先輩がカレーを作ってくれた日から、おれたちは、友だちに戻った。
仲のいい友だち。
仲のいい先輩と後輩。
それで、十分だった。先輩のそばにいられるなら。
何より、〈終わり〉に怯えなくていい。
友だちだったら、この先も、ずっと一緒にいられる。
誰の目も気にすることなく。
ふつうにメッセージして、ふつうに電話で話す。
離れていた時期がうそのように、おれと先輩は、昔のような、つきあう以前の関係に戻った。
胸がまったく痛まなかったわけじゃない。
それでも、先輩の声を聞いたり、メッセージをやりとりしていると、たまらなく幸せだった。
先輩の提案で、中間テストが終わったら、ふたりで遊ぶ約束もした。
ちょっと遅くなってしまったけれど、先輩にバースデイプレゼントを贈ることにした。
先輩の欲しいものをあげたかったから、プレゼントは先輩に選んでもらうことにした。
予算の範囲内で、だけれど。
テスト終わったあとが楽しみ、あんまりテスト勉強に手をつけられてないけど、とうっかり電話で話してしまったら、本気で心配されてしまった。
だから、放課後、学校でやっているときは集中できるけれど、家に帰ってひとりになると、とたんにやる気がなくなる、と本当のことを言った。
そうしたら、土曜日、市立図書館で一緒に勉強しようと誘われた。
おれは、いちもにもなく飛び付いた。
朝イチ、開館時間から、閉館時間の夜9時までやろうということになった。
カウンターのプース席に並んで座った。
おれは、数学が苦手だったから、先輩に少し教えてほしいと頼んだ。
先輩も自分の勉強あるから、本当に少しでいいですよ、と言ったのに、おれのあまりのバカぶりに驚いた先輩に、つきっきりで二次関数を教わるはめになった。
昼休憩もおやつ休憩もほんの少し、ひたすら勉強に明け暮れた一日だった。
先輩にあげるプレゼントの予算をもっと引き上げなければ、と思った。
たとえ、自分の食費を削ってでも。
行きも帰りも先輩が車で送ってくれたから、ラクだった。
帰りは、ちょっと遠回りをして、夜のドライブを楽しんだ。
先輩といると、一日があっという間だった。
母親が単身赴任で家を出て、一人暮らしになってから、おれの心の隅には、孤独感と不安感が常に巣くっていたけれど、それらを感じることがだいぶ減った。
蓮のおかげもなくはなかった。
蓮は蓮なりにおれの一人暮らしを気遣ってくれているようで、教室で毎日顔をあわせながらも、夜は夜で毎晩どうということもないメッセージをくれた。
ただ、泊まりにいきたいというリクエストを断るのは、面倒だったし、申し訳なかった。
それは、ひとえに先輩に忠告されていたからだ。
一度泊めたらクセになるからやめておけ、布団がないからって言えばいい、と先輩に言われ、それをオウムのごとく蓮の前でも繰り返した。
先輩は、おれと蓮が遊ぶことじたい、いい顔をしなかった。
あいつと遊ぶときは必ず女絡みになると言われ、それは、否定できなかった。
おれ自身人見知りだから、何気にナンパはきつい、と言ったら、蓮も最近は自粛してくれている。
先輩と蓮のおかげで、どうにかおれも少しずつ一人暮らしに慣れていった。
そして、無事テストも終え、先輩と遊ぶ日になった。
遊ぶと言っても、どこか目的地があるわけじゃなく、適当に街中をブラつくだけ。
今日は先輩も電車できて、待ち合わせの駅で顔を合わせるなり、本屋に行きたいと言われた。
だから、本屋も兼ねるCDショップにさっそく向かった。
本屋はおれも好きな場所。
本じたい好きだから、長くいても飽きない。
先輩と、じっくりまわった。
先輩は、新刊の文庫本コーナーで足を止めた。
平積みになっている本を一冊手に取って、ぱらぱらとページをめくる。
「最近、全然本読めてないんだよな」
「忙しいですもんね」
「まあな」
そう言いながら、先輩はまた別の本を手に取る。
おれは隣に目を向けた。
そこは、ハードカバーの新刊書コーナーになっている。
おもしろそうなタイトルや装丁の本がぎっしり並んでいる。
それらのなかから、先日テレビで紹介されていた推理ものの一冊を選んで、手に取った。
冒頭を少し読んでいたら、
「それ買うの?」
と耳元で先輩の声がしたから、びっくりしてしまった。
「……買わない、です。てか、買えないです。文庫本ならまだしも、ハードカバーは値段はるじゃないですか」
それから、思い出して、先輩に言った。
「先輩、欲しいものがあったら、遠慮なく言ってくださいね。先輩にバースデープレゼント、しますから」
「いや、遠慮なく言えないよ。ハードカバーの本買えないって言ってる、香名人にたかるなんてさ」
「たかりじゃないですよ。プレゼントです。だいいち、おれ、先輩の誕生日お祝いしてあげたことないじゃないですか」
以前つきあっていたのは、夏の終わりから春の始めにかけてだった。
だから、クリスマスプレゼントの交換はしたけれど、4月と6月の互いの誕生日は、お祝いしたことがないのだ。
「本じゃなくても、何か欲しいものあったら、言ってください。それくらいのお金なら持ってるし、倍返ししろなんて言わないし」
「じゃあ、三倍返しするよ。それだったら、いい?」
先輩が、ふざけたように言った。
結局、先輩が選んだのは、本じゃなくて、洋楽のCDだった。
買い物を終えると、二階に併設されているカフェで一休みすることにした。
カフェは、ガラス張りで明るかった。
テーブルとソファ席がゆったり並んでいる。
コーヒーの香りと、本の匂いが混ざっていて、なんだか落ち着く場所だった。
カウンターで先輩が注文してくれて、おれは少し離れた席で待つ。
ガラス越しに街が見えた。
休日の午後で、人通りは多い。
先輩がトレイを持って戻ってきた。
トレイには、紙のカップが二つと、小さな皿に乗ったスコーンが一つ。
「これ、半分な」
先輩がそう言って、皿をテーブルの真ん中に置いた。
「ありがとうございます」
紙カップを受け取る。甘い香りがした。
おれは、コーヒーの酸味と苦味が苦手で、砂糖はなくてもかまわないけれど、ミルク入りでなければ絶対飲めない。
先輩は、ブラック一辺倒。
そんなささいなことも覚えている。
先輩が、スコーンを半分に割って、片方をおれに渡してくる。
「はい」
「ありがとうございます」
バターの匂いがして、おいしそうだった。
それから、しばらく、言葉はなかった。
でも、気まずくはない。
窓から差し込む光。
コーヒーの湯気。
それだけで、なんだか満たされていた。
おれは、ふと先輩を見た。
コーヒーを飲んでいる横顔。
前と、何も変わらない。
それが、うれしくて。
同時に、少しだけ苦しかった。
今はもう、友だちだから。
こうして一緒にコーヒーを飲んでいても、抱きしめられることも、キスされることもない。
それでも、いいと思った。
先輩と一緒にいられるなら、それだけで。
けれど、カフェを出て、洋服屋巡りをしているうちに、おれは、だんだん苦しくなってきた。
仲のいい友だち。
仲のいい先輩と後輩。
それで、十分だった。先輩のそばにいられるなら。
何より、〈終わり〉に怯えなくていい。
友だちだったら、この先も、ずっと一緒にいられる。
誰の目も気にすることなく。
ふつうにメッセージして、ふつうに電話で話す。
離れていた時期がうそのように、おれと先輩は、昔のような、つきあう以前の関係に戻った。
胸がまったく痛まなかったわけじゃない。
それでも、先輩の声を聞いたり、メッセージをやりとりしていると、たまらなく幸せだった。
先輩の提案で、中間テストが終わったら、ふたりで遊ぶ約束もした。
ちょっと遅くなってしまったけれど、先輩にバースデイプレゼントを贈ることにした。
先輩の欲しいものをあげたかったから、プレゼントは先輩に選んでもらうことにした。
予算の範囲内で、だけれど。
テスト終わったあとが楽しみ、あんまりテスト勉強に手をつけられてないけど、とうっかり電話で話してしまったら、本気で心配されてしまった。
だから、放課後、学校でやっているときは集中できるけれど、家に帰ってひとりになると、とたんにやる気がなくなる、と本当のことを言った。
そうしたら、土曜日、市立図書館で一緒に勉強しようと誘われた。
おれは、いちもにもなく飛び付いた。
朝イチ、開館時間から、閉館時間の夜9時までやろうということになった。
カウンターのプース席に並んで座った。
おれは、数学が苦手だったから、先輩に少し教えてほしいと頼んだ。
先輩も自分の勉強あるから、本当に少しでいいですよ、と言ったのに、おれのあまりのバカぶりに驚いた先輩に、つきっきりで二次関数を教わるはめになった。
昼休憩もおやつ休憩もほんの少し、ひたすら勉強に明け暮れた一日だった。
先輩にあげるプレゼントの予算をもっと引き上げなければ、と思った。
たとえ、自分の食費を削ってでも。
行きも帰りも先輩が車で送ってくれたから、ラクだった。
帰りは、ちょっと遠回りをして、夜のドライブを楽しんだ。
先輩といると、一日があっという間だった。
母親が単身赴任で家を出て、一人暮らしになってから、おれの心の隅には、孤独感と不安感が常に巣くっていたけれど、それらを感じることがだいぶ減った。
蓮のおかげもなくはなかった。
蓮は蓮なりにおれの一人暮らしを気遣ってくれているようで、教室で毎日顔をあわせながらも、夜は夜で毎晩どうということもないメッセージをくれた。
ただ、泊まりにいきたいというリクエストを断るのは、面倒だったし、申し訳なかった。
それは、ひとえに先輩に忠告されていたからだ。
一度泊めたらクセになるからやめておけ、布団がないからって言えばいい、と先輩に言われ、それをオウムのごとく蓮の前でも繰り返した。
先輩は、おれと蓮が遊ぶことじたい、いい顔をしなかった。
あいつと遊ぶときは必ず女絡みになると言われ、それは、否定できなかった。
おれ自身人見知りだから、何気にナンパはきつい、と言ったら、蓮も最近は自粛してくれている。
先輩と蓮のおかげで、どうにかおれも少しずつ一人暮らしに慣れていった。
そして、無事テストも終え、先輩と遊ぶ日になった。
遊ぶと言っても、どこか目的地があるわけじゃなく、適当に街中をブラつくだけ。
今日は先輩も電車できて、待ち合わせの駅で顔を合わせるなり、本屋に行きたいと言われた。
だから、本屋も兼ねるCDショップにさっそく向かった。
本屋はおれも好きな場所。
本じたい好きだから、長くいても飽きない。
先輩と、じっくりまわった。
先輩は、新刊の文庫本コーナーで足を止めた。
平積みになっている本を一冊手に取って、ぱらぱらとページをめくる。
「最近、全然本読めてないんだよな」
「忙しいですもんね」
「まあな」
そう言いながら、先輩はまた別の本を手に取る。
おれは隣に目を向けた。
そこは、ハードカバーの新刊書コーナーになっている。
おもしろそうなタイトルや装丁の本がぎっしり並んでいる。
それらのなかから、先日テレビで紹介されていた推理ものの一冊を選んで、手に取った。
冒頭を少し読んでいたら、
「それ買うの?」
と耳元で先輩の声がしたから、びっくりしてしまった。
「……買わない、です。てか、買えないです。文庫本ならまだしも、ハードカバーは値段はるじゃないですか」
それから、思い出して、先輩に言った。
「先輩、欲しいものがあったら、遠慮なく言ってくださいね。先輩にバースデープレゼント、しますから」
「いや、遠慮なく言えないよ。ハードカバーの本買えないって言ってる、香名人にたかるなんてさ」
「たかりじゃないですよ。プレゼントです。だいいち、おれ、先輩の誕生日お祝いしてあげたことないじゃないですか」
以前つきあっていたのは、夏の終わりから春の始めにかけてだった。
だから、クリスマスプレゼントの交換はしたけれど、4月と6月の互いの誕生日は、お祝いしたことがないのだ。
「本じゃなくても、何か欲しいものあったら、言ってください。それくらいのお金なら持ってるし、倍返ししろなんて言わないし」
「じゃあ、三倍返しするよ。それだったら、いい?」
先輩が、ふざけたように言った。
結局、先輩が選んだのは、本じゃなくて、洋楽のCDだった。
買い物を終えると、二階に併設されているカフェで一休みすることにした。
カフェは、ガラス張りで明るかった。
テーブルとソファ席がゆったり並んでいる。
コーヒーの香りと、本の匂いが混ざっていて、なんだか落ち着く場所だった。
カウンターで先輩が注文してくれて、おれは少し離れた席で待つ。
ガラス越しに街が見えた。
休日の午後で、人通りは多い。
先輩がトレイを持って戻ってきた。
トレイには、紙のカップが二つと、小さな皿に乗ったスコーンが一つ。
「これ、半分な」
先輩がそう言って、皿をテーブルの真ん中に置いた。
「ありがとうございます」
紙カップを受け取る。甘い香りがした。
おれは、コーヒーの酸味と苦味が苦手で、砂糖はなくてもかまわないけれど、ミルク入りでなければ絶対飲めない。
先輩は、ブラック一辺倒。
そんなささいなことも覚えている。
先輩が、スコーンを半分に割って、片方をおれに渡してくる。
「はい」
「ありがとうございます」
バターの匂いがして、おいしそうだった。
それから、しばらく、言葉はなかった。
でも、気まずくはない。
窓から差し込む光。
コーヒーの湯気。
それだけで、なんだか満たされていた。
おれは、ふと先輩を見た。
コーヒーを飲んでいる横顔。
前と、何も変わらない。
それが、うれしくて。
同時に、少しだけ苦しかった。
今はもう、友だちだから。
こうして一緒にコーヒーを飲んでいても、抱きしめられることも、キスされることもない。
それでも、いいと思った。
先輩と一緒にいられるなら、それだけで。
けれど、カフェを出て、洋服屋巡りをしているうちに、おれは、だんだん苦しくなってきた。

