砦の輪郭が、前方に迫ってきた。石造りの壁と、正門の篝火のかすかな光。もうすぐだ。今日も終わる。宿に戻って、地図を書いて、リアスが眠るのを聞いてから俺も眠る。明日も同じように始まる。
そう思っていた時だった。
砦への街道の合流点に、二人の人間が立っていた。
役割執行院の制服だ。灰色の外套に、胸元の役割紋章。片方は若く、もう片方は中年の男だった。俺たちに気づくと、中年の方が一歩前に出た。表情は穏やかで、声も低く、威圧をしている、といったようではなかった。ただ、仕事をしている人間の顔だった。
「均衡律勇者、リアス・オルブライト。均衡律より指定呼び出しを発します」
リアスの足が止まった。俺の足も止まった。
指定呼び出し。役割執行院が直接発する、最優先の召喚命令だ。役割保持者は従う義務がある。拒否した場合の代償については、俺は詳しくは知らないが、軽いものではないと聞いている。それよりも、俺の頭が反応したのは別のことだった。
この数日で感じていた違和感が、ここに繋がった。
役割執行院の人間が増えていた。街道の巡回が増えていた。先日書き込んだ役割区域の境界線のズレ。全部がここで、一本の線になった。彼らはすでに動いていた。俺たちが依頼をしている間も、ずっと。なぜ、という問いが頭の中に浮かんだ。答えが出る前に、執行院員が口を開いた。
「……何の件で」
リアスの声は落ち着いていたが、わずかに硬かった。
「詳細は伝えられません。ご同行願います」
中年の男が視線を動かした。俺の方を見た。
「均衡律補佐官、イオス・リンドバーグ。貴殿には、ここでお待ちいただく必要があります。勇者への呼び出しは単独によるものです」
俺は何も言わなかった。
言える言葉がなかった。何かを言えば状況が変わるかもしれないと思ったが、それは思い違いだと分かっていた。均衡律の指定呼び出しに、俺一人が抗えるものではない。「把握した」と言い続けてきた三年間が、ここでは何の役にも立たない。
リアスが振り返った。
いつもの顔だった。少し困ったような、でも深刻ではない、リアスの顔だ。このまま待ってれば、すぐ解決するだろうという、リアスらしい楽観が滲んでいた。
「すぐ戻るから、待っててくれ」
「ああ」
リアスが歩き出す。二人の執行院員がその両脇に並ぶ。砦の方ではなく、街道を外れた脇道の方へ向かっていく。俺には、ついて行けない。
リアスは一度だけ振り返り、手を軽く上げた。それだけだった。
その手を、俺は見ていた。いつも鎧の留め具を直す時に握った、あの手だ。昨日も一昨日も触れていた、慣れた手の形だ。俺はその手に向かって何も言えなかった。均衡律の指定呼び出しに抗うことは、俺にはできない。リアスに逆らわせることも、俺にはできない。「すぐ戻る」という言葉を信じていた。信じたかった。
リアスの背中が、脇道の奥に消えた。
それが、俺が見た最後の「リアスの背中」だったと、後で知ることになる。
五分が経った。
街道を、別の冒険者たちが通り過ぎていく。俺の傍に立っている執行院員の若い方が、視線を俺に向けている。何かを警戒しているというより、職務上そうしているだけの目だ。見張られているのか、護衛されているのか、区別がつかない。立っているのか待っているのか、自分でも区別がつかなかった。
十分が経った。
砦の方向から、交代の鐘が聞こえた。夕方の鐘だ。俺たちが帰ってきた時にはまだ昼過ぎだったのに、もうそんな時間になっている。リアスが消えた脇道の方向は、静かなままだ。人が行き来する様子もない。「すぐ戻る」と言った。まだ、その言葉を信じていた。
二十分が経った。
街道を歩く人の数が増えた。夕方の帰宅の人波だ。誰も俺を見ない。役割証明書がない人間は、透明だ。ここに立っていても、道端の石積みと同じ扱いを受ける。俺はその石積みを思い出した。砦まで二十分の目安だった、あの石積み。今頃リアスは——という考えが頭をかすめて、すぐに打ち消した。考えても仕方ない。でも打ち消しても、また浮かんでくる。
「……リアスは、いつ戻る」
「それは分かりません」
執行院員の中年の男が、抑揚のない声で答えた。
三十分が経った頃、別の執行院員が来た。
さっきの二人とは違う。肩に金の紋章がついている。上位の役職だ。
俺の名前を呼んだ。
「均衡律補佐官、イオス・リンドバーグ。均衡律により役割の見直しが発令されました。暫定措置として、貴殿の役割証明書を一時預かりします」
俺は、それが何を意味するか、すぐに分かった。
分かった上で、分からないふりをしようとした。「暫定措置」という言葉を拾い上げて、「一時的なことだ」と解釈しようとした。でも頭の中の別の部分が「そうではない」と言っていた。役割証明書の「一時預かり」は、帰ってこない。三年、この仕事をしてきて、一時預かりで戻ってきたという話を俺は聞いたことがない。
でも手は動いた。外套の内ポケットから、革表紙の証明書を取り出した。執行院員が受け取る。表情は変わらない。
「この後の手続きについては、追って連絡します」
それだけ言って、立ち去った。
残されたのは、俺だけだった。
いや、正確には俺と、最初から立っていた二人の執行院員もだ。でも、彼らは話しかけてこない。俺が動こうとするわけでもない。街道の脇に立って、リアスが消えた方向を見ている。脇道は細く、どこへ続いているかは分からない。
「また」という言葉の中に入っていたはずの未来が、音もなく消えていた。次も、来月も、来年も、ずっと。そう思っていたその連続が、今、この場所で切れた。切れた音は聞こえなかったが、篝火の音は聞こえる。鐘の音は聞こえる。街道を歩く人の足音も聞こえる。でも、切れた音だけは、聞こえなかった。
俺は、革袋の水を飲んだ。
喉が乾いていた。大型種の粉のせいか、それとも別の理由か、分からなかった。水は、味がしなかった。
地図を持っている。今日の依頼ルートをまだ書き込んでいない。宿に戻って書こうと思っていた。でも今の俺には、役割証明書がない。宿に泊まれない。食料を買えない。この街道の上で、俺はただ立っているだけだ。
均衡律の定義から外れた人間は、存在しない。
さっきまで「俺の動きを俺より分かってる人間は、多分お前だけだ」と言われた俺が、今は存在しない。
夕方の光が、石畳の上で橙に変わっていく。俺の影が長く伸びる。あと少しで、影も暗闇に溶けて見えなくなるだろう。
俺は地図を取り出した。
今日の依頼ルートを書き込もうとして、止まった。書けなかった。この地図は、次の依頼に使うためのものだ。次の依頼が来ることを前提に、俺は毎日書き込んでいた。でも今、俺に次の依頼があるかどうかは分からない。役割証明書がなければ、依頼を受けることができない。
地図を、外套の内側に戻した。
リアスが消えた脇道を、また見た。
静かだ。誰も来ない。
「すぐ戻る」と言った。リアスはそういう言い方をする時、本当にすぐ戻るつもりでいる。嘘をつく顔ではなかった。でも、戻ってこない。日が落ちようとしている。
俺は、執行院員の方を向いた。
「……リアスに何があったのか、聞いてもいいか」
中年の男は「分かりません」と言った。さっきと同じだった。
聞いても無駄だということは分かっていた。それでも聞いた。なぜ聞いたのかは、自分でも分からない。
空が、濃い橙から紫に変わっていく。もうすぐ夜になる。夜になれば、俺は宿に泊まれない。食べるものも買えない。どうしようもない。でも、動けなかった。リアスが消えた方向から目が離せなかった。
帰り道、リアスが「楽しいか」と聞いてきた。俺は「分からない」と答えた。今から思えば、もう少し違う答えがあったかもしれない。「楽しいかどうかより、リアスの隣にいられるかどうかで動いている」という答えが。言葉にはできなかった。これからも多分、できないだろうが。
空を、見上げた。
夕方の紫が、じわじわと広がっている。最初の星が、一つだけ見えた。今日も終わろうとしている。ただし、俺が思い描いていた終わり方ではない。リアスが眠って、俺が地図を書いて、それから俺も眠る。そういう終わり方ではない。
まだ、今日の日が終わっていない。なのに、「また」の未来は、もうここにはない。
***
ここで、俺の記憶は途切れる。
正確には、途切れるのではない。この後も俺は動いた、何かを考えた、どこかへ向かった。でも何を考えたのか、どこへ行ったのか、思い出そうとしても何も分からない。均衡律に消されたのか、俺自身が消したのかは、今でも分からない。
次に俺が覚えているのは、泥の味だ。
這いつくばった地面の、腐葉土の匂いと、夜露の冷気と、指先のかじかみと。そして目の前に篝火の光があって、その中を二人が歩いていて。俺の顔をした男が、リアスの隣にいた。
そう思っていた時だった。
砦への街道の合流点に、二人の人間が立っていた。
役割執行院の制服だ。灰色の外套に、胸元の役割紋章。片方は若く、もう片方は中年の男だった。俺たちに気づくと、中年の方が一歩前に出た。表情は穏やかで、声も低く、威圧をしている、といったようではなかった。ただ、仕事をしている人間の顔だった。
「均衡律勇者、リアス・オルブライト。均衡律より指定呼び出しを発します」
リアスの足が止まった。俺の足も止まった。
指定呼び出し。役割執行院が直接発する、最優先の召喚命令だ。役割保持者は従う義務がある。拒否した場合の代償については、俺は詳しくは知らないが、軽いものではないと聞いている。それよりも、俺の頭が反応したのは別のことだった。
この数日で感じていた違和感が、ここに繋がった。
役割執行院の人間が増えていた。街道の巡回が増えていた。先日書き込んだ役割区域の境界線のズレ。全部がここで、一本の線になった。彼らはすでに動いていた。俺たちが依頼をしている間も、ずっと。なぜ、という問いが頭の中に浮かんだ。答えが出る前に、執行院員が口を開いた。
「……何の件で」
リアスの声は落ち着いていたが、わずかに硬かった。
「詳細は伝えられません。ご同行願います」
中年の男が視線を動かした。俺の方を見た。
「均衡律補佐官、イオス・リンドバーグ。貴殿には、ここでお待ちいただく必要があります。勇者への呼び出しは単独によるものです」
俺は何も言わなかった。
言える言葉がなかった。何かを言えば状況が変わるかもしれないと思ったが、それは思い違いだと分かっていた。均衡律の指定呼び出しに、俺一人が抗えるものではない。「把握した」と言い続けてきた三年間が、ここでは何の役にも立たない。
リアスが振り返った。
いつもの顔だった。少し困ったような、でも深刻ではない、リアスの顔だ。このまま待ってれば、すぐ解決するだろうという、リアスらしい楽観が滲んでいた。
「すぐ戻るから、待っててくれ」
「ああ」
リアスが歩き出す。二人の執行院員がその両脇に並ぶ。砦の方ではなく、街道を外れた脇道の方へ向かっていく。俺には、ついて行けない。
リアスは一度だけ振り返り、手を軽く上げた。それだけだった。
その手を、俺は見ていた。いつも鎧の留め具を直す時に握った、あの手だ。昨日も一昨日も触れていた、慣れた手の形だ。俺はその手に向かって何も言えなかった。均衡律の指定呼び出しに抗うことは、俺にはできない。リアスに逆らわせることも、俺にはできない。「すぐ戻る」という言葉を信じていた。信じたかった。
リアスの背中が、脇道の奥に消えた。
それが、俺が見た最後の「リアスの背中」だったと、後で知ることになる。
五分が経った。
街道を、別の冒険者たちが通り過ぎていく。俺の傍に立っている執行院員の若い方が、視線を俺に向けている。何かを警戒しているというより、職務上そうしているだけの目だ。見張られているのか、護衛されているのか、区別がつかない。立っているのか待っているのか、自分でも区別がつかなかった。
十分が経った。
砦の方向から、交代の鐘が聞こえた。夕方の鐘だ。俺たちが帰ってきた時にはまだ昼過ぎだったのに、もうそんな時間になっている。リアスが消えた脇道の方向は、静かなままだ。人が行き来する様子もない。「すぐ戻る」と言った。まだ、その言葉を信じていた。
二十分が経った。
街道を歩く人の数が増えた。夕方の帰宅の人波だ。誰も俺を見ない。役割証明書がない人間は、透明だ。ここに立っていても、道端の石積みと同じ扱いを受ける。俺はその石積みを思い出した。砦まで二十分の目安だった、あの石積み。今頃リアスは——という考えが頭をかすめて、すぐに打ち消した。考えても仕方ない。でも打ち消しても、また浮かんでくる。
「……リアスは、いつ戻る」
「それは分かりません」
執行院員の中年の男が、抑揚のない声で答えた。
三十分が経った頃、別の執行院員が来た。
さっきの二人とは違う。肩に金の紋章がついている。上位の役職だ。
俺の名前を呼んだ。
「均衡律補佐官、イオス・リンドバーグ。均衡律により役割の見直しが発令されました。暫定措置として、貴殿の役割証明書を一時預かりします」
俺は、それが何を意味するか、すぐに分かった。
分かった上で、分からないふりをしようとした。「暫定措置」という言葉を拾い上げて、「一時的なことだ」と解釈しようとした。でも頭の中の別の部分が「そうではない」と言っていた。役割証明書の「一時預かり」は、帰ってこない。三年、この仕事をしてきて、一時預かりで戻ってきたという話を俺は聞いたことがない。
でも手は動いた。外套の内ポケットから、革表紙の証明書を取り出した。執行院員が受け取る。表情は変わらない。
「この後の手続きについては、追って連絡します」
それだけ言って、立ち去った。
残されたのは、俺だけだった。
いや、正確には俺と、最初から立っていた二人の執行院員もだ。でも、彼らは話しかけてこない。俺が動こうとするわけでもない。街道の脇に立って、リアスが消えた方向を見ている。脇道は細く、どこへ続いているかは分からない。
「また」という言葉の中に入っていたはずの未来が、音もなく消えていた。次も、来月も、来年も、ずっと。そう思っていたその連続が、今、この場所で切れた。切れた音は聞こえなかったが、篝火の音は聞こえる。鐘の音は聞こえる。街道を歩く人の足音も聞こえる。でも、切れた音だけは、聞こえなかった。
俺は、革袋の水を飲んだ。
喉が乾いていた。大型種の粉のせいか、それとも別の理由か、分からなかった。水は、味がしなかった。
地図を持っている。今日の依頼ルートをまだ書き込んでいない。宿に戻って書こうと思っていた。でも今の俺には、役割証明書がない。宿に泊まれない。食料を買えない。この街道の上で、俺はただ立っているだけだ。
均衡律の定義から外れた人間は、存在しない。
さっきまで「俺の動きを俺より分かってる人間は、多分お前だけだ」と言われた俺が、今は存在しない。
夕方の光が、石畳の上で橙に変わっていく。俺の影が長く伸びる。あと少しで、影も暗闇に溶けて見えなくなるだろう。
俺は地図を取り出した。
今日の依頼ルートを書き込もうとして、止まった。書けなかった。この地図は、次の依頼に使うためのものだ。次の依頼が来ることを前提に、俺は毎日書き込んでいた。でも今、俺に次の依頼があるかどうかは分からない。役割証明書がなければ、依頼を受けることができない。
地図を、外套の内側に戻した。
リアスが消えた脇道を、また見た。
静かだ。誰も来ない。
「すぐ戻る」と言った。リアスはそういう言い方をする時、本当にすぐ戻るつもりでいる。嘘をつく顔ではなかった。でも、戻ってこない。日が落ちようとしている。
俺は、執行院員の方を向いた。
「……リアスに何があったのか、聞いてもいいか」
中年の男は「分かりません」と言った。さっきと同じだった。
聞いても無駄だということは分かっていた。それでも聞いた。なぜ聞いたのかは、自分でも分からない。
空が、濃い橙から紫に変わっていく。もうすぐ夜になる。夜になれば、俺は宿に泊まれない。食べるものも買えない。どうしようもない。でも、動けなかった。リアスが消えた方向から目が離せなかった。
帰り道、リアスが「楽しいか」と聞いてきた。俺は「分からない」と答えた。今から思えば、もう少し違う答えがあったかもしれない。「楽しいかどうかより、リアスの隣にいられるかどうかで動いている」という答えが。言葉にはできなかった。これからも多分、できないだろうが。
空を、見上げた。
夕方の紫が、じわじわと広がっている。最初の星が、一つだけ見えた。今日も終わろうとしている。ただし、俺が思い描いていた終わり方ではない。リアスが眠って、俺が地図を書いて、それから俺も眠る。そういう終わり方ではない。
まだ、今日の日が終わっていない。なのに、「また」の未来は、もうここにはない。
***
ここで、俺の記憶は途切れる。
正確には、途切れるのではない。この後も俺は動いた、何かを考えた、どこかへ向かった。でも何を考えたのか、どこへ行ったのか、思い出そうとしても何も分からない。均衡律に消されたのか、俺自身が消したのかは、今でも分からない。
次に俺が覚えているのは、泥の味だ。
這いつくばった地面の、腐葉土の匂いと、夜露の冷気と、指先のかじかみと。そして目の前に篝火の光があって、その中を二人が歩いていて。俺の顔をした男が、リアスの隣にいた。

