勇者(親友)の隣に立つ偽物の君へ

 俺と目が合った人間が、一人いた。

 中年の男だった。無精ひげで、服はくたびれているが清潔だ。俺が入ってきたことを確認して、ただそれだけ確かめると、また手元の作業に戻った。歓迎でも警戒でもなく、ただ確認しただけだった。新しい人間が来ることは珍しいことではないのだろう。

 俺は、その空間を一回りした。

 奥の方に、水甕があった。柄杓が添えてある。俺が近づいても誰も止めなかった。柄杓で一杯飲んだ。冷たくて、昨日よりずっと味がした。体が水を欲しがっていたからもう一杯飲んだ。

 その時、後ろから声がかかった。

「上から落ちてきたのは昨日?」

 振り返ると、壁際に人が座っていた。

 ランタンの光が、その人物の顔を照らしている。細身で、茶色の髪を後ろで雑に束ねている。年齢は俺と同じくらいか、少し若いかもしれない。よく動く目が、俺をじっと見ていた。値踏みするような目だが、悪意のある目ではない。計算している、そんな目だ。

「……そうだ」

「名前は?」

「それは必要か?」

「いらなければいいわ」

 女は少し肩をすくめた。

「私はヴェラ。このへんで情報屋をやってるの」

 情報屋。

 地下に情報屋がいる、というのは考えたことがなかった。誰に情報を売るのか。でも、よく考えれば分かることだ。地下の人間が上の世界の情報を欲しがる。上の世界の人間が地下の情報を欲しがる。橋渡しができる人間は、どちらの世界でも需要がある。

「何を売ってる?」

「さっき言ったわよ。情報を売ってるの」

 ヴェラは立ち上がって、こちらに近づいてきた。背が低い。俺より頭一つ分は低い。でも、歩き方に隙がない。

「今日来た人の話を聞かせてもらえると助かる。ここの人たちの話を聞かせてもらえると助かる。そういうので生きてる」

「それで飯が食えるのか?」

「まあまあね」

 彼女は首を傾げた。

「でも今日はちょっと違う話をしたい気分。あなたが昨日まで何をしてたか、私にはだいたい分かってるわ。見れば分かるからね」

 俺は何も言わなかった。

「鎧の跡が残ってる。腰の革が剣を吊るしてた形になってる。短剣を持ってる。手の指の皮が剣タコでかたい。でも一番分かりやすいのは目よ」

 ヴェラは俺の目を正面から見た。躊躇がない。

「怒ってる目じゃないもの。まだ何が起きたか整理できてない目よ。落ちてきてすぐの人の目」

 当たっていた。

「均衡律に排除された、元冒険者ってところかしら」

 ヴェラは続けた。

「役職は上の方。でなければあんな目はしないわ。補佐官か、あるいは管理職か」

「……補佐官だった」

「だった、ね」

 ヴェラは少し目を細めた。

 「均衡律補佐官の情報は、高く売れるわ。何を知ってる、誰を知ってる、どんな依頼を受けてきた。それが全部が商品になるの」

「それを俺から買いたいということか」

「そう」

「対価は」

「ここで食べれる。ここで眠れる」

 ヴェラは少し間を置いた。

「それだけじゃなくて、私が知ってる情報をお返しするわ。あなたが必要なものを一つ選べるくらいはね」

 俺は少し考えた。

 相手の言っていることは分かった。俺の持っている情報と、ここで生き延びる手段を交換する。合理的な取引だ。感情に訴えていない。こちらを哀れんでいない。それが受け入れやすかった。

「俺の情報の中には、人物に関するものも含まれる。それを売ることで、その人物に影響が及ぶ可能性がある」

 ヴェラは少し首を傾けた。

「売りたくない情報は売らなくていいわ。私は全部欲しいわけじゃないもの。値段がつくものだけ買う」

「……値段がつくものと、つかないもの、どちらが多い」

「人によるけど」

 ヴェラは少し考えてから答えた。

「均衡律の話、執行院の動き方、役割区域の更新パターン。そういうのは高く売れるかな。個人の戦闘スタイルとか食の好みとかは、買う人が少ないわ」

 リアスの戦闘スタイルは、後者だ。

 それなら、問題は少ない。

「急がなくていいわ。考える時間はあるもの」

 俺は水甕の方をもう一度見た。それから空洞の天井を見上げた。岩盤だ。どれだけの重さの街が、この上に乗っているのか。均衡律が定義した世界が、この岩盤の上で回っている。その外に、俺はいる。

「一つ聞いていいか」

「どうぞ」

「ここにいる人間は、みんな均衡律に排除されたのか」

「みんな、じゃないかな」

ヴェラは少し考えてから言った。

「最初から役割を持てなかった人もいるし、役割を返上した人もいる。排除された人もいる。あと、私みたいに生まれた時から均衡律の外側にいる人もいる」

「生まれた時から?」

「均衡律が役割を付与できない人間が、たまにいるの。なんでかは知らないけどね。私はそのうちの一人よ」

 ヴェラは肩をすくめた。それを重大なことのように言わない口調だった。

「だから上の世界では最初から存在しなかったの。地下の方が長いわね」

 俺は少し間を置いた。

 俺は昨日排除されて、一日で精神的に限界に近いところにいる。ヴェラは生まれた時から均衡律の外にいる。俺が「一日で体験したこと」を、彼女は生まれた瞬間から抱えている。誰も見ない、誰も認識しない、存在しない場所。それを一日体験しただけで俺はこの状態だ。ヴェラは何年、それを生きてきたのか。そのことが、少し俺の中で何かを変えた。

「……記憶力がいいと言っていたな」

「全部覚えてるわ。聞いたこと、見たこと、全部ね」

 ヴェラは淡々と言った。自慢でも説明でもなく事実の報告。

「それが私の商売道具だから」

「それは役に立つな」

「今まで生き延びてこられた理由がそれだからね」

 俺は、少し間を置いた。

「……イオス。俺の名前はイオスだ」

 ヴェラは少し目を細めた。何かを確認しているような顔だ。それからうなずいた。

「覚えたわ。忘れないから安心して」

「……お前は全部覚えると言っていたな」

「そうよ」

「ならその情報は何に使う」

「必要な時に使うわね」

 ヴェラはあっさり言った。

「名前を覚えておくと、後でその人間の動向が分かった時に繋げやすい。それだけのことよ」

 俺は少し間を置いた。

「……まったく合理的だ」

「商売だからね」

「今夜、食料はあるか」

「パンと干し肉なら出せるわね。水は飲んだでしょう」

「助かる」

「助かるって言葉は早いんじゃないかしら」

 ヴェラが指を立てた。

「それは話を聞いてからにしたら?」

 俺は、思わず少し笑った。

 自分が笑ったことに、少し遅れて気づいた。昨日の夕方からここまで、笑えるとは思っていなかった。何かが可笑しかったわけではない。ただ、「話を聞いてからにしたら」という言い方が、全く飾り気がなくて、ここ数時間で最初に聞いた「普通の言葉」に感じられた。哀れみでも、制度でも、命令でもない言葉。

 ヴェラは俺が笑ったことを特に気にした様子はなかった。ただ、ほんの少しだけ、目の計算の色が薄れた気がした。それがどういう意味なのかは分からなかった。

「聞こう」

 ヴェラは少し目を細めた。それから、空洞の奥にある机の一つを指さした。

「こっちに来て。長くなるから」

 歩き出す前に、俺はもう一度空洞を見渡した。

 十数人の人間が、それぞれの場所にいる。誰も均衡律の定義に収まっていない。それでも、ここに食事がある。水がある。ランタンの光がある。夜を明かせる場所がある。

「生き残りたいなら、私の話を聞くことね」

 ヴェラが、もう一度言った。今度は静かに、でもはっきりと。

 俺は、その机に向かって歩き出した。

 排除されてから初めて、自分の意思で踏み出した一歩だった。まだ何も決まっていない。リアスの隣に戻る方法も、均衡律に抗う手段も、何も持っていない。ただ、動いた。それだけのことだった。