彼の髪も瞳も、夜の闇と同化している。
でも、瞳の奥に灯る色は儚げに揺れていた。
今も逃げ道は与えられてる。俺が警戒して、近付かないだけだ。
優しくされることが怖い。
だって俺は、その優しさに何も返せないから。
「俺達は脚立なんだろ?」
奈村さんは俺の肩を支えたまま、おどけて言った。
脚立か……。
今思うと、本当に謎な例えだ。
「よく考えると……それだと、俺達はいつも踏まれちゃう側ですね」
「ははっ」
でも、そういうものかもしれない。畳まれたり倒れたり、だけど何度でも展開する。
知らない誰かの役に立つ、影の功労者。倉庫仕事と同じ。
「すみません。俺の家、こっちです」
そしてその一線で働く彼は、俺の景色を象るひと。
俺の世界そのものなんだ。
◇
「お邪魔します」
「どうぞ」
部屋の明かりを点ける。奈村さんは家に着いた直後帰ろうとしたので、慌ててお茶だけでも、と引き留めた。彼を奥に通し、お茶のペットボトルを渡す。
「お前のお母さんは?」
「今日は夜勤なんです。だから明日までひとりで」
彼に席を促し、俺は自室のベッドに座った。そしてすぐにアプリを開き、タクシーを探す。
「俺が出しますんで、タクシーで帰ってください」
「それは大丈夫……だけど」
奈村さんは椅子に腰掛け、部屋の周りを見回した。
「物少ないな」
「あはは。別にミニマリストとかじゃないですよ」
でも、彼が気にするのも無理はない。部屋には勉強机と収納棚、それにベッドしかない。後は鞄が少しあるだけだ。
「元々、あまり物を持ってないんです。中学までずっと入院していたので」
布団の上にスマホを放る。奈村さんはハッとした顔でこちらに振り返った。
「小学校に上がってすぐ、脚を怪我して入院生活になりました。今はすっかり治って、長距離を走るとかじゃなければ問題ないです」
「……いや、脚立から落ちたら大ごとだろ」
彼は咳払いし、あまり脚立の高い位置に乗るなと続けた。でもそれぐらいは大丈夫だから、笑ってかぶりを振る。
「六年も院内学級で過ごして。病院では大丈夫だったけど、久しぶりの外はすごく怖かったです。学校に戻ったらすっかり交流下手になっちゃって……笑い方とかわかんないまま高校生になっちゃいました」
だからといって、嫌みを言われたり嫌がらせをされたことはない。中学も高校も、周りは皆優しく、大人だった。だから何とかやってこられた。
「ただ俺が入院してる間に親が離婚しまして……母は必死に働いてました。夜勤明けに様子見に来て、家に帰ってもまた病院から呼び出されて。あの頃は全然寝てなかったと思う。だから俺、早く自立したいんです。もう母に迷惑はかけたくない」
「……」
六年以上も苦労をかけた母にできる恩返しは、早く自立することだ。進学ではなく就職も視野に入れて、もっと稼ぎたい。
改めて自分の気持ちに向き合った気がする。長い身の上話をしてしまったと少し後悔したけど、奈村さんは真剣な顔でこちらを見ていた。
「迷惑ではないと思う」
「え」
「俺もそうだから。親父が病気したことは戸惑ったけど、バイトすること自体を迷惑と思ったことはない」
彼はそう告げ、徐に立ち上がる。
「子どもが親にそう思うんだから……親が子どものことを迷惑なんて思ったりしないよ。普段仲がいいなら尚さら」
「……っ」
怖いから訊くこともできなかった。でも、彼の言葉で救われたのは事実だ。
誰にも相談できないこと。ずっと心の中に隠しておくことだと思ってたのに。
「ありがとうございます、奈村さん」
自身の胸に手を添える。罪悪感からくる痛みは、確かに和らいでいた。
「やっぱりお前は笑ってた方がいいな」
奈村さんは目を眇め、俺の前に片膝をついた。優しい笑みを浮かべながら俺を見上げる彼は、陽だまりのように眩い。
「……それは、奈村さんもですね」
いつもは絶対零度の対応なのに、笑ったときの威力が凄まじい。火傷するどころか、どろどろに溶けてしまいそうだ。願わくば、いつも彼の笑顔を見ていたい。
「でも、奈村さんが笑ったらもっとモテて大変かも……?」
「それはないし、俺よりお前の方が……」
彼は言いかけて、何故か口を噤んだ。
「……そうだな。やっぱり、俺の前以外ではそんなに笑わなくていい」
「え、何で?」
訊いたけど、まただんまりモードに入ってしまった。相変わらず難しい……。
( …… )
でも今はこの沈黙すら楽しくて、安心する。
こんな気持ちは初めてだ。一緒にいて心地いい人なんて、家族以外で初めて出会った。
本当はもっと話したいし、傍にいたい。
でもそれを言ったら引かれるだろうな……。
友人や先輩後輩以上の関係になりたいけど、どこまで踏み込んでいいかわからない。
下手に近付き過ぎて嫌われるのも怖い。本当は言いたい言葉があるけど、ぐっと押し殺した。
奈村さん。
今日、泊まっていっても大丈夫ですよ。……と。
「タクシー呼びました」
「……ありがと」
スマホを持ち上げ、彼に微笑む。
急過ぎるし、お父さんのことも心配だ。だから絶対、無責任な提案はできない。
でも、別れるのが切ない。
情緒不安定だな。自分にげんなりしながら部屋を出る。奈村さんもゆっくり立ち上がり、玄関までやってきた。
「少ないですけど、これ」
「いい」
お金を渡そうとしたけど、ぎゅっと頬を押されてよろめく。何度か攻防を繰り広げ、足元に気をつけながら階段を降りた。
「……すみません、奈村さん。送ってくださって、本当にありがとうございます」
「こっちこそ。……色々聞けて良かった」
一階に降り、奈村さんは立ち止まる。ここでいい、と告げて体を屈めた。
「辛いときは辛いって言え。職場じゃなくてもいつでも聞くし、……会いに行くから」
「……っ」
奈村さんは俺と同じ目線になり、眼鏡を外した。
会いに行く、って……恋人同士みたいだ。
そんなわけないのに、無性に恥ずかしくて顔を背けた。
「お前は目が合うとすぐに逸らすよな」
「いやいや……」
最初に目を合わそうとしなかったのはそっちですって。
反論したい気持ちを堪え、わずかに右股に触れた。
でも、確かに。俺は俺で、どんどん彼と目を合わすことが難しくなってる。
慣れていってるはずなのに、今まで何でもなかったことを意識するようになった。恥ずかしくてどきどきする。
まるで恋するオトメだ。……冗談抜きで、これはマズい。
「奈村さんが……か……かっこいいから」
顔が熱い。
視線は足元に向けたまま、自分の発言に卒倒しそうになっていた。
何か他に言い方あっただろ。かっこいいから目が合わせられないって何だ。
アイドルを前にしてるわけじゃない。目の前にいるのは俺と同じ、ただの高校生。
「ははっ」
────と言い切るにはもう遅い。
俺は彼に惚れ過ぎてる。
「……不思議だな。お前に言われると嬉しい」
奈村さんの白い頬が薄桃色に染まる。淡雪の世界に桜が舞ったようで、目を奪われた。
季節違いにも程があるけど……これは春だ。俺と無縁だった春の到来。
彼の声、表情、仕草。そのどれもに心が突き動かされる。もっと見たいし、聞きたい。
うわああぁ……。
初めての感情過ぎて、上手く処理できない。頭の中で小さな嵐が巻き起こってる。
「泡瀬は彼女いないの」
「いません」
「好きなひとは」
「……」
好きなひと。は。……もしかしてもしかすると、ここに。
「…………わかりません」
でも、言えない。彼が好き……だからこそ。
瞼を伏せて俯く。顔は見えないけど、彼が笑った気がした。
「奈村さんは、好きなひといないんですか」
「……」
マンションのエントランスを抜け、涼しい夜風が吹く外へ出る。目の前の道路に停まってるタクシーが見えた。
奈村さんはポケットに手を入れ、悪戯っぽく微笑む。
「できたかもしれない」
「えっ!」
いるのか。一体どこの誰だ。
固唾を飲んで見返すと、彼は首を横に振った。
「まぁ、難易度高そうだけど」
「……!」
奈村さんでも難易度高そうな女性? というと、陽キャ? まさかギャルか?
何にしても、一瞬安心してしまった自分は本当性格が悪い。
彼に幸せになってほしいのに、彼の恋が実るところは見たくないと思ってる。
はぁ。やっぱ俺に恋愛は向いてない。
「……奈村さんが好きになるひと……なら、相当良いひとですね」
きっと、俺なんかじゃ敵わない。
そもそも性別が違うから同じ土俵にも立てないんだけど。
タクシーの前に向かうとドアが開いた。奈村さんも後部座席へ移動し、外していた眼鏡をかける。
そのまま中に入るかと思いきや、振り返って頷いた。
「いつか教える。……またな」
「あっ。はい、……おやすみなさい」
狼狽えつつ返すと、彼はかすかに笑って車に乗り込んだ。
おやすみって変だったかも。普通お疲れ様って言うとこだよな。あああ、失敗した。
彼の前だと空回りしてしょうがない。タクシーが見えなくなってようやく動き出せた。
「好きなひと……」
奈村さんが好きなひと。知りたいけど、知るのが怖い。
今から不安で、息が苦しくなる。
全然知らなかったけど……人を好きになる、って辛すぎないか?
どう考えても、どうしようもなく、俺は知らない誰かに妬いてる。
頭と心に吹き荒れる、春一番。夜空を見上げると、灰色の雲が月を隠そうと迫っていた。



