勇者(親友)の隣に立つ偽物の君へ

 イオスという一秒にも満たない響きが、昼間の市場通りの中、リアスの声で空気に溶けた。それが偽物に向かって発せられたと分かっていても、俺の体は反応した。肩が一瞬だけ、動きそうになった。三年分の条件反射が、名前を呼ばれるたびに準備をしてしまう。

 俺の名前だ。それは俺の名前のはずだ。

 三年間、その声で呼ばれてきた。眠そうな声で「なんでもう起きてんだよ」と呼ばれた時も。戦闘前に短く「イオス」と呼ばれた時も。帰り道でふと「また頼むな」の前に呼ばれた時も。全部、それは俺の名前だった。

 でも今、その名前は偽物のものだ。

 それだけではない。

 名前というものが、こんなにも重いものとは思っていなかった。誰かに名前を呼ばれるということの重さを、今日まで当たり前に受け取っていた。名前を呼ばれることは、「ここにいる」という確認でもある。「お前は存在している」という宣言でもある。リアスが「イオス」と呼ぶたびに、俺はこの場所に存在することを許されていた。

 今はリアスが「イオス」と呼んでも、それは俺への呼びかけではない。

 偽物への呼びかけだ。

 自分が何者なのかを考えた。

 リアスの補佐官として生きてきた。その役割が消えた時、残るものがいったい何なのか、俺は考えたことがなかった。考える必要がなかったからだ。「リアスの補佐官」という肩書きが、これまでの俺の全てだったから。その肩書きと一緒に、「イオス」という名前も、偽物のものになった。

 俺は、露店の板壁に背中を当てた。板は冷たかった。その冷たさだけを背中で感じていた。

 リアスが何か言って、偽物が頷いた。二人が歩き出す。俺の名前を呼んだ声は、もうそこにない。後には昼間の市場の雑音だけが残っている。

 見ていられなかった。でも、目を離すことができなかった。

 この矛盾を、俺はうまく説明できない。見ていれば傷つく。それが分かっていて、傷つきながら見続けている。お前がいなければ「また頼むな」と言われることもなかったのに。そう思いながら、「また頼むな」という言葉をリアスから奪われたことが、何よりも痛かった。

 あの言葉は、俺に向けて言われるべきだった。俺に向けられていなければならないものだ。

 二人がいる方向から視線を外して石畳を見た。三年前も、一昨日も、この石畳の上を歩いた。石畳は何も変わっていない。変わったのは、俺がここに立っている理由だけだ。

 石畳から目を上げると、二人はまだ見える距離にいた。

 リアスの足取りは、俺の知っているリアスのそれだ。少し外股で、歩幅が広い。疲れていると少し頭が前に傾く。今日は頭がまっすぐだから、依頼はさほど消耗しなかったということが分かる。そういうことを、俺は無意識に読んでいた。三年間、ずっとそうしてきた。

 そして今もしている。

 もう、する意味もないというのに。

 「リアスの状態を把握する」という行為が、もはや何の役にも立たないというのに、体が勝手にやっている。三年間で染み込んだことは、役割証明書がなくなっても消えない。それが、ひどく惨めだった。

 俺はリアスの動きを読み続けながら、同時に自分が「リアスの補佐官」以外の何者でもないことに気づいていた。その肩書きが消えた今、俺の中に何が残っているのか、やはり分からなかった。

 引こうとして踵を返しかけた。

 本当に引くことができるのか。それすらも分からなかった。でも、ヴェラに報告することがある。今日の収穫を持って地下に戻らなければならない。踵を返した、その時だった。

 リアスが振り返った。

 俺がいる方向に、目を向けた。

 心臓が止まりかけた。

 二十メートルの距離だ。俺は露店の陰にいる。人混みが何層にも挟まっている。役割証明書のない俺は「存在しない」のだから、均衡律的にも認識されない。見えるはずがないし、見えてはいけない。

 それでも、リアスの目がこちらを向いた。

 俺は息を止めて動かなかった。露店の板壁に再び背中を押しつけた。リアスの目が、何かを探すように——いや、「探している」というより、何かに引っかかったような、ふとした瞬間の目の動きだった。通りがかりに、窓の外の影に一瞬だけ視線が引かれる、あの感じ。

 数秒か。

 その間、俺は息ができなかった。

 リアスの目がこちらを向いている。俺は見えていない。見えているはずがない。それでも、その数秒の間、俺は「見つかった」という感覚と、「見つかってほしい」という感覚と、「見つかってはいけない」という感覚が、同時に体の中を走り抜けるのを感じていた。

 偽物がリアスの腕に軽く触れた。何か言っている。リアスの視線が偽物に向いた。それから前を向いて、また歩き出した。

 俺への視線はもうなかった。

 ゆっくりと、ゆっくりと息を吐き出す。

 気のせいだと自分に言い聞かせた。

「あいつには俺が見えない。均衡律がそう定義している。見えるはずがない。あの目の動きは、別の何かに反応しただけだ」

 そのはずだ。

 だが、露店の陰を離れられなかった。リアスが完全に見えなくなるまで、その場に立ち続けた。

 あの一瞬のリアスの目。何かを探すように、でも探しているとも言えない、あの目の動き。その瞬間の目を、俺は知っている。依頼の前に地形を読む時の目でも、馴染みのない食堂で席を探す時の目でもない。もっと個人的で、無意識の探し方だった。

 でも確かめる方法が俺にはない。

 二人の姿が、市場通りの人混みに完全に消えた。

 俺はようやく、板壁から背を離し歩き出した。

 市場通りを離れて、街の外縁部へ向かった。廃屋の裏口、地下への梯子。降りるたびに空気が変わる。上の世界の音が遠のいて、地下街の低い話し声が近づいてくる。

 地下へ降りながら、頭の中に残っているのは二つのことだった。

 一つは、0.3秒の遅れ。偽物は完璧ではない。俺の三年間は、複製しきれていない。それは俺にしか見えない差異だが、確かに存在する。均衡律が作ったものには、必ず穴がある。それは、今後の戦い方に繋がるかもしれない情報だった。

 もう一つは、あの一瞬のリアスの目。

 見えるはずがない方向を、リアスが見た。数秒間、何かを探すように。でも、探しているとも言えない目で、こちらを向いた。

 理由は分からない。偶然だったのかもしれない。均衡律の認識には俺は引っかからないから、リアスには俺が見えていなかったはずだ。それでも、あの数秒が、俺の頭から離れなかった。

 ヴェラに報告する前に、俺はもう一つのことを考えていた。

 「リアスは、何かを感じているのかもしれない」

 根拠はない。可能性の話だ。でも、均衡律が完璧に俺を消したとしても、三年間という時間が俺とリアスの間に作ったものまでは、消せないのかもしれない。

 分からない。答えは今日も出なかった。

 どちらも、今日だけではなく、ずっと残り続け、燻り続けるようなものだった。