ヴェラが持ってきた情報は、正確だった。
「南の市場通りを今日の午後に通るわ。依頼帰りのルートね」
その情報だけで十分だった。地下の梯子を上り、廃屋を抜けて、市場通りへ向かった。天気が良かった。日差しが石畳を温めていて、昼前から人通りが多い。露店の間を人が行き交い、子供が走り回り、荷馬車が重い音を立てて通り過ぎていく。
役割証明書を持たない俺が「存在しない」という事実は、こういう時には都合がいい。誰も俺に注意を払わない。人混みの中に紛れても、誰も気にしない。
角の露店の陰に立って、待った。
南の市場通りは、俺にとって馴染みのある場所だった。依頼の前後によく通った場所だ。この通り沿いの干し肉屋がうまいとリアスに教えてもらったのも、ここだった。依頼の帰りに立ち寄って、二人でかじりながら歩いたことが何度かある。リアスは食べながら歩くのが好きで、俺はそれを「行儀が悪い」と言いながら、結局自分も食べていた。
今日は、それを思い出さないようにしていた。
待ちながら、周りを見た。露店の商人が客に声をかけている。親子連れが通り過ぎる。馬車が重い音を立てて行く。昨日まで俺が見ていた風景と、何も変わっていない。変わったのは、俺がここに「存在しない」人間として立っているということだけだ。
誰も俺を見ない。俺が立っている場所を、人が自然に避けていく。もう慣れた、と思いかけてやめた。慣れてはいけない。そんな気がした。
今日、ここで二人を見ることが、俺に何をもたらすのかは分からなかった。傷つくことは分かっていた。それでもここに来た。なぜ来たのかということを、自分自身に問い詰める気にはなれなかった。ただ、見なければならないという気がしただけだ。
二人が現れたのは、待ち始めてから十分ほど後。
リアスが先に見えた。背が高いから、人混みの中でも分かる。濡れた黄金のような髪が、午後の光の中に浮かびあがる。それを見た瞬間、体の内側でぎゅっと何かが収縮した。三年間、あの髪の色を見るたびに感じてきた、安堵と緊張の混じったような感覚の残滓だ。
その半歩後ろを、灰色の髪の男が歩いている。
俺は、露店の陰から動かなかった。
遠目に見ると、奇妙な感覚があった。自分自身を見ているような、でも自分ではない何かを見ているような。あの顔の造作は、鏡の中の俺だ。あの歩き方も、姿勢も、体の輪郭も。しかし何かが違う。何が違うのかを、俺は言語化しようとした。
分からないまま、二人が近づいてくる。
野菜を並べた露店の前で、リアスが立ち止まった。手に取った野菜を店主に見せて、何か話している。偽物がその横に、俺と同じ位置であるリアスの半歩後ろに立っていた。
その位置が、正確だった。
前に出すぎず、後ろに引きすぎず。右斜め後方の死角をカバーできる、あの位置だ。俺が三年かけて決めた場所に、偽物が当たり前のように立っている。
リアスが、右肩を動かした。
軽く、ごく自然に。ウォーミングアップの一環のような仕草。たいていの人間には、ただ肩を動かしただけに映るだろう。
だが、俺には分かった。
それが合図だ。今日の湿気で古傷が疼いている、という信号だ。右側の距離を少し詰めてくれ、という意味だ。三年間、その信号を受け取り続けてきた。
偽物が動いた。
リアスの側へ、わずかに体を寄せた。
ただ、遅かった。
コンマ何秒か。俺なら、リアスの肩が動き終わる前に、すでに体が反応している。考えるより先に動く。それが三年分の蓄積だ。偽物は確かに動いた。正確に読み取り、リアスの側へ寄った。でも、リアスの肩の動きが完全に終わってから、動いた。
誰にも気づかれない差だ。リアスも気づいていない。
でも分かった。その0.3秒が、偽物と俺の間にある、唯一の、だが、大きな溝だった。均衡律が作ったものは完璧に近い。三年分の俺の行動パターンを、ほぼ完全に再現している。だが「ほぼ」だ。俺の積み上げてきた時間の全ては、複製できない。
その差が何を意味するか、俺には分かった。
三年間の蓄積は、データとして記録できる。行動パターン、反応速度、傾向。全部が数値化できる。でも「なぜそのタイミングで動くか」という理由の部分だ。リアスの右肩の古傷が雨の日に痛むことを俺が知っていて、だから合図の意味が分かって、だから反応する。その連鎖は、記録できない。俺の三年間が俺の中にある限り、偽物はその溝を埋められない。
俺は、その事実を胸の奥に押し込んだ。
これで偽物に勝ったわけではない。リアスには伝わらないし、その差異は俺にしか見えない。でも確かに、そこにある。
露店の店主との話が終わって、リアスが野菜を袋に入れ始めた。偽物がそれを手伝っている。袋の口を持つ角度、渡すタイミング。全部が俺がやってきたことだ。何千回と繰り返してきた動作が、偽物の手で行われている。
視線を逸らしたかった。でも逸らせなかった。
リアスが笑った。偽物が何か言って、リアスが笑った。その笑いは俺が知っている笑いだ。依頼がうまくいった帰り道に出る、少し力が抜けた笑い方だ。今日も依頼があって、今日も帰り道で、リアスは笑っている。何も変わっていない。俺がいなくなっても、リアスの世界は何も変わっていない。
いや、一つだけ変わった。
「また頼むな」という言葉を受け取る人間が、偽物になった。
その言葉を聞いたのはいつのことか、もう鮮明には覚えていない。でも確かにリアスは言った。俺に向かって言った。今日、その言葉は偽物のものだ。
二人が露店を離れてこちらへ近づいてくる。
俺は露店の陰に体を押し込んだ。二十メートル、十五メートル、十メートル。近づくにつれて、表情が見えてくる。リアスの顔は、疲れているが穏やかだ。依頼帰りのいつものリアスだ。偽物の顔は、完璧にイオス・リンドバーグの顔をしている。左の頬の古傷まで。
リアスが立ち止まって、偽物の方を向いた。
「イオス」
声が聞こえた。
「南の市場通りを今日の午後に通るわ。依頼帰りのルートね」
その情報だけで十分だった。地下の梯子を上り、廃屋を抜けて、市場通りへ向かった。天気が良かった。日差しが石畳を温めていて、昼前から人通りが多い。露店の間を人が行き交い、子供が走り回り、荷馬車が重い音を立てて通り過ぎていく。
役割証明書を持たない俺が「存在しない」という事実は、こういう時には都合がいい。誰も俺に注意を払わない。人混みの中に紛れても、誰も気にしない。
角の露店の陰に立って、待った。
南の市場通りは、俺にとって馴染みのある場所だった。依頼の前後によく通った場所だ。この通り沿いの干し肉屋がうまいとリアスに教えてもらったのも、ここだった。依頼の帰りに立ち寄って、二人でかじりながら歩いたことが何度かある。リアスは食べながら歩くのが好きで、俺はそれを「行儀が悪い」と言いながら、結局自分も食べていた。
今日は、それを思い出さないようにしていた。
待ちながら、周りを見た。露店の商人が客に声をかけている。親子連れが通り過ぎる。馬車が重い音を立てて行く。昨日まで俺が見ていた風景と、何も変わっていない。変わったのは、俺がここに「存在しない」人間として立っているということだけだ。
誰も俺を見ない。俺が立っている場所を、人が自然に避けていく。もう慣れた、と思いかけてやめた。慣れてはいけない。そんな気がした。
今日、ここで二人を見ることが、俺に何をもたらすのかは分からなかった。傷つくことは分かっていた。それでもここに来た。なぜ来たのかということを、自分自身に問い詰める気にはなれなかった。ただ、見なければならないという気がしただけだ。
二人が現れたのは、待ち始めてから十分ほど後。
リアスが先に見えた。背が高いから、人混みの中でも分かる。濡れた黄金のような髪が、午後の光の中に浮かびあがる。それを見た瞬間、体の内側でぎゅっと何かが収縮した。三年間、あの髪の色を見るたびに感じてきた、安堵と緊張の混じったような感覚の残滓だ。
その半歩後ろを、灰色の髪の男が歩いている。
俺は、露店の陰から動かなかった。
遠目に見ると、奇妙な感覚があった。自分自身を見ているような、でも自分ではない何かを見ているような。あの顔の造作は、鏡の中の俺だ。あの歩き方も、姿勢も、体の輪郭も。しかし何かが違う。何が違うのかを、俺は言語化しようとした。
分からないまま、二人が近づいてくる。
野菜を並べた露店の前で、リアスが立ち止まった。手に取った野菜を店主に見せて、何か話している。偽物がその横に、俺と同じ位置であるリアスの半歩後ろに立っていた。
その位置が、正確だった。
前に出すぎず、後ろに引きすぎず。右斜め後方の死角をカバーできる、あの位置だ。俺が三年かけて決めた場所に、偽物が当たり前のように立っている。
リアスが、右肩を動かした。
軽く、ごく自然に。ウォーミングアップの一環のような仕草。たいていの人間には、ただ肩を動かしただけに映るだろう。
だが、俺には分かった。
それが合図だ。今日の湿気で古傷が疼いている、という信号だ。右側の距離を少し詰めてくれ、という意味だ。三年間、その信号を受け取り続けてきた。
偽物が動いた。
リアスの側へ、わずかに体を寄せた。
ただ、遅かった。
コンマ何秒か。俺なら、リアスの肩が動き終わる前に、すでに体が反応している。考えるより先に動く。それが三年分の蓄積だ。偽物は確かに動いた。正確に読み取り、リアスの側へ寄った。でも、リアスの肩の動きが完全に終わってから、動いた。
誰にも気づかれない差だ。リアスも気づいていない。
でも分かった。その0.3秒が、偽物と俺の間にある、唯一の、だが、大きな溝だった。均衡律が作ったものは完璧に近い。三年分の俺の行動パターンを、ほぼ完全に再現している。だが「ほぼ」だ。俺の積み上げてきた時間の全ては、複製できない。
その差が何を意味するか、俺には分かった。
三年間の蓄積は、データとして記録できる。行動パターン、反応速度、傾向。全部が数値化できる。でも「なぜそのタイミングで動くか」という理由の部分だ。リアスの右肩の古傷が雨の日に痛むことを俺が知っていて、だから合図の意味が分かって、だから反応する。その連鎖は、記録できない。俺の三年間が俺の中にある限り、偽物はその溝を埋められない。
俺は、その事実を胸の奥に押し込んだ。
これで偽物に勝ったわけではない。リアスには伝わらないし、その差異は俺にしか見えない。でも確かに、そこにある。
露店の店主との話が終わって、リアスが野菜を袋に入れ始めた。偽物がそれを手伝っている。袋の口を持つ角度、渡すタイミング。全部が俺がやってきたことだ。何千回と繰り返してきた動作が、偽物の手で行われている。
視線を逸らしたかった。でも逸らせなかった。
リアスが笑った。偽物が何か言って、リアスが笑った。その笑いは俺が知っている笑いだ。依頼がうまくいった帰り道に出る、少し力が抜けた笑い方だ。今日も依頼があって、今日も帰り道で、リアスは笑っている。何も変わっていない。俺がいなくなっても、リアスの世界は何も変わっていない。
いや、一つだけ変わった。
「また頼むな」という言葉を受け取る人間が、偽物になった。
その言葉を聞いたのはいつのことか、もう鮮明には覚えていない。でも確かにリアスは言った。俺に向かって言った。今日、その言葉は偽物のものだ。
二人が露店を離れてこちらへ近づいてくる。
俺は露店の陰に体を押し込んだ。二十メートル、十五メートル、十メートル。近づくにつれて、表情が見えてくる。リアスの顔は、疲れているが穏やかだ。依頼帰りのいつものリアスだ。偽物の顔は、完璧にイオス・リンドバーグの顔をしている。左の頬の古傷まで。
リアスが立ち止まって、偽物の方を向いた。
「イオス」
声が聞こえた。

