9
チョコレートを渡せなかったことを舞香には言えなかった。
曖昧に笑って誤魔化したけれど、もしかしたら察しているのかもしれない。「そっかあ」と微笑んでくれた。
わたしの後悔とは無関係に、交流ノートは静かに続いた。『メダル作り、楽しかったね』と先輩が書いてくれた時は、すごく嬉しくなった。
『マラソン大会、先輩はどうしますか?』
『その日は定期の診察が入ってるから休むつもり。豊里さんは?』
『わたしは本部席で待機する予定です。メダルの行方を見守りたいと思います』
そんなささやかなやり取りが、わたしの日常の一部になっていく。
意気地なしで終わったバレンタインのことは、もう気にしないようにしよう、と思った。
ノートの残りは数ページ。書き終わる頃には新学期になっているだろう。
マラソン大会を終えた次の体育の日、ノートには『マラソン大会、どうだった? メダル足りたかな。もうすぐテスト期間で憂鬱だ。豊里さんって得意科目ある? 俺は数学が得意です。元町』と書かれていた。
マラソン大会について返事を書いてから、『わたしは英語が得意です。数学が得意なんてすごい! 尊敬します』と書き込む。
また新しい一面を知れたことが嬉しかった。
程なくしてテスト期間に突入した。当然、テスト期間中には体育の授業はないので、交流ノートもお休みだ。
学校のどこかで先輩とすれ違ったりしないかなあ、と休み時間に廊下をうろうろしたりしてみたけれど会えなかった。
テストが終わって最初の体育の日、わたしはいつもより早足で別室体育教室に向かった。
(先輩は確か昨日、体育があったはず……)
テスト前にわたしが書き込んだ、『得意科目は英語です』の返事が、きっと書かれている。
教室に入ってすぐノートを手に取った。前回の続きのページを開く。
「え……」
そこには、元町先輩からの返事はなかった。わたしの書き込みが最後になっている。
念のためページを捲ってみたけれど、やっぱり書かれていない。
(なんで……?)
急速に気持ちが萎んでいくのがわかる。
書き忘れ、とか?
授業終わったのがギリギリで書けなかった、とか?
自分なりに理由を考えてみるけれど、しょんぼりした気持ちはなかなか振り払えなかった。
(……でも、毎回返事を書くって、別に決まってたわけじゃないもんね)
忘れることだってあるし、気分じゃない時があっても何もおかしくない。
ノートを閉じた。先輩からの返事がない以上、わたしが連続で書き込むわけにはいかない。
(次は、……きっと返事、あるよね)
深く考えすぎないほうがいいこともある。そう言い聞かせた。
だけど、その次もその次も、先輩からの返信はなかった。
どうして返事がないのか、何もわからなくて不安ばかりが募っていく。
嫌われたんじゃないか、何か気に障ることをしてしまったんじゃないか。それとも単純に飽きたのか。
正解がわからないから怖くて、その怖さに押し潰されそうになる。
返事がこなくなってから四回目の体育の授業があった日、昼休みに思い切って二年一組の教室に行ってみることにした。
教室のドアの脇から中をそっと覗く。お弁当を食べている人、本を読んでいる人、友達と話し込んでいる人、それぞれが昼休みを楽しんでいる。
目立たないよう、できるだけ身体を小さくしながら元町先輩を探した。
(いない……)
昼休みだからといって必ず教室にいるわけではないことはわかっていたのに、肩を落としてしまう。
「一年生?」
その時、背後から声をかけられた。振り向くと男子生徒が立っていた。胸の校章が二年生のものなので、もしかしたら一組の人なのかもしれない。
「誰か探してんの?」と訊ねられ、少し迷ったけれど聞いてみることにした。
「あの、……元町先輩、いますか?」
名前を言う時、とても緊張してしまった。自分で思っていたよりも声が小さくなる。
「元町なら休みだよ」
「え……」
「テスト期間の途中から休んでる。風邪拗らせたらしいよ。先生がそう言ってた」
「……そうなんですか。ありがとうございます」
頭を下げて、早足でその場を離れた。
テスト期間中から欠席していたなんて、全然知らなかった。返事がなくても当然だ。
(風邪……)
それも拗らせている、と言われて不安になった。
ぜん息のわたしにとって風邪は大敵だ。少し拗らせただけで発作が出てしまう。元町先輩にとっての風邪も、きっと同じくらい厄介なのだろう。
(どうしよう……)
どうしようもないのに、どうしよう、と思った。
わたしにできることはない、とわかっていても、どうしたらいいんだろう、と考える。
熱はどれくらいあるんだろう。ひどい咳で息苦しさを感じてないかな。
どうしてわたしは、元町先輩のために何もできないんだろう。
その日から毎日、先輩の風邪が治りますように、と祈った。
図書館で心臓病の本を調べると、拗らせた風邪が原因で心臓に負担がかかり、急性心筋炎という病気に罹ることがある、と書いてあって、目の前が真っ暗になる。
(……大丈夫だよ。絶対、大丈夫。心配しすぎだよ、……きっと大丈夫)
そうやって自分に言い聞かせることしかできなかった。
次の体育でも返事はなかった。先輩はまだ欠席を続けているのだと思う。
先輩のことを心配し続ける毎日は、一日がとてつもなく長く感じた。授業にも身が入らなかった。
三学期最後の体育の日。この日も先輩からの書き込みはなかった。
家に帰って、お風呂に入って、ご飯を食べて、歯磨きをした。そうやって「いつも通り」の一日をこなして、やっと眠る時間が訪れる。
ベッドに入って、暗い部屋の中を見つめた。
(……先輩、今頃どうしてるんだろう)
苦しんでないといいな。少しでもマシになったかな。
でももし、もし容態が悪化していたら……。
視界がじわりと滲んだ。
涙がつーっと流れて、枕に落ちた。
心臓が苦しかった。きゅうっと痛くて、破裂しそうになる。
誰かのことを心から想って涙を流すのは、人生でこれが初めてだった。
(……ああ、わたし、好きなんだ)
元町先輩のことが、好き。
先輩のことが心配で、眠れなくて、苦しくて、こうやって涙が溢れるくらい、わたしは先輩が好きだ。
人を好きになるのは怖かった。初恋があんな形で終わったから、もう恋なんてしたくない、とすら思っていた。
だからずっと、これは恋じゃない、と自分に宣言していた。
恋じゃないから大丈夫。先輩として、いい人だなって思ってるだけ。これは恋じゃない。
(……バカだ、わたし)
会えなくなって、ノートが途絶えて、先輩がわたしの日常からいなくなって、初めて気持ちに気がつくなんて。
会いたい。
先輩、会いたいです。好きです。会いたいです。
(神様、どうかお願いします)
元町先輩を助けてください。先輩の風邪を治してください。
ぎゅうっと目を閉じる。瞼の裏にいる元町先輩は、瞳を細めて笑っていて、寂しさと恋しさが募った。
チョコレートを渡せなかったことを舞香には言えなかった。
曖昧に笑って誤魔化したけれど、もしかしたら察しているのかもしれない。「そっかあ」と微笑んでくれた。
わたしの後悔とは無関係に、交流ノートは静かに続いた。『メダル作り、楽しかったね』と先輩が書いてくれた時は、すごく嬉しくなった。
『マラソン大会、先輩はどうしますか?』
『その日は定期の診察が入ってるから休むつもり。豊里さんは?』
『わたしは本部席で待機する予定です。メダルの行方を見守りたいと思います』
そんなささやかなやり取りが、わたしの日常の一部になっていく。
意気地なしで終わったバレンタインのことは、もう気にしないようにしよう、と思った。
ノートの残りは数ページ。書き終わる頃には新学期になっているだろう。
マラソン大会を終えた次の体育の日、ノートには『マラソン大会、どうだった? メダル足りたかな。もうすぐテスト期間で憂鬱だ。豊里さんって得意科目ある? 俺は数学が得意です。元町』と書かれていた。
マラソン大会について返事を書いてから、『わたしは英語が得意です。数学が得意なんてすごい! 尊敬します』と書き込む。
また新しい一面を知れたことが嬉しかった。
程なくしてテスト期間に突入した。当然、テスト期間中には体育の授業はないので、交流ノートもお休みだ。
学校のどこかで先輩とすれ違ったりしないかなあ、と休み時間に廊下をうろうろしたりしてみたけれど会えなかった。
テストが終わって最初の体育の日、わたしはいつもより早足で別室体育教室に向かった。
(先輩は確か昨日、体育があったはず……)
テスト前にわたしが書き込んだ、『得意科目は英語です』の返事が、きっと書かれている。
教室に入ってすぐノートを手に取った。前回の続きのページを開く。
「え……」
そこには、元町先輩からの返事はなかった。わたしの書き込みが最後になっている。
念のためページを捲ってみたけれど、やっぱり書かれていない。
(なんで……?)
急速に気持ちが萎んでいくのがわかる。
書き忘れ、とか?
授業終わったのがギリギリで書けなかった、とか?
自分なりに理由を考えてみるけれど、しょんぼりした気持ちはなかなか振り払えなかった。
(……でも、毎回返事を書くって、別に決まってたわけじゃないもんね)
忘れることだってあるし、気分じゃない時があっても何もおかしくない。
ノートを閉じた。先輩からの返事がない以上、わたしが連続で書き込むわけにはいかない。
(次は、……きっと返事、あるよね)
深く考えすぎないほうがいいこともある。そう言い聞かせた。
だけど、その次もその次も、先輩からの返信はなかった。
どうして返事がないのか、何もわからなくて不安ばかりが募っていく。
嫌われたんじゃないか、何か気に障ることをしてしまったんじゃないか。それとも単純に飽きたのか。
正解がわからないから怖くて、その怖さに押し潰されそうになる。
返事がこなくなってから四回目の体育の授業があった日、昼休みに思い切って二年一組の教室に行ってみることにした。
教室のドアの脇から中をそっと覗く。お弁当を食べている人、本を読んでいる人、友達と話し込んでいる人、それぞれが昼休みを楽しんでいる。
目立たないよう、できるだけ身体を小さくしながら元町先輩を探した。
(いない……)
昼休みだからといって必ず教室にいるわけではないことはわかっていたのに、肩を落としてしまう。
「一年生?」
その時、背後から声をかけられた。振り向くと男子生徒が立っていた。胸の校章が二年生のものなので、もしかしたら一組の人なのかもしれない。
「誰か探してんの?」と訊ねられ、少し迷ったけれど聞いてみることにした。
「あの、……元町先輩、いますか?」
名前を言う時、とても緊張してしまった。自分で思っていたよりも声が小さくなる。
「元町なら休みだよ」
「え……」
「テスト期間の途中から休んでる。風邪拗らせたらしいよ。先生がそう言ってた」
「……そうなんですか。ありがとうございます」
頭を下げて、早足でその場を離れた。
テスト期間中から欠席していたなんて、全然知らなかった。返事がなくても当然だ。
(風邪……)
それも拗らせている、と言われて不安になった。
ぜん息のわたしにとって風邪は大敵だ。少し拗らせただけで発作が出てしまう。元町先輩にとっての風邪も、きっと同じくらい厄介なのだろう。
(どうしよう……)
どうしようもないのに、どうしよう、と思った。
わたしにできることはない、とわかっていても、どうしたらいいんだろう、と考える。
熱はどれくらいあるんだろう。ひどい咳で息苦しさを感じてないかな。
どうしてわたしは、元町先輩のために何もできないんだろう。
その日から毎日、先輩の風邪が治りますように、と祈った。
図書館で心臓病の本を調べると、拗らせた風邪が原因で心臓に負担がかかり、急性心筋炎という病気に罹ることがある、と書いてあって、目の前が真っ暗になる。
(……大丈夫だよ。絶対、大丈夫。心配しすぎだよ、……きっと大丈夫)
そうやって自分に言い聞かせることしかできなかった。
次の体育でも返事はなかった。先輩はまだ欠席を続けているのだと思う。
先輩のことを心配し続ける毎日は、一日がとてつもなく長く感じた。授業にも身が入らなかった。
三学期最後の体育の日。この日も先輩からの書き込みはなかった。
家に帰って、お風呂に入って、ご飯を食べて、歯磨きをした。そうやって「いつも通り」の一日をこなして、やっと眠る時間が訪れる。
ベッドに入って、暗い部屋の中を見つめた。
(……先輩、今頃どうしてるんだろう)
苦しんでないといいな。少しでもマシになったかな。
でももし、もし容態が悪化していたら……。
視界がじわりと滲んだ。
涙がつーっと流れて、枕に落ちた。
心臓が苦しかった。きゅうっと痛くて、破裂しそうになる。
誰かのことを心から想って涙を流すのは、人生でこれが初めてだった。
(……ああ、わたし、好きなんだ)
元町先輩のことが、好き。
先輩のことが心配で、眠れなくて、苦しくて、こうやって涙が溢れるくらい、わたしは先輩が好きだ。
人を好きになるのは怖かった。初恋があんな形で終わったから、もう恋なんてしたくない、とすら思っていた。
だからずっと、これは恋じゃない、と自分に宣言していた。
恋じゃないから大丈夫。先輩として、いい人だなって思ってるだけ。これは恋じゃない。
(……バカだ、わたし)
会えなくなって、ノートが途絶えて、先輩がわたしの日常からいなくなって、初めて気持ちに気がつくなんて。
会いたい。
先輩、会いたいです。好きです。会いたいです。
(神様、どうかお願いします)
元町先輩を助けてください。先輩の風邪を治してください。
ぎゅうっと目を閉じる。瞼の裏にいる元町先輩は、瞳を細めて笑っていて、寂しさと恋しさが募った。

