雨宿りみたいな、恋でした。



「美雨、最近楽しそうじゃない?」
 昼休み、お弁当を食べている途中で親友の舞香(まいか)に指摘された。思わず箸が止まる。
「別に? いつも通りだけど」
 素知らぬ顔を作ったつもりだったけれど、幼稚園から幼馴染の舞香にはお見通しのようだ。
「あたしに隠し事が通用するとでも?」と、ふふんと鼻を鳴らすように笑った。
「ズバリ、体育の授業でなんかあったでしょ?」
 ぎくり、として食べていた卵焼きを喉に詰まらせそうになる。なんとか飲み込んでから舞香をチラッと見た。
「美雨、体育のときっていつもつまんなさそうに別室移動してたけど、ここのところウキウキだもんね」
「そんなことないよ。全然ない」
 慌てて誤魔化そうとした。舞香はにやにや笑いながら「なによ、いいことでもあったの?」と続ける。
「……ないわけではない、んだけど……今はまだ内緒」
「今はまだってなに」
「今はまだなの。まだ、ちょっと……言えない」
 語尾がどうしても小さくなった。事情があると察してくれたのか、舞香はそれ以上は深く聞いてこなかった。
 代わりに「言えるようになったら言ってよね」と立てた小指を出してくる。わたしはその指に自分の小指を絡めた。
 五時間目の授業は体育だ。いそいそ着替えていると、隣で舞香が訳知り顔でわたしを見つめている。なるべくその視線に気づいていないふうを装った。
 更衣室を出て、東校舎の二階に向かう。目的の教室の前で、薬の入ったミニ巾着から小さな鏡を取り出した。
 前髪を直す。別に体育の授業で元町先輩に会うわけではないのに、ついつい身だしなみをチェックしてしまう。
 鏡をしまってから、教室の扉を開ける。真っ先にノートを手に取った。
 近くに設置してある椅子に腰を下ろし、ドキドキしながらページを捲る。
『豊里さん、字は上手いのに絵は……。冗談です。なかなか可愛い犬だと思います。え? 猫?』──それを読んで顔が熱くなった。
 わたしが描いた猫のイラストの下に、元町先輩からのメッセージが書いてある。お世辞にも上手いとは言えない絵に、ちゃんとコメントをくれたことが嬉しかったけれど、今見返すと「よくこんな下手な絵を描けたな、わたし……」と思って気恥ずかしい。
 元町先輩との交流ノートを介してのやり取りは、三週間目に突入した。
 初回の返事の後、次の体育の時に元町先輩から新しい書き込みがあった。
『豊里「さん」か。俺は元町優希(ゆうき)です。今日は卓球をしました。初めて一勝できたので大満足。豊里さんは何をしましたか? 元町』と書いてあって、わたしは飛び跳ねそうなくらい嬉しかった。
 その日の授業が終わってすぐに、『一勝おめでとうございます。わたしはボーリングをしました。結構難しいです。元町先輩は、別室体育の授業の中だと何が一番好きですか? 豊里』と返事を書いた。
『ダーツかな。ちなみに的の左側の一番でかい穴は、俺が何度もそこに投げてできた穴です。豊里さんは何が好き? 元町』
『わたしは卓球が好きです。でも下手なのでまだ一勝もできていません。卒業までに一勝したいです。豊里』
『一月ももう少しで終わるね。外ではマラソン大会に向けてみんな走ってます。ちょっと羨ましくない? 元町』
『羨ましいです。わたしも走ってみたかったです。でも友達には美雨が羨ましいって言われます。元町先輩も言われますか? 豊里』
『言われるよ。まあ、お互いにないものねだりってヤツだと思ってます。今日、窓の下から猫の鳴き声が聞こえたんだ。どうやら迷い猫が校庭に入ってきてたみたい。元町』
 行数にして二、三行。体育の授業は週に三度。交換日記とも呼べないくらいの頻度で交わす文字のやり取りは、今のわたしにとって一番の楽しみだ。
 元町先輩がどんな顔をしていて、どんな声をしているのかはわからない。それでも丁寧に書かれた文字と、言葉の選び方がわたしの胸をときめかせる。
(舞香にも指摘されちゃったし。……浮かれてるなあ、わたし……)
 パタパタと手で顔を仰ぐ。熱を逃したかったけれど、上手くいかない。
 前回、猫の話を書いてくれた元町先輩は、メッセージの下に猫のイラストも描いてくれた。
 黒一色のボールペンで描かれているのに、写真のように上手だった。
 わたしも返事の下に猫を描いてみたけれど、結果は犬と見間違われる出来だ。
 元町先輩からの書き込みは、更に続いていた。『ところで豊里さんはどうして別室体育を受けてるの? 話したくないことならスルーしてください。元町』とあった。
 その日の授業は手作りボーリングだった。ほとんど上の空で、先輩からのメッセージを思い返す。
(わたしも、聞いてみたかったことだ……)
 元町先輩がどうして別室体育を受けているのか、知りたい気持ちがずっとあった。
 だけど、かなりデリケートな話だとわかっている。だからできるだけ、そのことは考えないようにしていた。
 なのに、先輩から聞いてくれた。それも、『話したくないことならスルーしてください』という気遣いの言葉と共に。
(いい人だな、すごく。……素敵な人なんだろうな、とっても)
 会ってみたい、という気持ちが自然と芽生え始めていた。
 だけど同時に、同じくらい「会わないほうがいい」とも思ってしまう。
 今は顔も声もわからないから、いくらでも頭の中で「わたしに都合のいい元町先輩」を描ける。だけど知ってしまえば、そこにあるのは空想ではなく現実だ。
(それに……ガッカリされたくないし)
 自分がどこにでもいる、普通で平凡な女子高生であることはわかっている。舞香みたいに可愛いメイクだってできない。化粧品の粉で喉を刺激されて、発作が出てしまうことがあるからだ。
 わたしに許されるのは、せいぜい眉を整えて、髪を綺麗に梳かして、それから無香料の日焼け止めと、無香料のリップくらい。
 せめてリップは色付きがよかったから、香りのしない可愛い色のリップを探すのには苦労した。
(……そうだよ、ガッカリしたくないし、ガッカリされたくない)
 文字のやり取りだからこそ、好き勝手に「理想の元町先輩」と「理想の豊里美雨」でいられる。
 授業を終えてから、ノートに書き込んだ。
『わたしはぜん息です。子どもの頃は入院もしましたが、今は少しマシになりました。元町先輩の理由も、聞いてもいいですか? 豊里』……そう書いた。
(ぜん息って書かないほうがよかったかな……)
 だけど嘘を書くわけにはいかない。
 ノートを閉じ、教室を後にした。次の返事が少し怖かった。