雨宿りみたいな、恋でした。



「いつか会ってみたい」──その「いつか」は思っていたよりもずっと早く訪れた。新しい色付きリップを買う前に。
「豊里、明日からの放課後、少し時間あるか?」
 帰り際、下駄箱で靴を履き替えている時、体育の先生から声をかけられた。
「ありますけど……?」
 用件がわからず、首を少し捻りながら応える。すると先生は「よかった」と言った後、続けた。
「再来週、マラソン大会だろ? 今年は上位二十位までを表彰することになってな。毎年表彰状は用意してるんだが……今回は少し趣向を凝らそうっていう話になってるんだ」
「趣向を、凝らす……」
「具体的にいうと、メダルを用意しようって話になった。勿論本物のメダルじゃないぞ。画用紙で作る手作りのメダルだ」
 なんとなく頭の中で想像してみる。確か小学生のころにも似たようなメダルが、運動会で配られていた。
「それをな、作ってほしいんだよ」
 思いがけない言葉に目を丸くする。
「え、わたしが?」
「他の生徒に頼めないだろ? メダルがあることはまだ内緒だからな。別室体育の生徒しか作れる人がいないんだよ」
 つまり他の生徒たちにはサプライズにしたい、ということらしい。
「一学年で二十位まで表彰するんですか?」
「そうだ。つまりメダルは六十個要る」
 サラリと言われた。手作りのメダルを六十個。気が遠くなりそうな作業だ。
(でも、役割をもらえたのは嬉しいかも)
 マラソン大会は当然参加できないから、少しでも役に立てるなら、と思った。
「わかりました。明日からですね。教室は、別室体育のとこ使っていいんですか?」
「助かる、ありがとうな。そこ使ってくれ。後ろの棚に画用紙とかサインペンも用意しておくから」
 先生が安堵の息を吐いてから、とんでもない続きを口にした。
「元町にも頼んであるからな。明日からよろしく」
 そう言って先生は背を向けて職員室のほうへと歩いていく。
 その背中を呆然と見つめた。
(え……? 今、元町にも頼んであるって言った……?)
 え? え? 聞き間違い? そんなわけない、どうしよう!
(そりゃあ、いつかは会ってみたいって思ってたけど、早すぎるよ……)
 その日は家に帰ってからも、明日の放課後のことばかりを考えてしまった。
 いつもより丁寧に髪を梳かそう、とか、新しいリップ買っておきたかったな、とか。
 いろんなことを考えていたせいでなかなか寝付けなかった。不安と緊張のせいでもある。
 翌朝、わたしを出迎えたのは、目の下の隈だった。
(最悪……、なんでこんな日に……)
 日焼け止めでは誤魔化せそうにない。お母さんに「どうしよう、どうしたらいいの」と泣きついたけれど、「隈? そんなのできてないわよ」とわたしの顔をろくに見もせずに言った。
 どんよりした気持ちに足が引き摺られる。重い足取りで学校に到着すると、既に来ていた舞香がわたしを見るなり、「あれ?」と首を傾げた。
「美雨、どうしたの、寝不足?」
 やっぱりわかるんだ。お母さんの嘘つき。
「舞香……たすけて」
 半泣きになって舞香に抱きつくと、舞香はわたしの背中をポンポンと叩いて、「よしよし、舞香ちゃんに任せなさい」と言った。
 わたしはこれまでのことを少しずつ、舞香に話すことにした。
 別室体育教室に交流ノートがあったこと。そのノートを介して先輩とやり取りするようになったこと。どんな人なのかはまだわからないこと。
 そして今日の放課後、先輩と初めて会うことになった、ということも話した。
 メダル作成は他の生徒には内緒だ。だから、先生の手伝いを頼まれた、と言葉を濁しておいた。
「なるほどねえ」
 舞香はにやにやしながらわたしの頬を指先で突く。
「恋しちゃったんだ?」
「し、してない!」
「誤魔化さなくてもいいじゃん」
「してないもん」
 ぷいっと顔を背けたけれど、舞香はそんなわたしの否定なんか気にも留めてない様子で続けた。
「顔も声も知らない先輩に恋かあ……あたしまでキュンとしちゃう」
「だから、恋じゃないってば……」
「ハイハイ、わかった。そういうことにしといてあげる。美雨、こっち向いて」
 舞香のほうに顔を向ける。舞香はメイクポーチを取り出すと、新品のコスメをひとつ手に取ってパッケージを開けた。
「これ、昨日買ったんだ。無香料って書いてたからさ、美雨も使えるかもって思って」
 それは、リップクリームみたいな形をしたコスメだった。パッケージにはコンシーラーと書いてある。
「どう? あたしは匂い感じないんだけど」
 舞香が蓋を取り、自分で匂いを確認してからわたしの鼻先に持ってきた。
 香りの強いコスメはこの時点でいつもはっきりわかる。だけどこのコスメからは匂いが全くしなかった。
「……全然しない!」
「マジ? よかった。じゃあこれで、隈、消してあげる」
「え、でもそれ新しいのでしょ? わたし、買い取るよ」
「なに水くさいこと言ってんの、ほら、目をちょっと上に向けて」
 言われた通り、睫毛を見るみたいにして上を向く。舞香は滑らかな手付きでコンシーラーをわたしの目の下に塗ってくれた。
「指で馴染ませて」と言われ、鏡で確認しながら慎重に指先で目の下を辿る。
「……すごい」
 思わず呟いた。隈は綺麗に消えて、舞香は満足そうに頷いた。
「舞香、ありがとう、ほんっとにありがとう」
「やっぱり、メイクっていいなあって改めて思った」
 舞香がコスメポーチを片付けながら口にする。
「舞香、専門学校行きたいんだよね? メイク関係の」
「そう。でも父親がさー、そんな遊びに行くような進路は許さない! って。母親は応援してくれるんだけど」
 ぼやく舞香を見て、自分の進路についても考えた。
 やりたいことはある。だけど体力的には厳しいだろう、とわかっていた。だからどんな進路を希望しているのか、まだ誰にも話したことはない。
(無難に大学かな……短大なら、自転車で通える場所にあるけど)
 多分両親は近くの女子短期大学に進学すると思っている。自転車通学できることはわたしにとってメリットだ。電車通学だとどうしても、強い香水や化粧品の匂いがした時に発作が出てしまう可能性がある。
(元町先輩も、こんなふうに諦めなきゃいけないこと、あるんだろうな)
 ぜん息のわたしより心臓病の先輩のほうが、遥かに制限は多いはずだ。
 元町先輩が心臓病だと知ってから、わたしも図書館に行って本を調べた。
 難しい言葉がたくさん書いてあったのでほとんどわからなかったけれど、先輩が説明してくれた「本来四つに分かれている心臓が、三つに分かれている」という言葉を頼りに、『単心房、単心室』という疾患を見つけた。
 心房と心室はどちらも本来二つずつあって、それが一つしかない症状のことらしい。
 自然に治癒することはなく、手術が必要だと書いてあった。元町先輩も二回、大きな手術を受けたと書いてくれていた。
 大変な病気なんだということが改めてわかった。わたしがぜん息であることを打ち明けた時、先輩は「息苦しさって絶望感もすごいからね」と書いてくれたけれど、あれは実体験からくるものだったのだ。
 本によれば、心臓病には不整脈という症状がつきものらしい。脈拍のリズムが不規則に打つことで、胸が痛くなったり、苦しくなって息が吸えないこともある、と本に書いてあった。
(先輩は進路とか考えてるのかな)
 あれだけ絵が上手いんだし、もしかしたら漫画家とかイラストレーターとか、そういうのを目指してたりして。
 先輩ならきっとなれる。そう思う反面、わたしと同じようにどこかで折り合いをつけて諦めているかもしれないな、と思った。