「鍵、も…………ない」
日常的な嫌がらせを受けるようになって、数週間後。俺は自室のドアを目の前にして、一人深いため息をついた。
──散々だ。もう夜なのに、一体どこで寝ろっていうんだろう。
事の経緯を説明すると、まず俺が浴場から出た後の脱衣場で起こった話。いつも通り体を拭いて服を着ようとすると、なぜか自分のカゴから下着だけがなくなっていることに気付いた。しかも、風呂前に脱いだものと、風呂上がりに履くつもりだった新しいものの両方が。周りからはクスクスと堪えるような笑い声が聞こえ、すぐに「盗られたのか」と察した。
替えの下着はクローゼットにあるが、タオルを巻いたまま部屋まで戻るわけにもいかない。俺は仕方なく直接ズボンを履き、羞恥心を押し殺して脱衣場から出ようとした。しかしその様子を見ていたらしい竹中に、「ノーパンの奴がうろうろしてるから気を付けろよー!」と無駄に通る声で叫ばれてしまい、逃げるように人の目をすり抜けてきて今に至る。
どうやら、下着と同時に部屋の鍵も盗まれたみたいだ。これではクローゼットどころか部屋にも入ることができないし、かといって堂々と鍵を探しに行ける状況でもない。きっと俺は竹中の思惑通り、八方塞がりに陥っている。
「……疲れた」
目的の分からない、数々の仕打ち。嫌われていることに傷ついているわけではない。ただ、こんな俺の存在なんて今すぐ視界から排除して構わないから、皆放っておいてくれと思う。
俺はドアに背中を預け、ずるずると廊下に座り込んだ。
「……文世? そんなとこでどうしたの」
少しして、そんな声が頭上から降ってきた。この下宿で文世と呼ぶのは一人しかいない。俺は考え、ゆっくりと顔を上げてみる。
「大丈夫? 顔色悪いよ」
そう言って心配そうに覗き込んでくる桧琉は、なんだか久しぶりに会った気がした。俺が「鍵がなくて」と小さく答えると、「じゃあオレの部屋来なよ」と当たり前のように返される。俺は色々な意味で躊躇った。
「……あいつらに何か言われたら、面倒なことになるよ」
「ん、何?」
果たしてこんなの、いいんだろうか。
俺と関わると桧琉まで変な目で見られてしまうかもしれないのに、それに俺は今隠さなければいけない事情があるのに……。
「とにかく嫌じゃなかったら入って。こっち」
桧琉に自然と手を引かれ、気付いたら俺は隣の部屋に吸い込まれていた。
初めて入る桧琉の部屋は、作りが一緒でも雰囲気が俺と全然違う。ベッドの上にあるカラフルなゲーム機。棚に飾られた家族写真。窓際にはたくさんスポーツタオルが干されていて、そのどれもがこの空間を賑やかにしているから寂しい感じがしない。
「はいこれ、貸す。綺麗なやつだから」
なんとなく部屋の中を見渡していると、桧琉はいきなり何かを差し出してきた。それを目にした俺は固まる。
「……え?」
「ごめん、さっき一階で竹中たちが騒いでたの聞こえてて。オレ文世の方見ないようにするから着替えていいよ」
そう、紛れもなくそれは男物の下着だった。嘘だろ、知られてたのかよと、一気に顔に熱が集まり声も出ない。しかし桧琉があまりに普通に渡そうとしてくるので、「……いらないから」とつい俺は拒否してしまった。
だって、いくら男同士でもこういうのは無理だ。後になって返すのも気まずいし、第一俺たちは友達なのかさえ分からない。仲がよかったら許されることなのかもしれないが、一方的に「ずっと気になってた」みたいなことを言われただけのこの関係ではどうなんだ……?
「なんで? 別に借りればいいじゃん」
「……買いに行くから」
「行くってどこに?」
「コンビニとか」
「ならどっちにしろ貸さなきゃ。その状態で外歩きたくないでしょ」
「……」
でもすぐに桧琉の正論に返す言葉はなくなり、結局下着を借りさせてもらうことになった。
「なんかその、お返しとか……ほら、誕生日のときも俺だけアイス、貰ったし……」
桧琉の気づかいに申し訳なさが募り、着替えを終えた俺はそう投げかけた。桧琉は「気にしなくていいよ」と首を振るが、「けど……」と俺も引き下がれない。すると、
「じゃあ、そうだ。文世にオレの絵描いてほしい」
と、思わぬ頼みごとをされた。
描くといってもどうやって……と思っていると、桧琉はまるで準備していたかのように、新品のオイルパステルの箱を取り出した。パカッと見せてきたその中身は、綺麗な状態でどの色もほぼすり減っていない。
「……どうして──」
「文世の真似して買ったから。この間文房具屋で見つけて、オレも美術の時間に使いたいなあってさ。まあ見ての通り、まだ出番はないけど」
そう無邪気に笑われて、俺は今まで感じたことのない、むずむずとくすぐったいような不思議な気持ちになった。
勧められるままに、パステルを握る。こんなことでお返しになるのなら、と思ったし、鍵のない俺にはここの部屋に居座る口実が必要だ。
「人の顔とか、滅多に描かないから……あんまり期待しないで」
「うん、分かった。それにオレは文世が描いてるとこ見てるだけで楽しいから」
桧琉の輪郭。鼻筋や唇の薄さ。じっくりと観察して紙の上に再現していくと、いかに俺が真正面から桧琉の顔を見たことがなかったのか自覚する。俺は髪を耳にかけ、真剣に手を動かし始めた。
「──そういや文世は、なんでここで下宿生やってんの?」
絵の出来上がりを待つだけで暇な桧琉は、俺に話しかけてくる。
「どういう意味で?」
「わざわざ家から遠い高校選んだきっかけ。例えばオレなら、本気でバスケと勉強やりたかったから。オレ、将来バスケの選手と研究者になりたいんだよ」
「……どっちも?」
俺は手を止めずに聞き返した。
「そう、どっちも。小っちゃい頃からずっと、皆と違う何かになりたくて……海外とかだと、教師やりながら野球選手とか、獣医師目指しながら俳優とか、結構そういう人っているらしいじゃん。やっぱり格好いいし特別に見える」
「ふぅん……」
「ていうか、オレって取捨選択が苦手なんだよ。全部選びたい。あれもやりたいこれもやりたい、あの人ともこの人とも仲良くしたい、みたいな。だから誰の味方になるべきか決められないときもあるんだけどね」
「…………」
話を聞けば聞くほど、俺とは真逆の部分ばかりだ。眉の形を知るために再びじっと顔を見つめると、桧琉に「オレの話になってた。で、文世は?」と思い出したように尋ねられる。
「ここに来た理由……」
普段だったら答えない、自分自身についてのこと。でもそのときの俺は、久々に竹中たちの存在に怯えなくていい空間にいる安心感と、馴染みあるパステルの感触に、どこか気が緩んでいたのかもしれない。
「母さんの視界から、消えてあげたかったから」
「……消えてあげたい?」
だからつい本当のことを口にした。しかし俺の言葉に一瞬桧琉の表情が変わりかけたので、「そういうのじゃないよ」と軽く笑って付け足す。
「──ひどい男嫌いなんだ、母さんは」
「……」
「電車で隣に男が座ってくるだけで、動悸を起こす重症でさ。接客みたいに人前に出る仕事は不特定多数の男と顔を合わせなくちゃいけないからもってのほか。精神がまいって続かない職場も多かった」
淡々と言いながら、色を塗った部分を指先でぼかす。こうすると粗かった線的な絵から、全体的にふんわりした曖昧なタッチの絵へと変わるのだ。
「でも五年前、やっと女性だけの環境で安心して働けるとこが見つかって……それで思った。俺が家を出れば、もっと母さんは楽に過ごせるんじゃないかって」
似顔絵はそろそろ、完成が近い。
「幸い成績は悪くなかったし、受かりそうだったからここに来た。下宿か寮があるならどこでもよかったし、桧琉みたいな立派な目標があったわけじゃないよ」
「……文世?」
ひと通り話し終わったのと同時に、仕上がった。その絵を桧琉に見せようと顔を上げて、息を吞む。もの凄く近くに、何か言いたげな桧琉の顔があったからだ。
「……かい、る……」
「悲しかったでしょ」
その言葉の意味はすぐには分からなかった。
「色々考えて一人でここまで来て、バイトとか勉強とか自分にできること精一杯やって。それなのに全部否定されるみたいに嫌な目に遭って。きっと悲しかったよね」
分かったときには、既に涙がゆっくりと頬をつたっていた。出来上がったばかりの絵にもポト、と滴が落ちてしまい、慌ててそれを手の甲で拭う。「いいよ」と桧琉は俺から絵を預かって床に置いた。
「文世さ、静かに泣き出すとびびるよ……」
そして、そんな優しい困り笑いで、俺の背中に腕を回してきた。もう距離なんてものはなく、
「ねえ。帰らなくていいよ」
と、耳元で囁かれる。
腕の温度。肌に触れる吐息。俺は必死に頭を回転させた。恐らく俺は今、お人好しで根が真っ直ぐすぎる隣人に励まされている。うっかり泣いている姿を見せ、自分でも知らない弱さを溢してしまったからだ。
何やってるんだ、思い出せ。
照夫さんの言葉に甘えてどうなった? 最初は嬉しかったし心強かった。でもそのせいで周りから咎(とが)められ、照夫さんの評判も悪くさせて、今では目が合ってもぎこちなく逸らされるだけ……優しさなんて誰のことも救わなかったじゃないか。
「やめろっ、よ……!」
俺は声を振り絞り、桧琉の腕を無理やり解いた。こんな風に身を預けちゃ駄目なんだ。人に頼ることを前提で生きていたら、またすぐに振り回されてぼろぼろになる。
「……手を差し伸べる側はいつも気楽だよ」
「え?」
「可哀想って感情に、責任は伴わないんだから」
桧琉のためにも、俺は一人でいた方がいい。あえて強く言い切って、行く当てもないのに部屋から出ようとする。
けれど、俺がドアノブに手をかけたときだった。
「……オレも皆と同じだと思うの?」
桧琉の声が俺を引き止めた。振り返ると、射貫くような目線がただこちらだけを捉えている。
「可哀想なだけじゃ優しくしない」
突然、肩に手を置かれたと思ったら視界が真っ暗になった。わずかに唇が押されるような感覚と、そこから伝わってきた高めの体温。何が起こったのか理解して、俺は一歩も動けなくなる。
「……」
「鍵は明日探せばいいよ」
桧琉は落ち着いた様子でそう言った。
本来こういうのは恋人同士がすることなんだろうと、人間関係が希薄な俺でも分かる。でもこれ以上考えるとなぜかまた泣き出しそうになるから、今桧琉の顔が再び迫ってきているのに抵抗できない。
──桧琉だけは俺のことが邪魔じゃないとしたら……。
静かに目を瞑った。
おかしい。部屋に入れず廊下でうずくまっていたさっきまでは、誰の目にも触れず空気のように自分が放っておかれることを願っていたはずなのに。世界が俺と桧琉の二人きりだとしたら、それが覆る未来が浮かぶ。
最初と二度目のキスのせいだ。
日常的な嫌がらせを受けるようになって、数週間後。俺は自室のドアを目の前にして、一人深いため息をついた。
──散々だ。もう夜なのに、一体どこで寝ろっていうんだろう。
事の経緯を説明すると、まず俺が浴場から出た後の脱衣場で起こった話。いつも通り体を拭いて服を着ようとすると、なぜか自分のカゴから下着だけがなくなっていることに気付いた。しかも、風呂前に脱いだものと、風呂上がりに履くつもりだった新しいものの両方が。周りからはクスクスと堪えるような笑い声が聞こえ、すぐに「盗られたのか」と察した。
替えの下着はクローゼットにあるが、タオルを巻いたまま部屋まで戻るわけにもいかない。俺は仕方なく直接ズボンを履き、羞恥心を押し殺して脱衣場から出ようとした。しかしその様子を見ていたらしい竹中に、「ノーパンの奴がうろうろしてるから気を付けろよー!」と無駄に通る声で叫ばれてしまい、逃げるように人の目をすり抜けてきて今に至る。
どうやら、下着と同時に部屋の鍵も盗まれたみたいだ。これではクローゼットどころか部屋にも入ることができないし、かといって堂々と鍵を探しに行ける状況でもない。きっと俺は竹中の思惑通り、八方塞がりに陥っている。
「……疲れた」
目的の分からない、数々の仕打ち。嫌われていることに傷ついているわけではない。ただ、こんな俺の存在なんて今すぐ視界から排除して構わないから、皆放っておいてくれと思う。
俺はドアに背中を預け、ずるずると廊下に座り込んだ。
「……文世? そんなとこでどうしたの」
少しして、そんな声が頭上から降ってきた。この下宿で文世と呼ぶのは一人しかいない。俺は考え、ゆっくりと顔を上げてみる。
「大丈夫? 顔色悪いよ」
そう言って心配そうに覗き込んでくる桧琉は、なんだか久しぶりに会った気がした。俺が「鍵がなくて」と小さく答えると、「じゃあオレの部屋来なよ」と当たり前のように返される。俺は色々な意味で躊躇った。
「……あいつらに何か言われたら、面倒なことになるよ」
「ん、何?」
果たしてこんなの、いいんだろうか。
俺と関わると桧琉まで変な目で見られてしまうかもしれないのに、それに俺は今隠さなければいけない事情があるのに……。
「とにかく嫌じゃなかったら入って。こっち」
桧琉に自然と手を引かれ、気付いたら俺は隣の部屋に吸い込まれていた。
初めて入る桧琉の部屋は、作りが一緒でも雰囲気が俺と全然違う。ベッドの上にあるカラフルなゲーム機。棚に飾られた家族写真。窓際にはたくさんスポーツタオルが干されていて、そのどれもがこの空間を賑やかにしているから寂しい感じがしない。
「はいこれ、貸す。綺麗なやつだから」
なんとなく部屋の中を見渡していると、桧琉はいきなり何かを差し出してきた。それを目にした俺は固まる。
「……え?」
「ごめん、さっき一階で竹中たちが騒いでたの聞こえてて。オレ文世の方見ないようにするから着替えていいよ」
そう、紛れもなくそれは男物の下着だった。嘘だろ、知られてたのかよと、一気に顔に熱が集まり声も出ない。しかし桧琉があまりに普通に渡そうとしてくるので、「……いらないから」とつい俺は拒否してしまった。
だって、いくら男同士でもこういうのは無理だ。後になって返すのも気まずいし、第一俺たちは友達なのかさえ分からない。仲がよかったら許されることなのかもしれないが、一方的に「ずっと気になってた」みたいなことを言われただけのこの関係ではどうなんだ……?
「なんで? 別に借りればいいじゃん」
「……買いに行くから」
「行くってどこに?」
「コンビニとか」
「ならどっちにしろ貸さなきゃ。その状態で外歩きたくないでしょ」
「……」
でもすぐに桧琉の正論に返す言葉はなくなり、結局下着を借りさせてもらうことになった。
「なんかその、お返しとか……ほら、誕生日のときも俺だけアイス、貰ったし……」
桧琉の気づかいに申し訳なさが募り、着替えを終えた俺はそう投げかけた。桧琉は「気にしなくていいよ」と首を振るが、「けど……」と俺も引き下がれない。すると、
「じゃあ、そうだ。文世にオレの絵描いてほしい」
と、思わぬ頼みごとをされた。
描くといってもどうやって……と思っていると、桧琉はまるで準備していたかのように、新品のオイルパステルの箱を取り出した。パカッと見せてきたその中身は、綺麗な状態でどの色もほぼすり減っていない。
「……どうして──」
「文世の真似して買ったから。この間文房具屋で見つけて、オレも美術の時間に使いたいなあってさ。まあ見ての通り、まだ出番はないけど」
そう無邪気に笑われて、俺は今まで感じたことのない、むずむずとくすぐったいような不思議な気持ちになった。
勧められるままに、パステルを握る。こんなことでお返しになるのなら、と思ったし、鍵のない俺にはここの部屋に居座る口実が必要だ。
「人の顔とか、滅多に描かないから……あんまり期待しないで」
「うん、分かった。それにオレは文世が描いてるとこ見てるだけで楽しいから」
桧琉の輪郭。鼻筋や唇の薄さ。じっくりと観察して紙の上に再現していくと、いかに俺が真正面から桧琉の顔を見たことがなかったのか自覚する。俺は髪を耳にかけ、真剣に手を動かし始めた。
「──そういや文世は、なんでここで下宿生やってんの?」
絵の出来上がりを待つだけで暇な桧琉は、俺に話しかけてくる。
「どういう意味で?」
「わざわざ家から遠い高校選んだきっかけ。例えばオレなら、本気でバスケと勉強やりたかったから。オレ、将来バスケの選手と研究者になりたいんだよ」
「……どっちも?」
俺は手を止めずに聞き返した。
「そう、どっちも。小っちゃい頃からずっと、皆と違う何かになりたくて……海外とかだと、教師やりながら野球選手とか、獣医師目指しながら俳優とか、結構そういう人っているらしいじゃん。やっぱり格好いいし特別に見える」
「ふぅん……」
「ていうか、オレって取捨選択が苦手なんだよ。全部選びたい。あれもやりたいこれもやりたい、あの人ともこの人とも仲良くしたい、みたいな。だから誰の味方になるべきか決められないときもあるんだけどね」
「…………」
話を聞けば聞くほど、俺とは真逆の部分ばかりだ。眉の形を知るために再びじっと顔を見つめると、桧琉に「オレの話になってた。で、文世は?」と思い出したように尋ねられる。
「ここに来た理由……」
普段だったら答えない、自分自身についてのこと。でもそのときの俺は、久々に竹中たちの存在に怯えなくていい空間にいる安心感と、馴染みあるパステルの感触に、どこか気が緩んでいたのかもしれない。
「母さんの視界から、消えてあげたかったから」
「……消えてあげたい?」
だからつい本当のことを口にした。しかし俺の言葉に一瞬桧琉の表情が変わりかけたので、「そういうのじゃないよ」と軽く笑って付け足す。
「──ひどい男嫌いなんだ、母さんは」
「……」
「電車で隣に男が座ってくるだけで、動悸を起こす重症でさ。接客みたいに人前に出る仕事は不特定多数の男と顔を合わせなくちゃいけないからもってのほか。精神がまいって続かない職場も多かった」
淡々と言いながら、色を塗った部分を指先でぼかす。こうすると粗かった線的な絵から、全体的にふんわりした曖昧なタッチの絵へと変わるのだ。
「でも五年前、やっと女性だけの環境で安心して働けるとこが見つかって……それで思った。俺が家を出れば、もっと母さんは楽に過ごせるんじゃないかって」
似顔絵はそろそろ、完成が近い。
「幸い成績は悪くなかったし、受かりそうだったからここに来た。下宿か寮があるならどこでもよかったし、桧琉みたいな立派な目標があったわけじゃないよ」
「……文世?」
ひと通り話し終わったのと同時に、仕上がった。その絵を桧琉に見せようと顔を上げて、息を吞む。もの凄く近くに、何か言いたげな桧琉の顔があったからだ。
「……かい、る……」
「悲しかったでしょ」
その言葉の意味はすぐには分からなかった。
「色々考えて一人でここまで来て、バイトとか勉強とか自分にできること精一杯やって。それなのに全部否定されるみたいに嫌な目に遭って。きっと悲しかったよね」
分かったときには、既に涙がゆっくりと頬をつたっていた。出来上がったばかりの絵にもポト、と滴が落ちてしまい、慌ててそれを手の甲で拭う。「いいよ」と桧琉は俺から絵を預かって床に置いた。
「文世さ、静かに泣き出すとびびるよ……」
そして、そんな優しい困り笑いで、俺の背中に腕を回してきた。もう距離なんてものはなく、
「ねえ。帰らなくていいよ」
と、耳元で囁かれる。
腕の温度。肌に触れる吐息。俺は必死に頭を回転させた。恐らく俺は今、お人好しで根が真っ直ぐすぎる隣人に励まされている。うっかり泣いている姿を見せ、自分でも知らない弱さを溢してしまったからだ。
何やってるんだ、思い出せ。
照夫さんの言葉に甘えてどうなった? 最初は嬉しかったし心強かった。でもそのせいで周りから咎(とが)められ、照夫さんの評判も悪くさせて、今では目が合ってもぎこちなく逸らされるだけ……優しさなんて誰のことも救わなかったじゃないか。
「やめろっ、よ……!」
俺は声を振り絞り、桧琉の腕を無理やり解いた。こんな風に身を預けちゃ駄目なんだ。人に頼ることを前提で生きていたら、またすぐに振り回されてぼろぼろになる。
「……手を差し伸べる側はいつも気楽だよ」
「え?」
「可哀想って感情に、責任は伴わないんだから」
桧琉のためにも、俺は一人でいた方がいい。あえて強く言い切って、行く当てもないのに部屋から出ようとする。
けれど、俺がドアノブに手をかけたときだった。
「……オレも皆と同じだと思うの?」
桧琉の声が俺を引き止めた。振り返ると、射貫くような目線がただこちらだけを捉えている。
「可哀想なだけじゃ優しくしない」
突然、肩に手を置かれたと思ったら視界が真っ暗になった。わずかに唇が押されるような感覚と、そこから伝わってきた高めの体温。何が起こったのか理解して、俺は一歩も動けなくなる。
「……」
「鍵は明日探せばいいよ」
桧琉は落ち着いた様子でそう言った。
本来こういうのは恋人同士がすることなんだろうと、人間関係が希薄な俺でも分かる。でもこれ以上考えるとなぜかまた泣き出しそうになるから、今桧琉の顔が再び迫ってきているのに抵抗できない。
──桧琉だけは俺のことが邪魔じゃないとしたら……。
静かに目を瞑った。
おかしい。部屋に入れず廊下でうずくまっていたさっきまでは、誰の目にも触れず空気のように自分が放っておかれることを願っていたはずなのに。世界が俺と桧琉の二人きりだとしたら、それが覆る未来が浮かぶ。
最初と二度目のキスのせいだ。
