6
東校舎の二階。端っこに位置する別室体育教室に行くには、わたしの教室からは階段を降りる必要がある。
その日の放課後、ゆっくり時間をかけて、階段を一歩ずつ降りた。
踊り場のところでポケットから鏡を取り出して、全体をチェックする。
舞香が上手に隠してくれた隈は、今もちゃんと隠れてくれている。前髪もさっき櫛で梳かした。新しいリップは買えなかったけれど、いつものお気に入りのリップを丁寧に塗った。
ドキドキと緊張を、鼓動がはっきり奏でているのがわかる。苦しいような、甘く痛むような、そんな音を立てていた。
階段を降り切って、廊下のほうへと曲がる。意を決して前を向いた。
ドキリ、とした。
廊下の先、一番端っこにある別室体育教室の前に、誰かが立っている。
(誰か、じゃない……)
元町先輩だ。きっとそう。絶対そう。
顔もわからないくせに、なぜだか確信めいたものがあった。
ぎゅっと一度目を閉じてから、真っ直廊下を歩く。
一歩、二歩、と少しずつ元町先輩との距離が近づいていく。
(……全然、顔見れない)
さっきからわたしの視界に入っているのは、廊下の床と自分の上履きのつま先だけだ。顔を上げれば先輩が見えてしまう。恥ずかしさと緊張が一気に押し寄せてきて、一度も顔を上げることができない。
先輩までの距離はもうすぐ、というタイミングで、開けっ放しになっていた廊下の窓から強い風が吹き抜けた。
風は勢いよくわたしの身体に吹きつけられて、髪がぶわっと舞う。
え! と思った時にはもう遅かった。せっかく梳かしたわたしの髪は、ものの見事に乱れてしまい、呆然と立ち尽くしてしまう。その時だった。
「髪、くしゃくしゃ」
元町先輩はそう言って、噴き出すように笑った。
先輩の声は、あったかくて優しくて、でも言ってることはちょっぴり意地悪で。
顔が熱くなるのを自覚しながら、「笑うなんてひどい」と言って、結局わたしも笑った。
元町先輩はわたしの目の前で足を止めると、「ごめんごめん」と言って窓を閉め、改めてわたしのほうに身体毎向ける。
「豊里美雨さん、ですか?」
にこりと微笑まれた。はい、と応えるだけでドキドキしてしまう。
(……元町先輩だ)
この人が、元町優希先輩。
少し長めの前髪の奥の目は、笑うと少し細くなる。
おかしな言い方かもしれないけれど、本物の元町先輩は、想像よりもずっとずっと『元町先輩』だった。
「先生も無茶言うよな、六十個のメダルなんて。でも頑張ろうね」
先輩はそう言いながら教室へと歩いていく。わたしはその少し後ろをついて歩いた。
緊張しすぎて、何をどう話せばいいのかわからない。せっかく梳かした髪はくしゃくしゃになってしまったし、本当ならすぐにチェックし直したいけれど、そんなことより元町先輩のことばかりが気になってしまう。
「どうぞ。狭いところですが」
ドアを開けて先輩が片手で案内するような仕草をする。「まあ、俺の家じゃないけど」と続いたから、ふっと笑った。
教室の中は、わたしが授業を受けている時と全く同じだ。なのにまるで初めてきた場所みたいに、室内を見渡してしまった。
隣に先輩がいるだけで、全然違う景色になったみたいだった。
「豊里さん、画用紙とか棚にあるらしいから持ってきてくれる?」
「はい、わかりました」
先輩は卓球台を作業台代わりにすることにしたらしい。隅っこの椅子を二脚、卓球台の元へと運ぶと横並びに設置してくれた。
先生から聞いていた通り、画用紙やサインペンは棚に置いてあった。それらを抱えて先輩の元へと運ぶ。
先輩が椅子に座ったのを見て、わたしも隣に腰を下ろした。
「豊里さん、メダルとか作ったことある?」
「ないです。先輩はありますか?」
「うん。中学の時の体育祭で作った。じゃあやり方は教えるよ。メダルに絵とか描いてもいいんだけど……」
先輩がそこで言葉を切ったので、わたしは少し顔を傾けて先輩に目線を送る。
「でも豊里さん、絵は前衛的だからなあ」
先輩は思い出し笑いのように噴き出した。ノートに描いた猫のイラストのことをいじられている、とわかって、また顔が熱くなる。
「先輩の意地悪。ちゃんと猫を描きました」
わたしが言うと先輩は「俺は好きだけどね、あの犬」とまた笑った。
「でも字は得意です、習字習ってました」
「うん。だと思った。いつもノートの字、すごく綺麗だから」
揶揄いから一転、急に真っ直ぐな声でそう言われてドキッとした。
「じゃあメダルの字は豊里さんに任せようかな。俺は文字の周りの飾り枠を描くよ」
先輩に教えてもらいながら、画用紙でメダル作りを開始した。
先輩は手先が器用で、得意なのは絵だけじゃないんだなあ、とその手元を見て思った。
作業する音と、グラウンドから部活動中の掛け声が聞こえる静かな空間で、隣に座る元町先輩を盗み見る。
盗み見したつもりだったのに、バッチリ目が合ってしまった。慌てて目を逸らす。
先輩は小さく笑ってから言葉を紡いだ。
「不思議だよね。文字でしか知らなかったのに、廊下の向こうから歩いてくるのを見て、豊里さんだってわかった」
「……わたしもです。元町先輩だってわかりました」
「文字でのやり取りだったけど、いろんな話、したもんなあ……。俺ね、別室体育って雨宿りみたいだなって思ってたんだ」
先輩がサインペンで飾り枠に色を塗りながら言った。
「雨宿り、ですか?」
「うん。雨が降ったら誰でも屋根を探して避難するだろ? 俺もそうなんだって思ってる。俺の上には雨が降ってて、ここでちょっと避難してるだけだって」
わたしにはない考え方だった。
普通の体育授業を受けられるみんなを羨ましいと思うことはあっても、自分を不幸だとまでは思わない。
それでも、「いいなあ」と思ってしまうことはあるし、その度に「贅沢だな、わたし」と少し自己嫌悪してしまう。
だから先輩の「雨宿りしてるだけ」という考え方に驚いたし、同時に「素敵だな」と思った。
どんな人にも雨宿りしなきゃならない場面は訪れる。わたしと先輩は、今、そのタイミングなだけ。
「ずっとひとりで雨宿りしてた。けど、豊里さんがすーっと隣にきて、一緒に雨宿りしてくれた。俺はノートの交流をそんなふうに思ってたよ」
あのやり取りの数々を、特別なことと思っていたのはわたしだけじゃない。
そう言ってもらえた気がして、胸の奥がことりと鳴った。
交流ノートだけじゃなく、今この瞬間も、同じくらい特別な時間になってほしい。元町先輩もそう思ってくれたらいいな。
そんなことを考えていた。
東校舎の二階。端っこに位置する別室体育教室に行くには、わたしの教室からは階段を降りる必要がある。
その日の放課後、ゆっくり時間をかけて、階段を一歩ずつ降りた。
踊り場のところでポケットから鏡を取り出して、全体をチェックする。
舞香が上手に隠してくれた隈は、今もちゃんと隠れてくれている。前髪もさっき櫛で梳かした。新しいリップは買えなかったけれど、いつものお気に入りのリップを丁寧に塗った。
ドキドキと緊張を、鼓動がはっきり奏でているのがわかる。苦しいような、甘く痛むような、そんな音を立てていた。
階段を降り切って、廊下のほうへと曲がる。意を決して前を向いた。
ドキリ、とした。
廊下の先、一番端っこにある別室体育教室の前に、誰かが立っている。
(誰か、じゃない……)
元町先輩だ。きっとそう。絶対そう。
顔もわからないくせに、なぜだか確信めいたものがあった。
ぎゅっと一度目を閉じてから、真っ直廊下を歩く。
一歩、二歩、と少しずつ元町先輩との距離が近づいていく。
(……全然、顔見れない)
さっきからわたしの視界に入っているのは、廊下の床と自分の上履きのつま先だけだ。顔を上げれば先輩が見えてしまう。恥ずかしさと緊張が一気に押し寄せてきて、一度も顔を上げることができない。
先輩までの距離はもうすぐ、というタイミングで、開けっ放しになっていた廊下の窓から強い風が吹き抜けた。
風は勢いよくわたしの身体に吹きつけられて、髪がぶわっと舞う。
え! と思った時にはもう遅かった。せっかく梳かしたわたしの髪は、ものの見事に乱れてしまい、呆然と立ち尽くしてしまう。その時だった。
「髪、くしゃくしゃ」
元町先輩はそう言って、噴き出すように笑った。
先輩の声は、あったかくて優しくて、でも言ってることはちょっぴり意地悪で。
顔が熱くなるのを自覚しながら、「笑うなんてひどい」と言って、結局わたしも笑った。
元町先輩はわたしの目の前で足を止めると、「ごめんごめん」と言って窓を閉め、改めてわたしのほうに身体毎向ける。
「豊里美雨さん、ですか?」
にこりと微笑まれた。はい、と応えるだけでドキドキしてしまう。
(……元町先輩だ)
この人が、元町優希先輩。
少し長めの前髪の奥の目は、笑うと少し細くなる。
おかしな言い方かもしれないけれど、本物の元町先輩は、想像よりもずっとずっと『元町先輩』だった。
「先生も無茶言うよな、六十個のメダルなんて。でも頑張ろうね」
先輩はそう言いながら教室へと歩いていく。わたしはその少し後ろをついて歩いた。
緊張しすぎて、何をどう話せばいいのかわからない。せっかく梳かした髪はくしゃくしゃになってしまったし、本当ならすぐにチェックし直したいけれど、そんなことより元町先輩のことばかりが気になってしまう。
「どうぞ。狭いところですが」
ドアを開けて先輩が片手で案内するような仕草をする。「まあ、俺の家じゃないけど」と続いたから、ふっと笑った。
教室の中は、わたしが授業を受けている時と全く同じだ。なのにまるで初めてきた場所みたいに、室内を見渡してしまった。
隣に先輩がいるだけで、全然違う景色になったみたいだった。
「豊里さん、画用紙とか棚にあるらしいから持ってきてくれる?」
「はい、わかりました」
先輩は卓球台を作業台代わりにすることにしたらしい。隅っこの椅子を二脚、卓球台の元へと運ぶと横並びに設置してくれた。
先生から聞いていた通り、画用紙やサインペンは棚に置いてあった。それらを抱えて先輩の元へと運ぶ。
先輩が椅子に座ったのを見て、わたしも隣に腰を下ろした。
「豊里さん、メダルとか作ったことある?」
「ないです。先輩はありますか?」
「うん。中学の時の体育祭で作った。じゃあやり方は教えるよ。メダルに絵とか描いてもいいんだけど……」
先輩がそこで言葉を切ったので、わたしは少し顔を傾けて先輩に目線を送る。
「でも豊里さん、絵は前衛的だからなあ」
先輩は思い出し笑いのように噴き出した。ノートに描いた猫のイラストのことをいじられている、とわかって、また顔が熱くなる。
「先輩の意地悪。ちゃんと猫を描きました」
わたしが言うと先輩は「俺は好きだけどね、あの犬」とまた笑った。
「でも字は得意です、習字習ってました」
「うん。だと思った。いつもノートの字、すごく綺麗だから」
揶揄いから一転、急に真っ直ぐな声でそう言われてドキッとした。
「じゃあメダルの字は豊里さんに任せようかな。俺は文字の周りの飾り枠を描くよ」
先輩に教えてもらいながら、画用紙でメダル作りを開始した。
先輩は手先が器用で、得意なのは絵だけじゃないんだなあ、とその手元を見て思った。
作業する音と、グラウンドから部活動中の掛け声が聞こえる静かな空間で、隣に座る元町先輩を盗み見る。
盗み見したつもりだったのに、バッチリ目が合ってしまった。慌てて目を逸らす。
先輩は小さく笑ってから言葉を紡いだ。
「不思議だよね。文字でしか知らなかったのに、廊下の向こうから歩いてくるのを見て、豊里さんだってわかった」
「……わたしもです。元町先輩だってわかりました」
「文字でのやり取りだったけど、いろんな話、したもんなあ……。俺ね、別室体育って雨宿りみたいだなって思ってたんだ」
先輩がサインペンで飾り枠に色を塗りながら言った。
「雨宿り、ですか?」
「うん。雨が降ったら誰でも屋根を探して避難するだろ? 俺もそうなんだって思ってる。俺の上には雨が降ってて、ここでちょっと避難してるだけだって」
わたしにはない考え方だった。
普通の体育授業を受けられるみんなを羨ましいと思うことはあっても、自分を不幸だとまでは思わない。
それでも、「いいなあ」と思ってしまうことはあるし、その度に「贅沢だな、わたし」と少し自己嫌悪してしまう。
だから先輩の「雨宿りしてるだけ」という考え方に驚いたし、同時に「素敵だな」と思った。
どんな人にも雨宿りしなきゃならない場面は訪れる。わたしと先輩は、今、そのタイミングなだけ。
「ずっとひとりで雨宿りしてた。けど、豊里さんがすーっと隣にきて、一緒に雨宿りしてくれた。俺はノートの交流をそんなふうに思ってたよ」
あのやり取りの数々を、特別なことと思っていたのはわたしだけじゃない。
そう言ってもらえた気がして、胸の奥がことりと鳴った。
交流ノートだけじゃなく、今この瞬間も、同じくらい特別な時間になってほしい。元町先輩もそう思ってくれたらいいな。
そんなことを考えていた。

