桧琉は元から優しい人間だとは思うけど、今日の桧琉は一段と俺に優しい気がする。まるで後ろめたいことでもあるようだ、と俺はふわふわのタオルの中に頭を預けながら思った。
「自分でできるから」、そんな台詞はもう何度も口にした。それでも桧琉が引かなかったから、今この状況になってしまっている。
「文世の髪って柔らかいんだね。なんか細い」
「……そういえば桧琉はシャワー浴びなくてよかったのかよ」
「迷ったけど、いいかなって。なぜか全然汗かいてないしさ」
「俺も別に、汗はかいてないけど……」
脱衣場にあるベンチに二人で腰掛け、髪を拭いてもらいながら他愛もないやり取りをする。
俺は話していてまた一つ不思議なことに気が付いた。停電したままのこの下宿では、エアコンはおろか扇風機さえ動いていないのに、暑いという感覚が一切ない。今が6月だということも、窓が閉めきられていたことも忘れていたくらいだ。
──まあでも、他にもおかしなことだらけだし……。
考えても分からないことで頭を埋めても仕方ない。だって、どうせこの時間には終わりが来てしまう。
「ドライヤーが使えたらもっと早く乾かせるだろうけどさ」
「うん」
「タオルで拭くのはこうやって喋りながらできるから、オレはこっちの方が好きだな」
「……うん」
あいつらが何食わぬ顔で帰ってきて、下宿には賑やかさが戻って……だから今だけは余計なことを思い出さず、非日常の中で曖昧な関係性に浸っていたい。
「よし、できた。……しばらく起きてる気がするしそろそろ寝よっか?」
そう言って次は自分の部屋に俺を連れて行こうとする桧琉も、同じことを考えていたりするんだろうか。
桧琉の部屋に入るのは、下着と鍵をいっぺんに盗まれたあの日ぶりだった。前に入ったときに見た家族写真に加えて、棚にはバスケ部の集合写真と、何かでトロフィーを獲得したときの写真が増えている。どれも俺には体験しようのない輝きに満ちていて、自分との差を実感するばかりだ。
「文世の描いてくれた絵は、汚さないように机の中にしまってあるんだ」
「……別に取っておかなくていいのに」
「なんで。一生捨てないよ」
桧琉はベッドの皺を伸ばしながら、さらっとそんなことを言った。
あの日のことを思い出すと、今でも胸がそわそわする。なんで俺は泣いてしまったんだろう、なんでキスされたんだろう。「あの時どういう感情だったのか」なんて、桧琉はおろか自分自身にも依然問いかけられないままだ。
「オレは床で寝るから、文世はこのベッドでいい?」
桧琉がこちらを振り返って、あの日と同じ提案をしてくる。それどころではなかったから忘れていたけど、俺は桧琉のベッドに寝かせられたことが既にあった。
「いや、普通逆……俺に気使わなくていいから」
この断り方も一緒かもしれない。というか、今回は俺の部屋も使えるのに、わざわざ寝床を貸してもらうのは更に図々しくないか。
「気使ってるんじゃなくて、オレがそうしたいんだよ。オレは毎日ベッドで寝てるんだし、お泊まりのときぐらいいつもと違う雰囲気味わいたいじゃん」
しかしそんな風に言いくるめられてしまって、上手い返しも浮かばない俺は大人しくベッドに横になった。桧琉もすぐ側の床に布団を敷き、寝転がる。これで体勢は整ったはずなのだが、数分後に桧琉は「でも、笑っちゃうくらい眠くないな」と呟いた。
「……俺も、寝れる気がしない」
「文世も?」
天井を見つめていた俺の瞼も、いっこうに重たくなる気配がない。今の時刻さえ見当がつかない中で眠りにつくのは、人間にとって結構な難易度だ。
「待ってて。ちょっとあれ取ってくる」
すると桧琉は思いついたように起き上がって、パタンと部屋から出て行ってしまった。間もなく戻ってきた桧琉の手には、水の入ったバケツと小さめのタオル。俺はそれに気付くなり、「どうした?」と思わず尋ねる。
「文世はそのまま横になってていいよ」
「え?」
「もしかして背中、まだヒリヒリして気になるんじゃないかって」
さすがに驚かずにはいられなかった。確かに俺は一度シャワーで痛みが引いたものの、時間が経つにつれ少しずつそれがぶり返してきているのを感じていたのだ。けど、塗れる薬もない。このくらいなら我慢できると、丁度自分に言い聞かせていたところだった。
「ちょっとごめんね」
桧琉の勘の良さにぼうっとしていると、流れで服の下から手を滑り込まされる。バケツの中で絞った冷たいタオルが、俺の背中にそっと当てられていた。
「ちょ、桧琉……?」
「嫌だった? 少しはマシになるかと思ったんだけど」
「嫌、ではないけどっ……」
なんだこれ。こんなの子どもの頃母さんにされた看病みたいだ。シャワーも髪を拭いてもらうのもそうだけど、さっきから同い年の桧琉に尽くされてばかりで落ち着かない。そもそもなぜ躊躇いもなく、自ら進んでやるのだろう。
「このまま寝れるなら寝ていいから。オレ、ときどきタオル替えるね」
「……」
「もしくはオレの喋り相手になって」
ひんやりして皮膚は癒えていくのに、タオル越しにずっと身体に触れられているからむずむずする。俺は動揺を知られまいと、背中だけを向けて耐えることにした。
「……面白い話題とか、思いつかないけど」
「なんでもいいよ。例えばそうだな──『もしこのまま下宿から出られないとしたら』、とか」
「急に怖い言い方だな」
俺はふっと笑ってしまった。距離は近いけど顔が見えないというのは、案外人と気楽に話せる方法の一つかもしれない。
「俺は別に……何も変わらないよ」
「何も? そんなに言い切れるんだ」
下宿から出られない生活。食べ物もない、いるはずの住人もいない。それを生活と呼ぶのかは分からないけれど、元の日常に戻るよりは幾分も安らかだ。むしろ俺は、とっくにこの場から動く気がないのかもしれない。
タオルを優しくあてがう桧琉の手を、払い除けられない時点できっともう。
「じゃあ、明日こそオレとトランプしよう。ババ抜き……は二人でやってもあんまり面白くないし、スピード……はすぐ終わっちゃうし……せっかくだからたっぷり時間使うやつ」
「うん」
「神経衰弱か七並べかな? でもオレが一番好きなのはブラックジャック」
「任せるよ」
桧琉は次々にゲームの名前を出した。しかし、時間差で俺はあれ、と気が付く。
「明日は来ないんじゃなかったっけ」
「うわ、そうじゃん! 自分で言ったのに忘れてた。寝て起きても6月5日のままだった」
そう、眠りから覚めても変わらない。ケーキもプレゼントも音楽もなく、静けさに包まれた俺たちの誕生日だ。もう18歳、まだ18歳、その数字の重みは俺にはよく分からない。
「でも……桧琉はさ」
「?」
「このまま下宿から出られないとしたら、やり残したこといっぱいあるんじゃないの」
俺はふと、気になったことを口にした。トランプでもして楽しく過ごそうというのは、桧琉の本心ではあると思う。だけど前に「バスケ選手と研究者」という夢を真っ直ぐ語っていた人物が、こんな狭い場所に閉じ込められ続けることを望むとはとても考えられないのだ。
「…………どうかな」
しかし桧琉の返答は、予想していたものと少し違った。先を見据える強さ、淀まずに出てくる言葉。それらを期待していた俺は、少しだけ変に思い桧琉の方へ体の向きを変える。
「やりたいことはいっぱいあるけど、今のオレにその資格があるのかは分かんないや」
「……なんだよ、それ」
つい、違和感が口に出てしまった。桧琉は「ううん別に」と誤魔化すように笑ったけど、そんな笑い方はらしくない。
「文世は? もしここから出られなかったら、やり残したなあって思うこと」
「そんなの……」
腑に落ちないが、聞き返されてしまったので考える。それはもう二度と桧琉以外の人間と会えない世界だ。
もう一回くらい、弟と遊びたかったなとか。
一回でいいから、母さんに甘えてみたかったなとか。
俺にだって全くないわけじゃないけど、昨日までの日々にそんなことを思い出す心の隙間はなかったから──。
「そんなのないよ。そもそも俺は、誕生日を迎えたら死ぬつもりだったんだ」
「自分でできるから」、そんな台詞はもう何度も口にした。それでも桧琉が引かなかったから、今この状況になってしまっている。
「文世の髪って柔らかいんだね。なんか細い」
「……そういえば桧琉はシャワー浴びなくてよかったのかよ」
「迷ったけど、いいかなって。なぜか全然汗かいてないしさ」
「俺も別に、汗はかいてないけど……」
脱衣場にあるベンチに二人で腰掛け、髪を拭いてもらいながら他愛もないやり取りをする。
俺は話していてまた一つ不思議なことに気が付いた。停電したままのこの下宿では、エアコンはおろか扇風機さえ動いていないのに、暑いという感覚が一切ない。今が6月だということも、窓が閉めきられていたことも忘れていたくらいだ。
──まあでも、他にもおかしなことだらけだし……。
考えても分からないことで頭を埋めても仕方ない。だって、どうせこの時間には終わりが来てしまう。
「ドライヤーが使えたらもっと早く乾かせるだろうけどさ」
「うん」
「タオルで拭くのはこうやって喋りながらできるから、オレはこっちの方が好きだな」
「……うん」
あいつらが何食わぬ顔で帰ってきて、下宿には賑やかさが戻って……だから今だけは余計なことを思い出さず、非日常の中で曖昧な関係性に浸っていたい。
「よし、できた。……しばらく起きてる気がするしそろそろ寝よっか?」
そう言って次は自分の部屋に俺を連れて行こうとする桧琉も、同じことを考えていたりするんだろうか。
桧琉の部屋に入るのは、下着と鍵をいっぺんに盗まれたあの日ぶりだった。前に入ったときに見た家族写真に加えて、棚にはバスケ部の集合写真と、何かでトロフィーを獲得したときの写真が増えている。どれも俺には体験しようのない輝きに満ちていて、自分との差を実感するばかりだ。
「文世の描いてくれた絵は、汚さないように机の中にしまってあるんだ」
「……別に取っておかなくていいのに」
「なんで。一生捨てないよ」
桧琉はベッドの皺を伸ばしながら、さらっとそんなことを言った。
あの日のことを思い出すと、今でも胸がそわそわする。なんで俺は泣いてしまったんだろう、なんでキスされたんだろう。「あの時どういう感情だったのか」なんて、桧琉はおろか自分自身にも依然問いかけられないままだ。
「オレは床で寝るから、文世はこのベッドでいい?」
桧琉がこちらを振り返って、あの日と同じ提案をしてくる。それどころではなかったから忘れていたけど、俺は桧琉のベッドに寝かせられたことが既にあった。
「いや、普通逆……俺に気使わなくていいから」
この断り方も一緒かもしれない。というか、今回は俺の部屋も使えるのに、わざわざ寝床を貸してもらうのは更に図々しくないか。
「気使ってるんじゃなくて、オレがそうしたいんだよ。オレは毎日ベッドで寝てるんだし、お泊まりのときぐらいいつもと違う雰囲気味わいたいじゃん」
しかしそんな風に言いくるめられてしまって、上手い返しも浮かばない俺は大人しくベッドに横になった。桧琉もすぐ側の床に布団を敷き、寝転がる。これで体勢は整ったはずなのだが、数分後に桧琉は「でも、笑っちゃうくらい眠くないな」と呟いた。
「……俺も、寝れる気がしない」
「文世も?」
天井を見つめていた俺の瞼も、いっこうに重たくなる気配がない。今の時刻さえ見当がつかない中で眠りにつくのは、人間にとって結構な難易度だ。
「待ってて。ちょっとあれ取ってくる」
すると桧琉は思いついたように起き上がって、パタンと部屋から出て行ってしまった。間もなく戻ってきた桧琉の手には、水の入ったバケツと小さめのタオル。俺はそれに気付くなり、「どうした?」と思わず尋ねる。
「文世はそのまま横になってていいよ」
「え?」
「もしかして背中、まだヒリヒリして気になるんじゃないかって」
さすがに驚かずにはいられなかった。確かに俺は一度シャワーで痛みが引いたものの、時間が経つにつれ少しずつそれがぶり返してきているのを感じていたのだ。けど、塗れる薬もない。このくらいなら我慢できると、丁度自分に言い聞かせていたところだった。
「ちょっとごめんね」
桧琉の勘の良さにぼうっとしていると、流れで服の下から手を滑り込まされる。バケツの中で絞った冷たいタオルが、俺の背中にそっと当てられていた。
「ちょ、桧琉……?」
「嫌だった? 少しはマシになるかと思ったんだけど」
「嫌、ではないけどっ……」
なんだこれ。こんなの子どもの頃母さんにされた看病みたいだ。シャワーも髪を拭いてもらうのもそうだけど、さっきから同い年の桧琉に尽くされてばかりで落ち着かない。そもそもなぜ躊躇いもなく、自ら進んでやるのだろう。
「このまま寝れるなら寝ていいから。オレ、ときどきタオル替えるね」
「……」
「もしくはオレの喋り相手になって」
ひんやりして皮膚は癒えていくのに、タオル越しにずっと身体に触れられているからむずむずする。俺は動揺を知られまいと、背中だけを向けて耐えることにした。
「……面白い話題とか、思いつかないけど」
「なんでもいいよ。例えばそうだな──『もしこのまま下宿から出られないとしたら』、とか」
「急に怖い言い方だな」
俺はふっと笑ってしまった。距離は近いけど顔が見えないというのは、案外人と気楽に話せる方法の一つかもしれない。
「俺は別に……何も変わらないよ」
「何も? そんなに言い切れるんだ」
下宿から出られない生活。食べ物もない、いるはずの住人もいない。それを生活と呼ぶのかは分からないけれど、元の日常に戻るよりは幾分も安らかだ。むしろ俺は、とっくにこの場から動く気がないのかもしれない。
タオルを優しくあてがう桧琉の手を、払い除けられない時点できっともう。
「じゃあ、明日こそオレとトランプしよう。ババ抜き……は二人でやってもあんまり面白くないし、スピード……はすぐ終わっちゃうし……せっかくだからたっぷり時間使うやつ」
「うん」
「神経衰弱か七並べかな? でもオレが一番好きなのはブラックジャック」
「任せるよ」
桧琉は次々にゲームの名前を出した。しかし、時間差で俺はあれ、と気が付く。
「明日は来ないんじゃなかったっけ」
「うわ、そうじゃん! 自分で言ったのに忘れてた。寝て起きても6月5日のままだった」
そう、眠りから覚めても変わらない。ケーキもプレゼントも音楽もなく、静けさに包まれた俺たちの誕生日だ。もう18歳、まだ18歳、その数字の重みは俺にはよく分からない。
「でも……桧琉はさ」
「?」
「このまま下宿から出られないとしたら、やり残したこといっぱいあるんじゃないの」
俺はふと、気になったことを口にした。トランプでもして楽しく過ごそうというのは、桧琉の本心ではあると思う。だけど前に「バスケ選手と研究者」という夢を真っ直ぐ語っていた人物が、こんな狭い場所に閉じ込められ続けることを望むとはとても考えられないのだ。
「…………どうかな」
しかし桧琉の返答は、予想していたものと少し違った。先を見据える強さ、淀まずに出てくる言葉。それらを期待していた俺は、少しだけ変に思い桧琉の方へ体の向きを変える。
「やりたいことはいっぱいあるけど、今のオレにその資格があるのかは分かんないや」
「……なんだよ、それ」
つい、違和感が口に出てしまった。桧琉は「ううん別に」と誤魔化すように笑ったけど、そんな笑い方はらしくない。
「文世は? もしここから出られなかったら、やり残したなあって思うこと」
「そんなの……」
腑に落ちないが、聞き返されてしまったので考える。それはもう二度と桧琉以外の人間と会えない世界だ。
もう一回くらい、弟と遊びたかったなとか。
一回でいいから、母さんに甘えてみたかったなとか。
俺にだって全くないわけじゃないけど、昨日までの日々にそんなことを思い出す心の隙間はなかったから──。
「そんなのないよ。そもそも俺は、誕生日を迎えたら死ぬつもりだったんだ」
