雨宿りみたいな、恋でした。

11

 その年の春休みは、予感通り人生一長くて、世界一退屈な春休みだった。
 カレンダーを見ては、「始業式までまだまだある……」とため息を吐く。
 一日ずつバツ印を書き込んで、始業式の日を待った。
 待ちに待ったその日、いつもより丁寧に髪を梳かし、クリーニングから返ってきたばかりの制服に袖を通す。
 先輩と過ごす、最後の一年だ。これまで以上に毎日を大切にして、それから少しでも先輩との距離を縮められたら嬉しい。
 ドキドキとワクワクを制服の内側に隠して、学校に向かう。
 体育館横にホワイトボードが設置されていた。クラス替えの発表はここで行われる。
 先にきていた舞香が、わたしに駆け寄ってきた。
「美雨、また同じクラス! 一組!」
「ほんと? 嬉しい!」
 手を取りながらはしゃぎ、わたしも自分の目で確認するため、ホワイトボードに近づく。
 二年一組のところに、わたしと舞香の名前があった。
(先輩は何組だろう)
 三年生の名簿が貼り出されているホワイトボードに、こっそり目を遣る。
「先輩は何組?」と言う舞香に、「待って、今見てるから」と返す。
 三年一組から順に確認することにした。
 一組には名前はない。
 二組にもない。三組にもなかった。
(じゃあ四組だ)
 上から名前を辿るように見ていく。
「あれ……?」
 思わずそう呟いていた。先輩の名前がない。
「どうしたの?」
「うん……、見落としたみたい」
 愛想笑いを顔に貼り付けて舞香にそう応えると、もう一度、一組から名前を辿った。
 言葉にはできない不安が、足元に忍び寄ってくる。
 拭いきれない影みたいなものが、心の中に広がっていくのを感じた。
 一組、二組、三組、四組……、ない。先輩の名前が見つけられない。あるはずのものが、どこにもない。
 制服の胸の辺りをぎゅっと握った。舞香が不安そうな顔でわたしを見ている。
 その後、舞香も協力して名前を探してくれたけれど見つけられなかった。
(なんでないの……?)
 先輩の名前がない理由が全くわからない。
 始業式が始まってから、三年生の中に先輩の姿を探したけれど、やっぱり探し出すことはできなかった。
 先輩不在のまま、新学期が始まった。
 多分、先生に聞けば先輩のことを教えてもらえたと思う。
 だけど怖くてできなかった。決定的な何かを突きつけられることが怖かった。
 それなのに、足は自然とある場所に向かってしまう。
 放課後、東校舎の二階、一番端の教室のドアをそっと開けた。
 卓球台もダーツの的も、手作りボーリングも、先輩とメダル作りを頑張ったあの日と何も変わっていない。
 先輩だけがそこにいなくて、その理由がわからなくて、気持ちが重く沈んでいく。
 ノートを手に取る。わたしの書き込みが最後の、交流ノート。
 開くのが怖い。このノートには先輩が詰まっている。
 見返したいような、見返すと押し寄せる淋しさに泣いてしまうような、ふたつの気持ちがわたしの中に渦巻いていた。
 ゆっくり、本当にゆっくり、まるで濡れた薄い紙を剥がすように、ページを捲る。
 震える指先は、やがて最後の書き込みのページに到達した。
 息が詰まる。
 呼吸ができなくなる。
 開いたページに残っていたのは、あの右上がりの文字だった。
『豊里美雨さま』と言う、出だしの文字を見ただけでノートを持つ手が小刻みに震える。

『いろいろ心配かけてごめん。ありがとう、と言うべきかな。
 急なことで驚かせると思いますが、学校を辞めることになりました。
 風邪を拗らせたことが原因で、先延ばしにしていた大きな手術を、県外の大学病院で受けることを勧められた。
 長期入院になります。
 一年生の時も三ヶ月、入院していたので、出席日数が足りなくなるのは確実だから……、思い切って治療に専念することにしました。
 いつか、雨宿りの話をしたと思う。
 俺はこの別室体育を雨宿りだと思っていて、豊里さんは将来の夢の話をした時に、人生には雨宿りが必要だと言ったよね。
 俺も、またしばらく雨宿りをしようと思います。
 だけど豊里さんが言うように、雨は必ず止むから。
 手術を受けて、今よりもう少し元気になって、美大を目指そうと思う。
 豊里さんもお芝居の勉強、頑張ってくれたら嬉しい。
 長くなったけど、最後に。
 別室での雨宿りがなかったら、俺は美しい雨には出会えなかったと思ってます。
 ありがとう。
 またいつか、どこかで。
 元町優希』

 瞳に張った薄い膜は、瞬きと同時に破れた。
 ノートにぽたりぽたりと、雨が降る。
 片面いっぱいのスペースを使って、先輩が残してくれたメッセージのその隣のページには、笑顔の女の子が描かれていた。
 わたしの笑顔が、そこにあった。
 先輩。
 先輩、先輩。元町先輩。
 好きでした。好きで好きで、大好きでした。
「またいつか、どこかで」──優しい希望に満ちたこの言葉を信じて、先輩の雨宿りが終わるのを待とう。

 たどたどしい恋でした。
 雨宿りみたいな、恋でした。