ミッドウェー・バースデー

「けほ、けほっ……」
 
 喉の違和感と、それに伴う自分の(せき)で目が覚めた。
 あれ、となる。ここは桧琉の部屋だ。寝れそうになんてなかったのに、どうやら俺は人のベッドの上でいつの間にか眠っていたらしい。小さく欠伸をしながら辺りを見渡してみると、足元にバケツと使用済みのタオルが残されているだけで、桧琉の姿はそこになかった。

「……まさか」

 一つの可能性が頭をよぎる。桧琉までこの下宿からいなくなったなんてこと、さすがにないよな? 俺は一気に不安になって部屋を飛び出した。だとしたら桧琉は密かに脱出法を見つけていたことになるし、俺を置いて出て行ったということでもある。

「あ、おはよう文世。慌ててどうしたの?」

 しかし、そんな心配は杞憂に終わった。俺がまず一番に食堂へ行くと、あっさり見つかった後ろ姿。丁度コップで水を飲もうとしていたところのようで、俺の足音に振り返った桧琉は不思議そうな顔をしていた。

「どうしたって、わけじゃないけど……」
「オレがいなくなったかと思った?」

 図星を指され、俺は俯く。すると桧琉はコップを置いて近寄ってきて、

「探しに来てくれるんだ、嬉しい」
「──っ」

 いつものように軽い朝のキスをしてみせた。

「あれ、怒った?」
「……いや、ていうか、俺まだ口ゆすいでないから……」
「気にしなくていいのに」

 なんだろう、この感じ。場所がいつもと違うからだろうか、どちらかの部屋の中でもないとなると、まるで俺たちは堂々と恋人の真似をしている気分になる。それに俺は今、何か大事なことを忘れているような──。

『そもそも俺は、誕生日を迎えたら死ぬつもりだったんだ』

 そのとき、眠りにつく寸前の自分の台詞が脳内に蘇ってはっとした。そうだ、俺は桧琉の前でなぜかあんなことを。閉じ込められた空間で一緒に過ごしすぎて、言っていいことと悪いことの区別がつかなくなってしまったのかもしれないけど、それに対しての桧琉の反応も思い出せない。寝言のように聞き流してくれたんだろうか。

「なあ、桧琉」
「何? ……けほっけほっ」
 
 しかし俺が声を掛けると、桧琉がいきなり咳き込みだしたので、聞こうとしていた言葉は引っ込んだ。咄嗟に俺は「大丈夫か」と一歩近付く。

「平気平気、なんだろうね。さっきからちょっと喉がおかしくてさ」
「あぁ……そういえば俺も。起きたとき少し咳が出た」
「え、文世も? やっぱり閉め切ってるから空気が悪いのかなあ」

 桧琉は窓の方に目線をやってそう言った。
 相変わらず外の世界は白い。下宿の他にもこの辺りにはたくさん建物があるはずなのに、全て濃い霧に飲み込まれてしまったようだ。ぼんやり眺めていた俺に、桧琉は「とりあえず文世も飲みな」とコップを手渡した。

「そうだ、背中の具合はどう?」

 やはり何度目でも身体に染み渡るように美味しい、一杯の冷たい水を飲み干したところで、不意にそのことを聞かれた。俺は「まぁ……うん」と口ごもる。一晩中俺の痛みを紛らわすために尽くしてくれた相手に対して申し訳なくはあるが、できればその話題は出さないでほしい。ついでに俺の“寝言”について、掘り返されるのが怖いからだ。

「ほんとに? ちょっと一回見せて」
「み、なくていいからっ……」

 しかし桧琉は俺のぎこちなさに気付き、もしや痛みを我慢しているんじゃないかと、少し強引に服を捲ってきた。俺はまるで意地を張るみたいに、その手を跳ね除けてしまう。

「あ……ごめん文世」

 また、桧琉に謝らせてしまった。

「……謝らなくていいけど」
「いや悪かった。もうしないから」
「そうじゃなくて……」

 俺がどんな態度であれ変わらない桧琉の誠実さに、心の底から自分が情けなくなってくる。もう、こうなったら早いうちに弁明してしまおう。桧琉から聞かれるのが怖いなら、こちらから先に切り出せばいいだけだ。

「文世?」
「あの、さ。昨日……ではないか。寝る前、俺が言ったことだけど……本当忘れてくれていいから」

 できる限り、なんでもない風な声色で。
 桧琉は俺の言葉に「え?」と聞き返した後、何か考えるように黙り込む。俺はバクバクとうるさい心臓の音を抑えた。きっと優しい桧琉なら、嘘でも「うん忘れるよ」なんて流してくれる。そう信じて待ってみたけど、

「ごめん。それは無理」
「え……」
「知ってたから。オレ、文世がずっと死のうとしてたこと」

 やがてその口から発せられた言葉は、俺の想像とは随分違うものだった。