4
小学生の頃、好きな男の子がいた。クラスで一番足が速くて、スポーツ万能の男の子だった。わたしの初恋だ。
梅雨の季節は、ぜん息持ちにはかなり辛い。湿気が喉の炎症を悪化させるからだ。
その日も、朝からずっと雨が降っていた。
外で体育の授業ができなくて、体育館は別の学年が使用していた。仕方なく、図書室で本を読んで感想を書く、という内容に授業が変更になった。
図書室は別棟の校舎の端にある。教室からはかなり距離があるので、みんなバタバタと急ぎ足で移動を始めた。
わたしもみんなの後を追った。早足がやがて小走りになる。これくらいの速さなら大丈夫だろう、と油断していた。
図書室に着くなり、息が苦しくなった。湿気の影響も大きかったと思う。
喉から、ぜん息特有のひゅうひゅうという、隙間風のような呼吸音がして、けほけほと乾いた咳が出る。
苦しくて、酸素を求めて息を吸おうとするのに、炎症のせいで肺に取り込めない。
友達が「美雨ちゃん大丈夫?」「先生呼んでこようか?」と心配してくれるのに、それに対して返事さえできなかった。息苦しくて、上手く話せない。
ひゅうひゅう、ぜいぜいといった、耳障りな呼吸音と咳に、早く治って、と何度も祈った。
その時だ。彼が「ひゅーひゅーしてんの、うるさくね?」と言った。
「最低!」「しんどいんだから仕方ないじゃん!」と友達が口々に抗議してくれたけれど、視界が滲んで胸が痛くなった。
ぜん息の呼吸音は、耳慣れない人からしたらかなり耳障りだと思う。わたしだって自分の呼吸の音に辟易するし、うるさいなあと思うことだってある。
だから、言われても仕方ない。そう思ったのに、悲しい気持ちは消えなかった。
こうして、初恋はあっけなく終わった。
あれ以来、人前で発作を起こすことが、今まで以上に怖くなった。臆病だと自分でも思う。
次の体育の日、いつもなら先生がくる前に真っ先にノートを開くのに、怖くてできなかった。
授業が終わってから、恐る恐るノートに近づき、ふーっと大きく息を吐いてからそっと捲る。
これまでより長いメッセージが、そこにはあった。
『教えてくれてありがとう。ぜん息については何も知らなかったから、少し本で調べました。大変な病気だな、と思ったよ。息苦しさって絶望感もすごいからね』とあって、胸がぎゅうっと締め付けられる。
(調べてくれたんだ……わざわざ、調べてくれたんだ、先輩)
その誠実さがわたしの心の一番深い場所に、すーっと入り込んだ気がした。
『俺は先天性の心臓病です。説明するの難しいんだけど、普通は心臓って四つの部屋に分かれてるんだ。でも俺はそれが生まれつき三つしかないです。大きな手術はこれまでに二回受けました。医学の進歩のおかげで今こうして生きて、ノートで豊里さんとやり取りできてます。ずっと言いそびれてたけど、このノートに書き込んでくれてありがとう。元町』──。
気がついた時には、ノートを胸に引き寄せていた。
(……わたし、先輩に会ってみたい)
理想とか、現実とか、ガッカリされるかもとか、ガッカリされたくないとか、そんなことは全部小さなことのように思えた。
わたしたちには、このノートで交わした言葉がある。
確かに頻度は多くない。文字数だって、こんなに書いてくれたのは今日が初めてだ。
それでも、わたしは先輩がどんな人なのかちゃんと知っている。先輩もわたしがどんな人間なのか、ちゃんと知ってくれている。そんな確信があった。
(……いつか、会えるかな)
同じ校舎の中にいるのだから、きっとどこかで出会う時がくる。
その時までに、色付きリップの新色を探したいな、と思った。
小学生の頃、好きな男の子がいた。クラスで一番足が速くて、スポーツ万能の男の子だった。わたしの初恋だ。
梅雨の季節は、ぜん息持ちにはかなり辛い。湿気が喉の炎症を悪化させるからだ。
その日も、朝からずっと雨が降っていた。
外で体育の授業ができなくて、体育館は別の学年が使用していた。仕方なく、図書室で本を読んで感想を書く、という内容に授業が変更になった。
図書室は別棟の校舎の端にある。教室からはかなり距離があるので、みんなバタバタと急ぎ足で移動を始めた。
わたしもみんなの後を追った。早足がやがて小走りになる。これくらいの速さなら大丈夫だろう、と油断していた。
図書室に着くなり、息が苦しくなった。湿気の影響も大きかったと思う。
喉から、ぜん息特有のひゅうひゅうという、隙間風のような呼吸音がして、けほけほと乾いた咳が出る。
苦しくて、酸素を求めて息を吸おうとするのに、炎症のせいで肺に取り込めない。
友達が「美雨ちゃん大丈夫?」「先生呼んでこようか?」と心配してくれるのに、それに対して返事さえできなかった。息苦しくて、上手く話せない。
ひゅうひゅう、ぜいぜいといった、耳障りな呼吸音と咳に、早く治って、と何度も祈った。
その時だ。彼が「ひゅーひゅーしてんの、うるさくね?」と言った。
「最低!」「しんどいんだから仕方ないじゃん!」と友達が口々に抗議してくれたけれど、視界が滲んで胸が痛くなった。
ぜん息の呼吸音は、耳慣れない人からしたらかなり耳障りだと思う。わたしだって自分の呼吸の音に辟易するし、うるさいなあと思うことだってある。
だから、言われても仕方ない。そう思ったのに、悲しい気持ちは消えなかった。
こうして、初恋はあっけなく終わった。
あれ以来、人前で発作を起こすことが、今まで以上に怖くなった。臆病だと自分でも思う。
次の体育の日、いつもなら先生がくる前に真っ先にノートを開くのに、怖くてできなかった。
授業が終わってから、恐る恐るノートに近づき、ふーっと大きく息を吐いてからそっと捲る。
これまでより長いメッセージが、そこにはあった。
『教えてくれてありがとう。ぜん息については何も知らなかったから、少し本で調べました。大変な病気だな、と思ったよ。息苦しさって絶望感もすごいからね』とあって、胸がぎゅうっと締め付けられる。
(調べてくれたんだ……わざわざ、調べてくれたんだ、先輩)
その誠実さがわたしの心の一番深い場所に、すーっと入り込んだ気がした。
『俺は先天性の心臓病です。説明するの難しいんだけど、普通は心臓って四つの部屋に分かれてるんだ。でも俺はそれが生まれつき三つしかないです。大きな手術はこれまでに二回受けました。医学の進歩のおかげで今こうして生きて、ノートで豊里さんとやり取りできてます。ずっと言いそびれてたけど、このノートに書き込んでくれてありがとう。元町』──。
気がついた時には、ノートを胸に引き寄せていた。
(……わたし、先輩に会ってみたい)
理想とか、現実とか、ガッカリされるかもとか、ガッカリされたくないとか、そんなことは全部小さなことのように思えた。
わたしたちには、このノートで交わした言葉がある。
確かに頻度は多くない。文字数だって、こんなに書いてくれたのは今日が初めてだ。
それでも、わたしは先輩がどんな人なのかちゃんと知っている。先輩もわたしがどんな人間なのか、ちゃんと知ってくれている。そんな確信があった。
(……いつか、会えるかな)
同じ校舎の中にいるのだから、きっとどこかで出会う時がくる。
その時までに、色付きリップの新色を探したいな、と思った。

