だからオレは外で弁当でも食べようと思って廊下を歩いてて……文世の教室の前を通ったから、なんとなく覗いてみたんだ。そしたら文世は席にいなくて、何か気になってクラスの人に聞いたら、志田くんは保健室に行ったよって」
「……」
「心配になってすぐ会いに行った。文世はベッドで、寝てたけど」

 桧琉の話を黙って聞きながら、あぁ、と俺は思い出した。絶望の毎日を終わらせるために、6月5日という希望を設定した日。
 俺は保健室のベッドで(ひらめ)いたようにそのことを記し、無防備にもスケッチブックを開いたまま眠りについてしまったのだ。