出発の準備をしながら、リアスが鎧の留め具を止めようとして、指が少し滑った。左側の留め具が、また緩んでいる。
「貸せ」
俺は立ち上がり、受け取った。留め具の金具が少しだけ歪んでいて、普通に締めようとすると引っかかる。角度を変えて押し込めば問題ない。それを知っているのも、俺だけだった。
「助かる」
「出発前に装具師に見せろ。そのうち壊れる」
「わかってる。でもこのまま使いたい気持ちもある」
「感傷的なことを言いやがって」
「お前に言われたくないな。地図の下に何か入れてるくせに」
俺の手が、止まった。一秒か、二秒。留め具を締め終えてから、俺はリアスの背中を軽く叩いた。
「よし、できた」
「……聞こえてないふりしてるだろ」
「聞こえてない」
リアスは苦笑して、それ以上は追わなかった。俺たちの間にはそういう場所がある。踏み込んでいい場所と、踏み込まない場所。三年かけて、言葉なしに決めてきた境界線だ。
「今日って雨降るか」
リアスが窓の外を見ながら聞いてきた。
「わからない。念のため、右肩に余裕を持っておけ」
「……よく覚えてるな」
当然だ、と思ったが、口には出さなかった。湿気が強い日には、三年前に受けた右肩の古傷が痛む。リアスは自分ではあまり気にしていないようだが、それが出ると剣の振りが小さくなる。俺が右側に出るタイミングを早めなければならなくなる。それだけのことだが、知っているか知らないかで、積み重ねが変わる。
気づいているのは俺だけでいい。
「別に特別なことじゃない。お前の癖を把握しておくのは、俺の仕事だから」
「仕事って言うなよ」
「じゃあなんて言えばいい」
「……専売特許、とか」
俺は少し黙ってから、「それは俺のセリフだ」と返した。リアスがまた笑った。今度は声に出さず、口の端だけで笑う種類の笑い方。
朝の光が少し強くなってきた。灰色だった空の色が、薄い青に変わり始めている。
街に出ると、石畳の上に昨夜の雨の痕跡が残っていた。水たまりが空の色を映している。湿気がある。依頼場所への道中、俺はリアスの半歩後ろを歩いた。
半歩後ろが、俺の定位置だ。
前に出すぎるとリアスが周囲を見渡す邪魔になる。後ろに離れすぎると反応が遅れる。半歩後ろで、右斜め後方の死角をカバーできる位置。三年かけて決めた、自分なりの答えだ。リアスはそんなことを意識していないだろうが、俺は常に意識している。この距離感を保つことが、俺がリアスのそばにいる理由のひとつだった。
リアスは歩きながら、何も言わなかった。俺も言わなかった。話す必要がなければ話さない。でもどちらかが口を開いた時には、ちゃんと聞いている。そういう時間の使い方が、いつの間にかできていた。
依頼の集合場所に着くと、同じ依頼を受けた別の二人組がすでに来ていた。挨拶を交わして、現地の状況を確認する。魔物の群れは北東の草地に固まっているという。ゴブリン系の上位種が混じっているが、俺たちには問題のない相手だ。
出発前に、リアスが軽く右肩を回した。
それが合図だと、リアス自身は知らない。ただのウォーミングアップだと思っているだろう。でも俺は知っている。今日は湿気のせいで古傷が疼いている。踏み込みが浅くなる。右側の死角が広がる。だから俺は早めに動く。
言葉は必要ない。
依頼は一時間かからず終わった。
最初の一撃をリアスが入れた瞬間、群れの上位種が左に逃げた。俺はその前にいた。右ではなく左だった。普段と違う。リアスの踏み込みが右側に重かったからだ。右肩をかばって体重の乗り方が変わっていた。だから上位種の逃走ルートも右ではなく左になると、俺は一手前から読んでいた。
三体を処理し終えて、リアスが少し息を切らしながら「今日いたか」と言った。
「左に動くの、早かったろ」
「お前の踏み込みが変わってたから」
「……右肩か」
「そうだ」
リアスは何も言わなかった。ただ「そうか」と言って、剣を鞘に収めた。
俺が正しかった、という話ではない。俺が把握していたから、リアスは「右肩のことを考えながら戦う」余分な負荷を負わずに済んだ。それだけのことだ。でもその「それだけのこと」を、三年間積み重ねてきた。
帰り道、リアスが「今日もよかった」と言った。
いつもの言葉だ。俺はまた「そうか」と返した。それだけだった。でも今日は、その一言がいつもより少しだけ、俺の胸に残った。「今日もよかった」という言葉には、「明日もある」という前提が含まれている。俺もその前提を信じていた。この続きがある、と。
「ちょっと聞いていいか」
歩きながらリアスが言った。
「なんだ」
「俺、今日左に動きながら、なんか妙な感じがしたんだよ。言葉にできないんだけど」
「どの辺が」
「上位種が左に逃げるの、俺は分からなかった。でもお前はもうそこにいた。なんでか、後から気になった」
俺は少し間を置いた。
「右肩をかばって踏み込みが変わる。体重が右に寄る。上位種はそれを見て逃走ルートを選ぶ。お前が右に強いと判断したから、左に逃げた」
「……そこまで読んでたのか」
「お前の体の状態を把握してたから読めただけだ」
リアスはしばらく黙った。それから「ありがとう」と言った。珍しく、素直に。
俺は「仕事だ」と返した。
「仕事って言うなよって、さっきも言っただろ」
「ああ、忘れてた」
リアスが笑った。俺も少し笑った。石畳の音が続いた。
宿に戻ると、俺は地図に今日の動線を書き込んだ。リアスはベッドに倒れ込んで、腕を枕にしたまま天井を見ていた。
「役割執行院の人間が、今日また増えてた。五人もすれ違った。昨日よりも多いな」
「……やっぱりそうか」
リアスは天井を見たまま、しばらく黙った。俺も地図を見たまま黙った。部屋に沈黙が落ちた。
でも、その沈黙は重くなかった。
俺たちの間の沈黙は、たいてい重くない。何かを考えていて、まだ言葉になっていないだけの沈黙だ。埋めなくていい。そう分かっているから、埋めようとしない。
「まあ、今日は何もなかった」
「そうだな」
「明日の依頼は?」
「ない。休みだ」
「じゃあ、ゆっくり寝られるな」
「お前はいつもゆっくり寝てるだろ」
「うるさいな」
リアスは笑って、腕で目の上を覆った。そのまま眠りそうな気配がした。
俺は地図の修正を終えて、ペンを置いた。右下の隅に手を滑らせると、革袋の感触があった。ここにある。今日も変わっていない。
ランタンの炎が揺れた。外では風が出てきたらしく、窓の隙間から夜の空気が忍び込んでくる。リアスの呼吸が、いつもの眠りの呼吸に変わっていた。静かだった。俺だけが起きていて、地図を見ている。朝と同じだ、と思った。
朝と夜が繰り返される。俺が先に起きて、リアスが後から起きてくる。二人で一日動いて、また宿に戻る。それが三年間だった。これからも続くと、俺はまだ思っていた。
気づいたのは後からだ。あの朝、「んー」という声を聞いて三分を使い始めた瞬間から、俺はリアスとの時間を当然のものとして受け取っていた。終わりが来るとは考えなかった。考える必要がなかった。それほど、俺たちの時間はあたりまえだった。
——それが三日後に大きく変化しているとは、その夜の俺には想像もできなかった。
「貸せ」
俺は立ち上がり、受け取った。留め具の金具が少しだけ歪んでいて、普通に締めようとすると引っかかる。角度を変えて押し込めば問題ない。それを知っているのも、俺だけだった。
「助かる」
「出発前に装具師に見せろ。そのうち壊れる」
「わかってる。でもこのまま使いたい気持ちもある」
「感傷的なことを言いやがって」
「お前に言われたくないな。地図の下に何か入れてるくせに」
俺の手が、止まった。一秒か、二秒。留め具を締め終えてから、俺はリアスの背中を軽く叩いた。
「よし、できた」
「……聞こえてないふりしてるだろ」
「聞こえてない」
リアスは苦笑して、それ以上は追わなかった。俺たちの間にはそういう場所がある。踏み込んでいい場所と、踏み込まない場所。三年かけて、言葉なしに決めてきた境界線だ。
「今日って雨降るか」
リアスが窓の外を見ながら聞いてきた。
「わからない。念のため、右肩に余裕を持っておけ」
「……よく覚えてるな」
当然だ、と思ったが、口には出さなかった。湿気が強い日には、三年前に受けた右肩の古傷が痛む。リアスは自分ではあまり気にしていないようだが、それが出ると剣の振りが小さくなる。俺が右側に出るタイミングを早めなければならなくなる。それだけのことだが、知っているか知らないかで、積み重ねが変わる。
気づいているのは俺だけでいい。
「別に特別なことじゃない。お前の癖を把握しておくのは、俺の仕事だから」
「仕事って言うなよ」
「じゃあなんて言えばいい」
「……専売特許、とか」
俺は少し黙ってから、「それは俺のセリフだ」と返した。リアスがまた笑った。今度は声に出さず、口の端だけで笑う種類の笑い方。
朝の光が少し強くなってきた。灰色だった空の色が、薄い青に変わり始めている。
街に出ると、石畳の上に昨夜の雨の痕跡が残っていた。水たまりが空の色を映している。湿気がある。依頼場所への道中、俺はリアスの半歩後ろを歩いた。
半歩後ろが、俺の定位置だ。
前に出すぎるとリアスが周囲を見渡す邪魔になる。後ろに離れすぎると反応が遅れる。半歩後ろで、右斜め後方の死角をカバーできる位置。三年かけて決めた、自分なりの答えだ。リアスはそんなことを意識していないだろうが、俺は常に意識している。この距離感を保つことが、俺がリアスのそばにいる理由のひとつだった。
リアスは歩きながら、何も言わなかった。俺も言わなかった。話す必要がなければ話さない。でもどちらかが口を開いた時には、ちゃんと聞いている。そういう時間の使い方が、いつの間にかできていた。
依頼の集合場所に着くと、同じ依頼を受けた別の二人組がすでに来ていた。挨拶を交わして、現地の状況を確認する。魔物の群れは北東の草地に固まっているという。ゴブリン系の上位種が混じっているが、俺たちには問題のない相手だ。
出発前に、リアスが軽く右肩を回した。
それが合図だと、リアス自身は知らない。ただのウォーミングアップだと思っているだろう。でも俺は知っている。今日は湿気のせいで古傷が疼いている。踏み込みが浅くなる。右側の死角が広がる。だから俺は早めに動く。
言葉は必要ない。
依頼は一時間かからず終わった。
最初の一撃をリアスが入れた瞬間、群れの上位種が左に逃げた。俺はその前にいた。右ではなく左だった。普段と違う。リアスの踏み込みが右側に重かったからだ。右肩をかばって体重の乗り方が変わっていた。だから上位種の逃走ルートも右ではなく左になると、俺は一手前から読んでいた。
三体を処理し終えて、リアスが少し息を切らしながら「今日いたか」と言った。
「左に動くの、早かったろ」
「お前の踏み込みが変わってたから」
「……右肩か」
「そうだ」
リアスは何も言わなかった。ただ「そうか」と言って、剣を鞘に収めた。
俺が正しかった、という話ではない。俺が把握していたから、リアスは「右肩のことを考えながら戦う」余分な負荷を負わずに済んだ。それだけのことだ。でもその「それだけのこと」を、三年間積み重ねてきた。
帰り道、リアスが「今日もよかった」と言った。
いつもの言葉だ。俺はまた「そうか」と返した。それだけだった。でも今日は、その一言がいつもより少しだけ、俺の胸に残った。「今日もよかった」という言葉には、「明日もある」という前提が含まれている。俺もその前提を信じていた。この続きがある、と。
「ちょっと聞いていいか」
歩きながらリアスが言った。
「なんだ」
「俺、今日左に動きながら、なんか妙な感じがしたんだよ。言葉にできないんだけど」
「どの辺が」
「上位種が左に逃げるの、俺は分からなかった。でもお前はもうそこにいた。なんでか、後から気になった」
俺は少し間を置いた。
「右肩をかばって踏み込みが変わる。体重が右に寄る。上位種はそれを見て逃走ルートを選ぶ。お前が右に強いと判断したから、左に逃げた」
「……そこまで読んでたのか」
「お前の体の状態を把握してたから読めただけだ」
リアスはしばらく黙った。それから「ありがとう」と言った。珍しく、素直に。
俺は「仕事だ」と返した。
「仕事って言うなよって、さっきも言っただろ」
「ああ、忘れてた」
リアスが笑った。俺も少し笑った。石畳の音が続いた。
宿に戻ると、俺は地図に今日の動線を書き込んだ。リアスはベッドに倒れ込んで、腕を枕にしたまま天井を見ていた。
「役割執行院の人間が、今日また増えてた。五人もすれ違った。昨日よりも多いな」
「……やっぱりそうか」
リアスは天井を見たまま、しばらく黙った。俺も地図を見たまま黙った。部屋に沈黙が落ちた。
でも、その沈黙は重くなかった。
俺たちの間の沈黙は、たいてい重くない。何かを考えていて、まだ言葉になっていないだけの沈黙だ。埋めなくていい。そう分かっているから、埋めようとしない。
「まあ、今日は何もなかった」
「そうだな」
「明日の依頼は?」
「ない。休みだ」
「じゃあ、ゆっくり寝られるな」
「お前はいつもゆっくり寝てるだろ」
「うるさいな」
リアスは笑って、腕で目の上を覆った。そのまま眠りそうな気配がした。
俺は地図の修正を終えて、ペンを置いた。右下の隅に手を滑らせると、革袋の感触があった。ここにある。今日も変わっていない。
ランタンの炎が揺れた。外では風が出てきたらしく、窓の隙間から夜の空気が忍び込んでくる。リアスの呼吸が、いつもの眠りの呼吸に変わっていた。静かだった。俺だけが起きていて、地図を見ている。朝と同じだ、と思った。
朝と夜が繰り返される。俺が先に起きて、リアスが後から起きてくる。二人で一日動いて、また宿に戻る。それが三年間だった。これからも続くと、俺はまだ思っていた。
気づいたのは後からだ。あの朝、「んー」という声を聞いて三分を使い始めた瞬間から、俺はリアスとの時間を当然のものとして受け取っていた。終わりが来るとは考えなかった。考える必要がなかった。それほど、俺たちの時間はあたりまえだった。
——それが三日後に大きく変化しているとは、その夜の俺には想像もできなかった。

