三日後、また依頼があった。
正確には、休みを一日挟んで、その翌日だ。規模は中程度、砦から半日かかる森の奥に大型の魔物が出たという話で、俺たちにはよくある種類の仕事だった。朝、いつものように二人で出て、いつものように動いて、いつものように依頼をこなした。
ただ、今日は少し手こずった。
大型種だった。俺たちが普段相手にする中型の群れとは違い、単体で強く、動きも読みにくい。リアスが剣を振り抜いた後に崩れたのだが、その崩れ方が問題だった。体が四散するように砕けながら、内部から大量の粉を噴き出した。黄白色の、刺激臭のある粉だ。俺は距離を取っていたが、リアスはちょうど剣を引いた直後で、もろに吸い込んだ。
「っ、なんだこれ」
リアスが咳込みながら後退した。目が赤くなっている。
「防ぐ必要はない。毒性はない。ただ粘膜に刺さる」
「刺さるって、お前……」
「数時間で消えるから水で洗え」
予備の水袋を放った。リアスが受け取って、口と目を洗う。その間、俺は周囲の残党を処理した。粉の残滓が風に乗って漂っている。鼻の奥が痛い。
依頼自体は問題なく終わった。
帰り道は、砦への街道を二人で歩いた。午後の光が石畳に落ちて、俺たちの影を長く伸ばしている。リアスはまだ少し目が潤んでいたが、機嫌は悪くなかった。むしろいつもより饒舌だった。
「あの粉、やっぱ喉にへばりつくな」
「水を飲み続けろ。乾燥すると悪化するぞ」
「はいはい」
リアスは革袋を傾けながら、歩調を緩めた。俺もそれに合わせる。急ぐ必要はなかった。砦まで、あと三十分ほどだ。
「なあ、今日の大型種さ、腕を振り上げた時、お前が右に動いてくれたよな」
俺は少し間を置いてから、「そうだ」と答えた。
「合図、してないのに動いたろ」
「してなかったな。でも分かった」
「なんで分かったんだ?」
答えるのに、少しだけ考えた。分かる、という感覚を言語化するのは、いつも少し難しい。
「大型種が腕を振り上げる前に、重心が右に移動しただろ。お前は左足に体重が乗り始めていた。踏み込む方向が決まっていた。だから右は俺が塞ぐ必要があったってことだ」
「……お前、俺が左足に体重乗せてたの分かったのか」
「三年分の蓄積だな」
リアスはしばらく黙った。俺も黙った。街道の端で、草が風に揺れている。
「なんか、すごいな」
感嘆でも称賛でもなく、純粋に不思議がっているような声だった。
「何がだ?」
「俺が俺自身の動きを気づいてないのに、お前が知ってる。そういうことって、あんまりない。俺の動きを俺より分かってる人間って、多分お前だけだ」
俺は答えなかった。
答えるべき言葉があったかもしれない。でも何も言えなかった。「俺だけだ」という一言が、思いの外、胸の奥に落ちて沈んでいったからだ。静かに、でも確かに。
リアスはそれ以上追わなかった。俺たちはまた、黙って歩いた。
街道の脇に、小さな石積みがあった。古い道標だ。いつ誰が積んだのか分からないが、俺たちがこの道を使うたびに目に入る。なんとなく、通り過ぎるたびに確認するようになっていた。ここまで来ると砦まで二十分、という目安だ。リアスは気づいていないだろうが、俺は毎回数えている。
「そういえば、今日の依頼、俺が無茶した場面あったろ。最初の突っ込みが少し早かったんだ」
「分かってた」
「お前、分かってたのに止めなかったのか」
「止めても聞かないだろ。だから右側を塞いだんだよ」
リアスは笑った。ははっ、という軽い笑い方ではなく、もう少し丁寧な笑い方だ。
「そういうとこだよな、お前」
「何が?」
「何も言わないけど、ちゃんと先回りしてる。俺が失敗しないように、気づかれないように、全部先にやってある。気づいたら全部整ってる」
石積みを通り過ぎた。砦まであと二十分だ。
「それが、俺の仕事だ」
「仕事って言うなよ。三度目だぞ」
「もう分かるだろ。そういうことだ」
またしばらく黙った。
良い沈黙だった。埋める必要のない沈黙。歩くたびに革袋が揺れる音と、石畳の上の二人分の足音と、遠くで鳥の鳴く声と、それだけがある。
この種の静かさを、俺は昔は苦手としていた。間が持てなかった。何かしゃべらなければと思っていた。いつ頃から変わったのかは分からない。気づいたら、リアスと黙っている時間が苦ではなくなっていた。この沈黙の中に何かがある、と思うようになっていた。
リアスも同じなのかは知らない。でも俺が何も言わなくても、リアスは歩き続ける。それで十分だった。
街道の先に、小さな農家の家が見えた。この道を通るたびに目に入る家だ。庭先に洗濯物が干してある。今日も誰かの日常がある。この世界のどこかに、俺たちとは関係のない、別の誰かの朝と夜の繰り返しがある。そのことを、俺はなぜか今日、初めてはっきりと感じた。
「お前ってさ」
リアスが言った。歩きながら、少し考えている風だった。
「なんだ?」
「冒険者になって何年になる?」
「三年と少し。お前も同じだろ?」
「そうだよな。同期だもんな」
リアスは少し空を見上げた。
「三年、早かったな」
「そうか?」
「そうだよ。最初の依頼の時、なんか俺すごい緊張してて、お前は全然緊張してなさそうで、なんか腹立ってた気がする」
「緊張はしていた。ただ、顔に出さない方が合理的だった」
「合理的……か」
リアスが繰り返して、また笑った。
「お前らしい理由だな。でも、最初からそういうやつだったよ。冷静で、先を読んで、俺が言わなくても動いて。最初はちょっと近づきにくかった」
「知らなかった」
「そりゃ言わないからな。でも今は、そういうとこが頼りになるって分かってる」
俺は黙って聞いていた。リアスがこういうことを話すのは珍しかった。いつもは「今日の飯」か「次の依頼」か「装具の話」だ。感慨めいたことを言うのは、疲れている時か、何か思うところがあった時だ。今日の大型種が、よほど印象に残ったのかもしれない。
「今日みたいなこと、よくあるよな」
「何が?」
「俺が気づかないうちに、お前が何かしてることだよ。後から『あ、こういうことだったんだ』って気づく。俺、気づくのが遅いんだよな。お前がやってくれてることを」
「それで問題なければいいじゃないか」
「問題じゃないけど、なんか、悪い気がしてな」
「悪くない」
「そうか?」
「俺がやりたいからやってる。それで問題ない」
リアスは少し間を置いてから、「そっか」と言った。柔らかい声だった。
砦の輪郭が、遠くに見えてきた。壁の石が夕方の光に染まっている。橙色だ。今日も、もうすぐ終わる。
「また頼むな」
唐突に、リアスが言った。
俺は一瞬、意味が取れなかった。
「……何を?」
「今日みたいなこと。先に動いてくれること。俺の動きを俺より知っといてくれること。また、頼むよ」
街道が、静かだった。
また。その一言の中に、「次も」がある。「来月も」がある。「来年も」がある。「ずっと」がある。リアスは多分そんなことを考えて言ったのではなく、ただ今日のことへの感謝を言いたかっただけだろう。でも「また」という言葉は未来を含む。俺たちには、まだ続きがある。そう、リアスは当然のように思っている。
俺も、そう思っていた。
「……ああ」
それだけだった。でもリアスは満足そうに、革袋を口から離した。
少し間があって、リアスが口を開いた。
「お前、この仕事、楽しいか」
俺は少し考えた。楽しい、という言葉を自分に当てはめたことが、あまりなかった。合理的か合理的でないか、という基準で物事を判断することの方が多かった。
「……分からない」
「分からない?」
「楽しいかどうかより、やる理由があるかどうかで動いている」
「やる理由か」
リアスが繰り返した。少し間を置いた後で、「俺にとっては、お前がいるのがやる理由のひとつだよ」と言った。
俺は答えなかった。
「一人でやってたら、絶対もっとミスしてた。俺、勢いで突っ込む癖があるから。お前がいなかったら今頃どうなってたか、考えると怖いな」
リアスが少し照れたように、前を向いた。普段こういうことを面と向かっては言わないから、照れているのが珍しくて、俺は少しだけ困った。
「……三年間で言うのが遅すぎるんじゃないか」
「分かってるよ」
リアスが笑った。
「でも言いそびれてたんだよ、ずっと」
「今日は何があった?」
「何もないよ。ただ、今日の連携が特によかったから。あと、大型種の粉を吸って、少し感傷的になった」
「感傷的になるのは粉のせいか」
「そういうことにしといてくれ」
また笑い声が上がった。俺も、少し笑った。
正確には、休みを一日挟んで、その翌日だ。規模は中程度、砦から半日かかる森の奥に大型の魔物が出たという話で、俺たちにはよくある種類の仕事だった。朝、いつものように二人で出て、いつものように動いて、いつものように依頼をこなした。
ただ、今日は少し手こずった。
大型種だった。俺たちが普段相手にする中型の群れとは違い、単体で強く、動きも読みにくい。リアスが剣を振り抜いた後に崩れたのだが、その崩れ方が問題だった。体が四散するように砕けながら、内部から大量の粉を噴き出した。黄白色の、刺激臭のある粉だ。俺は距離を取っていたが、リアスはちょうど剣を引いた直後で、もろに吸い込んだ。
「っ、なんだこれ」
リアスが咳込みながら後退した。目が赤くなっている。
「防ぐ必要はない。毒性はない。ただ粘膜に刺さる」
「刺さるって、お前……」
「数時間で消えるから水で洗え」
予備の水袋を放った。リアスが受け取って、口と目を洗う。その間、俺は周囲の残党を処理した。粉の残滓が風に乗って漂っている。鼻の奥が痛い。
依頼自体は問題なく終わった。
帰り道は、砦への街道を二人で歩いた。午後の光が石畳に落ちて、俺たちの影を長く伸ばしている。リアスはまだ少し目が潤んでいたが、機嫌は悪くなかった。むしろいつもより饒舌だった。
「あの粉、やっぱ喉にへばりつくな」
「水を飲み続けろ。乾燥すると悪化するぞ」
「はいはい」
リアスは革袋を傾けながら、歩調を緩めた。俺もそれに合わせる。急ぐ必要はなかった。砦まで、あと三十分ほどだ。
「なあ、今日の大型種さ、腕を振り上げた時、お前が右に動いてくれたよな」
俺は少し間を置いてから、「そうだ」と答えた。
「合図、してないのに動いたろ」
「してなかったな。でも分かった」
「なんで分かったんだ?」
答えるのに、少しだけ考えた。分かる、という感覚を言語化するのは、いつも少し難しい。
「大型種が腕を振り上げる前に、重心が右に移動しただろ。お前は左足に体重が乗り始めていた。踏み込む方向が決まっていた。だから右は俺が塞ぐ必要があったってことだ」
「……お前、俺が左足に体重乗せてたの分かったのか」
「三年分の蓄積だな」
リアスはしばらく黙った。俺も黙った。街道の端で、草が風に揺れている。
「なんか、すごいな」
感嘆でも称賛でもなく、純粋に不思議がっているような声だった。
「何がだ?」
「俺が俺自身の動きを気づいてないのに、お前が知ってる。そういうことって、あんまりない。俺の動きを俺より分かってる人間って、多分お前だけだ」
俺は答えなかった。
答えるべき言葉があったかもしれない。でも何も言えなかった。「俺だけだ」という一言が、思いの外、胸の奥に落ちて沈んでいったからだ。静かに、でも確かに。
リアスはそれ以上追わなかった。俺たちはまた、黙って歩いた。
街道の脇に、小さな石積みがあった。古い道標だ。いつ誰が積んだのか分からないが、俺たちがこの道を使うたびに目に入る。なんとなく、通り過ぎるたびに確認するようになっていた。ここまで来ると砦まで二十分、という目安だ。リアスは気づいていないだろうが、俺は毎回数えている。
「そういえば、今日の依頼、俺が無茶した場面あったろ。最初の突っ込みが少し早かったんだ」
「分かってた」
「お前、分かってたのに止めなかったのか」
「止めても聞かないだろ。だから右側を塞いだんだよ」
リアスは笑った。ははっ、という軽い笑い方ではなく、もう少し丁寧な笑い方だ。
「そういうとこだよな、お前」
「何が?」
「何も言わないけど、ちゃんと先回りしてる。俺が失敗しないように、気づかれないように、全部先にやってある。気づいたら全部整ってる」
石積みを通り過ぎた。砦まであと二十分だ。
「それが、俺の仕事だ」
「仕事って言うなよ。三度目だぞ」
「もう分かるだろ。そういうことだ」
またしばらく黙った。
良い沈黙だった。埋める必要のない沈黙。歩くたびに革袋が揺れる音と、石畳の上の二人分の足音と、遠くで鳥の鳴く声と、それだけがある。
この種の静かさを、俺は昔は苦手としていた。間が持てなかった。何かしゃべらなければと思っていた。いつ頃から変わったのかは分からない。気づいたら、リアスと黙っている時間が苦ではなくなっていた。この沈黙の中に何かがある、と思うようになっていた。
リアスも同じなのかは知らない。でも俺が何も言わなくても、リアスは歩き続ける。それで十分だった。
街道の先に、小さな農家の家が見えた。この道を通るたびに目に入る家だ。庭先に洗濯物が干してある。今日も誰かの日常がある。この世界のどこかに、俺たちとは関係のない、別の誰かの朝と夜の繰り返しがある。そのことを、俺はなぜか今日、初めてはっきりと感じた。
「お前ってさ」
リアスが言った。歩きながら、少し考えている風だった。
「なんだ?」
「冒険者になって何年になる?」
「三年と少し。お前も同じだろ?」
「そうだよな。同期だもんな」
リアスは少し空を見上げた。
「三年、早かったな」
「そうか?」
「そうだよ。最初の依頼の時、なんか俺すごい緊張してて、お前は全然緊張してなさそうで、なんか腹立ってた気がする」
「緊張はしていた。ただ、顔に出さない方が合理的だった」
「合理的……か」
リアスが繰り返して、また笑った。
「お前らしい理由だな。でも、最初からそういうやつだったよ。冷静で、先を読んで、俺が言わなくても動いて。最初はちょっと近づきにくかった」
「知らなかった」
「そりゃ言わないからな。でも今は、そういうとこが頼りになるって分かってる」
俺は黙って聞いていた。リアスがこういうことを話すのは珍しかった。いつもは「今日の飯」か「次の依頼」か「装具の話」だ。感慨めいたことを言うのは、疲れている時か、何か思うところがあった時だ。今日の大型種が、よほど印象に残ったのかもしれない。
「今日みたいなこと、よくあるよな」
「何が?」
「俺が気づかないうちに、お前が何かしてることだよ。後から『あ、こういうことだったんだ』って気づく。俺、気づくのが遅いんだよな。お前がやってくれてることを」
「それで問題なければいいじゃないか」
「問題じゃないけど、なんか、悪い気がしてな」
「悪くない」
「そうか?」
「俺がやりたいからやってる。それで問題ない」
リアスは少し間を置いてから、「そっか」と言った。柔らかい声だった。
砦の輪郭が、遠くに見えてきた。壁の石が夕方の光に染まっている。橙色だ。今日も、もうすぐ終わる。
「また頼むな」
唐突に、リアスが言った。
俺は一瞬、意味が取れなかった。
「……何を?」
「今日みたいなこと。先に動いてくれること。俺の動きを俺より知っといてくれること。また、頼むよ」
街道が、静かだった。
また。その一言の中に、「次も」がある。「来月も」がある。「来年も」がある。「ずっと」がある。リアスは多分そんなことを考えて言ったのではなく、ただ今日のことへの感謝を言いたかっただけだろう。でも「また」という言葉は未来を含む。俺たちには、まだ続きがある。そう、リアスは当然のように思っている。
俺も、そう思っていた。
「……ああ」
それだけだった。でもリアスは満足そうに、革袋を口から離した。
少し間があって、リアスが口を開いた。
「お前、この仕事、楽しいか」
俺は少し考えた。楽しい、という言葉を自分に当てはめたことが、あまりなかった。合理的か合理的でないか、という基準で物事を判断することの方が多かった。
「……分からない」
「分からない?」
「楽しいかどうかより、やる理由があるかどうかで動いている」
「やる理由か」
リアスが繰り返した。少し間を置いた後で、「俺にとっては、お前がいるのがやる理由のひとつだよ」と言った。
俺は答えなかった。
「一人でやってたら、絶対もっとミスしてた。俺、勢いで突っ込む癖があるから。お前がいなかったら今頃どうなってたか、考えると怖いな」
リアスが少し照れたように、前を向いた。普段こういうことを面と向かっては言わないから、照れているのが珍しくて、俺は少しだけ困った。
「……三年間で言うのが遅すぎるんじゃないか」
「分かってるよ」
リアスが笑った。
「でも言いそびれてたんだよ、ずっと」
「今日は何があった?」
「何もないよ。ただ、今日の連携が特によかったから。あと、大型種の粉を吸って、少し感傷的になった」
「感傷的になるのは粉のせいか」
「そういうことにしといてくれ」
また笑い声が上がった。俺も、少し笑った。

