朝が来た。
木の根元に背中を預けたまま、俺は目を覚ました。眠った記憶がない。気を失っていたのか、それとも眠りに落ちていたのかの区別がつかないまま、気づいたら空が白んでいた。体の節々が痛い。特に背中と首が。石の上で寝ていた痛みとは違い、内側から来るような疲弊感。口の中が乾いていて、革袋を傾けると、残りが半分もなかった。
昨夜のことは、断片しか覚えていない。
砦の前の街道で、俺は長い時間立っていた。日が完全に落ちて、夜になっても動けなかった。執行院員たちがいつの間にかいなくなっていた。そして、リアスが消えた脇道は、ずっと静かなままだった。
どこかの時点で、俺は歩き出した。砦から離れる方向に。街から離れる方向に。足が向いたのがその方向だったというだけで、特に意図はなかった。気づいたら森の端に立っていて、そのまま中に入り込んでいた。
夜の森で、篝火の光の中を歩く二人を見た。
リアスと、俺の顔をした男が。
その光景が、頭に焼き付いている。リアスが笑っていた。偽物の俺と話しながら、何か冗談でも言われたのか、軽く笑っていた。あの笑い方を、俺は知っている。ははっという、馬鹿にしているのではなく純粋に面白がっている時の笑い方だ。その笑いが俺に向けられることは、おそらくもうない。
そこから先の記憶は、霞の中だ。樫の木の根元で何かを叫んだような気がする。石を蹴ったような気がする。短剣が熱を持った気がする。でも細部は曖昧で、ただ夜が長かったということだけが残っている。
俺は立ち上がった。足がしびれて、上手く立てなかった。腹も空いている。昨日の昼以来、何も食べていないのだから仕方がない。大型種の粉を吸い込んだ喉が、まだかすかに痛む。
問題を整理する。
俺には役割証明書がない。役割証明書のない人間は、この世界では存在しない。宿に泊まれないし、商人から食料を買えない。冒険者ギルドに依頼を受けに行くこともできない。街に戻っても、誰も俺を見ない。
それを、昨日の夕方に体験した。
では、どうするか。
一つ目。森の中で生き延びる。水は沢から取れるし、食料は木の実や動物を狩れば確保できる。ただし、長期的に持続可能かどうかは分からない。魔物も出るのだから、装備なしに長く森にいるのは難しい。
二つ目。均衡律に直接抗議する。執行院に乗り込む。ただし、今の俺には交渉する手段がない。役割証明書がない人間を、執行院が相手にするはずがない。
三つ目。役割証明書なしで生きている人間を探す。
本当は、四つ目を考えようとした。リアスのところへ戻る、という選択肢を。でも、その考えが浮かんだ瞬間に、昨夜砦の前で偽物に無視された記憶が蘇って、考えが止まった。俺は今、リアスのところへ戻れる手段を持っていない。
役割から排除された人間が、俺だけであるはずがない。この世界で均衡律の定義から外れた人間は、どこかで生き延びているはずだ。どこに、どうやって。それを探す。
俺は森を出て、街の外縁部へ歩き始めた。
昼前の街は、いつもと同じように動いていた。馬車が行き交い、商人が声を張り上げ、子供たちが路地を走っている。昨日まで俺もその中にいた。変わったのは、誰も俺を見ないということだ。
最初は気のせいだと思った。こちらを見ない人間は、普段からいる。でも、歩けば歩くほど分かってきた。俺と正面から目が合いそうになった人間が、寸前で視線をずらす。俺が立ち止まっても、周りの人間の流れが自然に俺を避けていく。「いる」のに「いない」扱いをされている。
水差しを持った行商人に声をかけた。完全に無視された。立ち止まりもしない。通り過ぎる人の隣に立ったが、誰も俺を見なかった。見えていないのではなく、均衡律の定義において俺が「存在しない」から、視界に入っても認識されないのだ。役割証明書のない人間を認識することは、均衡律の定義に反する。だから認識しない。
三年間、補佐官として働いてきて、均衡律の仕組みは知識として知っていた。
だが、体験するのは別のことだった。
俺は路地の角で少しの間立ち止まって、通り過ぎる人の流れを見た。みんな、それぞれの行き先があって、それぞれの用事がある。俺も昨日まで、そうだったはずだ。依頼があって、宿があって、リアスがいた。今日から、俺にはそのどれもがない。なのに、足元の石畳はいつもと同じ感触で、空の青さも変わっていない。世界は何も変わっていないのに、俺だけがここから切り取られた、という感覚がある。
腹が鳴った。
みっともない音だった。でも誰も振り向かない。腹の音を立てた人間すら、この場所には存在しないのだから。
街の外れに向かって歩き続けた。「均衡律の外で生きている人間」の痕跡を探すなら、街の中心より外縁部の方が可能性が高い。均衡律の管理が届きにくい場所を探す。廃屋、使われていない建物、人の少ない路地の奥。歩きながら、かつて補佐官として作成した地図を頭の中で広げた。この街の役割区域の境界線の外側、均衡律の更新頻度が低いエリアはどこか。
どこかの子供が、俺を一瞬見た。それだけのことだった。親に腕を引かれて、すぐに視線を外した。均衡律の定義がまだ完全に刷り込まれていない年齢だったのかもしれない。その子供だけが俺を見た。それが、午前中に起きた全てだ。
午後になって、俺は街の南の外れにある廃屋を見つけた。
かつては何かの倉庫だったらしい。屋根が半分崩れていて、扉は蝶番が外れている。誰も使っていない。俺が近づいても、誰も何も言わなかった。存在しない人間が廃屋に入っても、均衡律的には何も起きていないのだ。
中に入ると、土の臭いがした。腐った木材の臭い。でも、もう一つ別の臭いがした。
人の臭いだ。最近、人がいた痕跡。
床の隅に、踏み固められた土がある。誰かが定期的にここを通っている。俺はその痕跡を追った。廃屋の奥の壁際、積み上げられた木材の裏側に、床板が一枚だけ剥がされていた。その下は暗い。梯子がある。
降りた。
最初は単なる地下室だと思った。天井が低く、土壁で薄暗い。でもその奥に、もう一つ扉があった。古い鉄の扉で、錆びているが蝶番は生きていた。押すと鈍い音を立てて開いた。
空気が、変わった。
湿度が少し上がり、それと同時に、火の臭いと食べ物の臭いが混じって鼻に届いた。人が生活している臭いだ。それから、低い話し声が聞こえてきた。
扉の先は、空洞だった。
広かった。街の地下に、こんな空間があるとは思っていなかった。天然の岩盤が天井になっていて、高さは三メートルほどある。地面は土が固められていて、随所にランタンが吊り下げられていた。ランタンの炎がゆらゆらと揺れて、壁に人の影を落としている。
そして、人がいた。
十人か、十五人か。年齢はばらばらで、服装もばらばらだ。奥の方に古い木の机が数脚置かれていて、そこで食事をしている集団がいる。壁際に毛布を敷いて眠っている人間もいる。隅の方で何かを修繕している老人もいた。笑い声がごくたまに聞こえる。無秩序、というわけではなかった。それぞれがそれぞれのことをしている、ひとつの場所という空気があった。
上の世界とは違うが、ここにも秩序がある。役割証明書のない秩序だ。均衡律が定義した秩序ではなく、人間が自分たちで作った秩序。俺はそれを、この空間の隅々から感じ取っていた。水甕が誰かに管理されていること。ランタンが定期的に補充されていること。入り口からここまでの道が掃き清められていること。誰かがそれをしている。役割としてではなく、きっと必要だからしていることだ。
木の根元に背中を預けたまま、俺は目を覚ました。眠った記憶がない。気を失っていたのか、それとも眠りに落ちていたのかの区別がつかないまま、気づいたら空が白んでいた。体の節々が痛い。特に背中と首が。石の上で寝ていた痛みとは違い、内側から来るような疲弊感。口の中が乾いていて、革袋を傾けると、残りが半分もなかった。
昨夜のことは、断片しか覚えていない。
砦の前の街道で、俺は長い時間立っていた。日が完全に落ちて、夜になっても動けなかった。執行院員たちがいつの間にかいなくなっていた。そして、リアスが消えた脇道は、ずっと静かなままだった。
どこかの時点で、俺は歩き出した。砦から離れる方向に。街から離れる方向に。足が向いたのがその方向だったというだけで、特に意図はなかった。気づいたら森の端に立っていて、そのまま中に入り込んでいた。
夜の森で、篝火の光の中を歩く二人を見た。
リアスと、俺の顔をした男が。
その光景が、頭に焼き付いている。リアスが笑っていた。偽物の俺と話しながら、何か冗談でも言われたのか、軽く笑っていた。あの笑い方を、俺は知っている。ははっという、馬鹿にしているのではなく純粋に面白がっている時の笑い方だ。その笑いが俺に向けられることは、おそらくもうない。
そこから先の記憶は、霞の中だ。樫の木の根元で何かを叫んだような気がする。石を蹴ったような気がする。短剣が熱を持った気がする。でも細部は曖昧で、ただ夜が長かったということだけが残っている。
俺は立ち上がった。足がしびれて、上手く立てなかった。腹も空いている。昨日の昼以来、何も食べていないのだから仕方がない。大型種の粉を吸い込んだ喉が、まだかすかに痛む。
問題を整理する。
俺には役割証明書がない。役割証明書のない人間は、この世界では存在しない。宿に泊まれないし、商人から食料を買えない。冒険者ギルドに依頼を受けに行くこともできない。街に戻っても、誰も俺を見ない。
それを、昨日の夕方に体験した。
では、どうするか。
一つ目。森の中で生き延びる。水は沢から取れるし、食料は木の実や動物を狩れば確保できる。ただし、長期的に持続可能かどうかは分からない。魔物も出るのだから、装備なしに長く森にいるのは難しい。
二つ目。均衡律に直接抗議する。執行院に乗り込む。ただし、今の俺には交渉する手段がない。役割証明書がない人間を、執行院が相手にするはずがない。
三つ目。役割証明書なしで生きている人間を探す。
本当は、四つ目を考えようとした。リアスのところへ戻る、という選択肢を。でも、その考えが浮かんだ瞬間に、昨夜砦の前で偽物に無視された記憶が蘇って、考えが止まった。俺は今、リアスのところへ戻れる手段を持っていない。
役割から排除された人間が、俺だけであるはずがない。この世界で均衡律の定義から外れた人間は、どこかで生き延びているはずだ。どこに、どうやって。それを探す。
俺は森を出て、街の外縁部へ歩き始めた。
昼前の街は、いつもと同じように動いていた。馬車が行き交い、商人が声を張り上げ、子供たちが路地を走っている。昨日まで俺もその中にいた。変わったのは、誰も俺を見ないということだ。
最初は気のせいだと思った。こちらを見ない人間は、普段からいる。でも、歩けば歩くほど分かってきた。俺と正面から目が合いそうになった人間が、寸前で視線をずらす。俺が立ち止まっても、周りの人間の流れが自然に俺を避けていく。「いる」のに「いない」扱いをされている。
水差しを持った行商人に声をかけた。完全に無視された。立ち止まりもしない。通り過ぎる人の隣に立ったが、誰も俺を見なかった。見えていないのではなく、均衡律の定義において俺が「存在しない」から、視界に入っても認識されないのだ。役割証明書のない人間を認識することは、均衡律の定義に反する。だから認識しない。
三年間、補佐官として働いてきて、均衡律の仕組みは知識として知っていた。
だが、体験するのは別のことだった。
俺は路地の角で少しの間立ち止まって、通り過ぎる人の流れを見た。みんな、それぞれの行き先があって、それぞれの用事がある。俺も昨日まで、そうだったはずだ。依頼があって、宿があって、リアスがいた。今日から、俺にはそのどれもがない。なのに、足元の石畳はいつもと同じ感触で、空の青さも変わっていない。世界は何も変わっていないのに、俺だけがここから切り取られた、という感覚がある。
腹が鳴った。
みっともない音だった。でも誰も振り向かない。腹の音を立てた人間すら、この場所には存在しないのだから。
街の外れに向かって歩き続けた。「均衡律の外で生きている人間」の痕跡を探すなら、街の中心より外縁部の方が可能性が高い。均衡律の管理が届きにくい場所を探す。廃屋、使われていない建物、人の少ない路地の奥。歩きながら、かつて補佐官として作成した地図を頭の中で広げた。この街の役割区域の境界線の外側、均衡律の更新頻度が低いエリアはどこか。
どこかの子供が、俺を一瞬見た。それだけのことだった。親に腕を引かれて、すぐに視線を外した。均衡律の定義がまだ完全に刷り込まれていない年齢だったのかもしれない。その子供だけが俺を見た。それが、午前中に起きた全てだ。
午後になって、俺は街の南の外れにある廃屋を見つけた。
かつては何かの倉庫だったらしい。屋根が半分崩れていて、扉は蝶番が外れている。誰も使っていない。俺が近づいても、誰も何も言わなかった。存在しない人間が廃屋に入っても、均衡律的には何も起きていないのだ。
中に入ると、土の臭いがした。腐った木材の臭い。でも、もう一つ別の臭いがした。
人の臭いだ。最近、人がいた痕跡。
床の隅に、踏み固められた土がある。誰かが定期的にここを通っている。俺はその痕跡を追った。廃屋の奥の壁際、積み上げられた木材の裏側に、床板が一枚だけ剥がされていた。その下は暗い。梯子がある。
降りた。
最初は単なる地下室だと思った。天井が低く、土壁で薄暗い。でもその奥に、もう一つ扉があった。古い鉄の扉で、錆びているが蝶番は生きていた。押すと鈍い音を立てて開いた。
空気が、変わった。
湿度が少し上がり、それと同時に、火の臭いと食べ物の臭いが混じって鼻に届いた。人が生活している臭いだ。それから、低い話し声が聞こえてきた。
扉の先は、空洞だった。
広かった。街の地下に、こんな空間があるとは思っていなかった。天然の岩盤が天井になっていて、高さは三メートルほどある。地面は土が固められていて、随所にランタンが吊り下げられていた。ランタンの炎がゆらゆらと揺れて、壁に人の影を落としている。
そして、人がいた。
十人か、十五人か。年齢はばらばらで、服装もばらばらだ。奥の方に古い木の机が数脚置かれていて、そこで食事をしている集団がいる。壁際に毛布を敷いて眠っている人間もいる。隅の方で何かを修繕している老人もいた。笑い声がごくたまに聞こえる。無秩序、というわけではなかった。それぞれがそれぞれのことをしている、ひとつの場所という空気があった。
上の世界とは違うが、ここにも秩序がある。役割証明書のない秩序だ。均衡律が定義した秩序ではなく、人間が自分たちで作った秩序。俺はそれを、この空間の隅々から感じ取っていた。水甕が誰かに管理されていること。ランタンが定期的に補充されていること。入り口からここまでの道が掃き清められていること。誰かがそれをしている。役割としてではなく、きっと必要だからしていることだ。

