勇者(親友)の隣に立つ偽物の君へ

 泥の味がした。

 這いつくばった地面から立ち昇る腐葉土の匂いと、夜露を含んだ冷気が、鼻腔の奥にへばりついている。指先がかじかんで、感覚がない。だが、それでよかった。この不快感だけが、今の俺がここにいるという、唯一の証明になっていたからだ。

 俺は息を殺し、太い樫の木の根元に身を潜めている。

 目の前には、夜の森を切り裂くようにして聳え立つ、石造りの砦がある。正門には篝火が焚かれ、パチパチという爆ぜる音が、風に乗ってここまで届いていた。

 ああ、光だ。あそこには、暖かな光がある。

「――っ、くしゅ」

 不意に、静寂を破るような、間の抜けた音が響いた。

 俺の心臓が、早鐘を打つ。音の出所は、砦へと続く街道の向こう側。二つの影が、ランタンの揺れる光とともに、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。

「おいおい、大丈夫かよリアス。魔物討伐帰りの勇者様が風邪引いたなんて言ったら、国中の薬屋が大騒ぎするぜ」

「うるさいな……。埃を吸っただけだよ。最後のあいつ、崩れる時に変な粉を撒き散らしやがって」

「役割更新の報告書、提出したか」

「……明日でいい」

 聞こえてきた声に、俺の胃袋が冷たい手で鷲掴みにされたように収縮した。

 知っている声だ。鼓膜ではなく、骨に直接響いてくるような、馴染み深い声。先頭を歩くのは、リアス・オルブライト。濡れた黄金の髪を乱暴にかき上げながら、不機嫌そうに鼻をすする。歩き方は疲労を滲ませていたが、纏っている空気は圧倒的に華やかで、夜の闇すら彼を避けて通るようだった。

 そして、その隣。

 リアスの半歩後ろ、影を踏むような位置に、もう一人の男がいる。

「ほらよ、水。口を漱いだ方がいい」

「ん、サンキュ。……お前、よく気がつくなあ、昔から」

「お前の世話係は、俺の専売特許だからな」

 革袋を差し出したその男の顔が、ランタンの光に照らされる。

 俺は、思わず地面の泥を握りしめた。爪の間に土がめり込み、皮膚が裂ける痛みが走る。やや明るい灰色の髪に、少し垂れ気味の目尻と冷めたような碧眼。左の頬にある、小さな古傷。

 鏡を見ているようだった。

 いや、鏡以上に、その男は俺だった。

 イオス・リンドバーグ。俺の名前を名乗り、俺の顔をして、俺の親友の隣を歩く。均衡律が作り出した、俺の代替体。

 吐き気がした。自分の姿をした何かが動いているという、生理的な嫌悪感ではない。もっと致命的で、絶望的なものだ。あいつの所作が、あまりにも自然すぎたから。革袋の蓋を開けて手渡すタイミング。リアスの歩幅に合わせて速度を緩める呼吸。そのすべてが、かつて俺が何千回、何万回と繰り返してきた、リアスの親友としての正解そのものだった。

 俺が積み上げてきた時間は、こんなにも簡単に再現できるものだったのか。

 指先の感覚がないのに、樹皮の粗さだけがやけにはっきり伝わってくる。俺は何も掴めていないのに、手だけが何かを探している。

「ぷはっ……生き返った。あの粉、やっぱ喉にへばりつくな」

「背中、払っておくよ。じっとしてろ」

 偽物が、リアスの背中に回る。ポン、ポンと、埃を払う音が森に響く。

 俺は唇を噛み締めた。

 そこは、俺の場所だ。その背中の、鎧の留め具が少し緩みやすいことも、右肩の古傷が雨の日には痛むことも、知っているのは俺だけのはずだった。

「……なぁ、イオス」

 リアスが、ふと足を止めた。砦の門まであと数メートルという場所だ。

「なんだ?」

「今日の連携、すごく良かったな」

 リアスの声は、弾んでいた。魔物を倒した達成感から来るものではない。もっと個人的で、無防備な響きを含んでいた。

「あの大型種が腕を振り上げた時さ。俺は合図もしてないのに、お前が右側に回り込んでくれてたろ。あのおかげで、俺は迷わず剣を振り抜けた」

 リアスは偽物の方を向き、少年のような笑顔を見せた。

 その笑顔が、俺の網膜を焼く。

「やっぱり、お前とだと戦いやすいよ。言葉にしなくても、俺の考えてることが全部伝わってる気がする」

 やめてくれ。

 森の暗闇の中で、俺は音のない叫びを上げた。

 言わないでくれ。その言葉だけは。それは、俺たちが初めてパーティーを組んだ夜、焚き火の前で交わした言葉だったじゃないか。それを、そんな、作られた人形に向かって投げかけないでくれ。

 そんな思いも届くことなく、偽物は、どこまでも完璧だった。少しだけ照れたように視線を逸らし、鼻の頭を指で擦る癖まで再現して、こう答えたのだ。

「当たり前だろ。俺たちは、二人で一つなんだから」

 カチリと、俺の中で何かが砕ける音がした。

 二人の会話には、一片の淀みもなかった。そこには違和感など存在しない。リアスにとって、隣にいる男こそが、苦楽を共にしてきた本物のイオス・リンドバーグなのだ。俺の記憶も、俺の存在も、最初からなかったことになっている。

 風が吹いた。木々がざわめき、俺の体温を奪っていく。

 寒い。どうしようもなく寒い。気温のせいなんかではなく、俺という存在が、この世界のどこにも繋ぎ止められていないという事実が、骨の髄まで凍らせていくのだ。

 リアスが再び歩き出す。偽物がそれに続く。

「そういやさ、帰ったら何食う? 食堂の親父、今日は鹿肉仕入れたって言ってたぜ」

「鹿肉か。なら、シチューにしてもらうよう頼んでみるか。お前、昨日の硬いパンのせいで顎が痛いって言ってただろ? 柔らかいものの方がいいんじゃないか」

「うわ、そこまで覚えてたのかよ。まったく、世話焼きの親友を持っちまって困るぜ」

「うるさい。ほら、行くぞ」

 軽口を叩き合いながら、彼らは光の中へと進んでいく。

 その光景は、あまりにも美しかった。俺という異物が排除されたことで、世界はより滑らかに、より鮮やかに回っているようにすら見えた。

 涙が出る代わりに、どす黒い熱が腹の底で渦を巻いていく。

 なぜだ。

 なぜ、気づかない、リアス。

 お前は勇者だろう。誰よりも鋭い勘と、全てを見通す目を持っているはずだろう。なぜ、お前の親友である俺が、ここにいることに気づきもしないんだ。

 泥だらけの手で、樫の木の樹皮を掻きむしった。指の間から、ぼろぼろと朽ちた木片が落ちた。

 俺はここにいる。お前のために剣を取り、お前のために泥を啜り、お前のために死にかけてきた俺は、この暗闇の中にいるんだ。

 だが、リアスが振り返ることはなかった。

 篝火の光が、二人の影を長く伸ばした。その影が、森の闇に潜む俺の足元まで届き、そして通り過ぎていく。まるで、俺の存在など、最初から路傍の石ころでしかなかったかのように。

「あ、そうだイオス」

 門をくぐる直前、リアスが思い出したように声を上げた。立ち止まらず、歩きながら横を向く。偽物の耳元に顔を寄せる。内緒話をする子供のような、悪戯っぽい仕草だった。

「今夜、部屋に来いよ。……例のやつ、見せてやるから」

 俺の呼吸が止まった。

 例のやつ。

 一瞬、思考が凍った。その言葉が意味することを、脳が処理することを、本能が拒んだ。それは、俺たちが故郷を出る前夜、二人で誓った約束の品のことだ。誰にも見せたことのない、二人だけの秘密。リアスの声が明るいことが、余計に痛かった。こんなにも無邪気に、こんなにも自然に、あいつに向けて言えてしまうのか。

 何かが、静かに、冷えた。

 怒りではなかった。もっと底の方にある、もっと重いものが。

 ――許さない。

 明確な言葉として、それが脳裏に浮かんだ。悲しみでもなく、諦めでもなく、純粋で、研ぎ澄まされた、殺意に近い感情。

 俺の場所を奪った偽物への憎悪。そして、俺を忘れ、偽物と幸せそうに笑っているリアスへの、どうしようもない愛憎。

 俺の手が、無意識に腰の短剣へと伸びた。震える指先が、冷たい柄に触れる。飛び出して、叫んでやりたい。その偽物を引きずり出し、その中身があの男の代わりにすぎないことを暴いて、リアスの目の前に突きつけてやりたい。

 だが、足が動かなかった。

 そんなことをすれば、リアスは俺を敵として認識するだろう。三年間をかけて積み上げた信頼が、一瞬で刃に変わる。あの透き通るような目に、俺への軽蔑が宿る絵面が、鮮明に浮かんでしまったからだ。

 嫌われたくなかった。こんな仕打ちを受けてなお、俺はまだ、あいつの親友でありたいと願っていた。その矛盾した感情が、この暗闇に俺を縫い止めていた。

 ただ、見送ることしかできなかった。光の中に消えていく二人を。世界で一番正しい物語を歩む主人公たちを。

 砦の重厚な門が、軋んだ音を立てて開き始める。中から溢れ出す光が、さらに強く森を照らす。目を細めた。眩しすぎたから。その光の中に、俺の居場所がないことが、あまりにも鮮明すぎたから。

 その時だった。

 リアスの背中を追って、門の中へ足を踏み入れようとしていた偽物が、ふと足を止めた。

 本当に、ほんの一瞬のことだった。まばたき一回分にも満たない時間。彼は、リアスに気づかれないように、ゆっくりと首を巡らせた。

 その視線が、正確に、一直線に、俺が潜んでいる樫の木の根元へと向けられた。

 心臓が、冷たい泥水に浸されたように止まった。

 視線が絡み合ったのは、一秒にも満たない刹那だ。だが、その時間は永遠のように感じられた。あいつは、俺を見ていた。間違いなく、この闇の中にうずくまる俺を認識して、こちらを見ていた。

 鼓動が高鳴る。叫び出しそうになる喉を、俺は震える手で強く押さえつけた。ばれた。見つかった。排除される。本能的な恐怖が背筋を駆け上がる。身を強張らせ、来るべき衝撃に備えた。奴が剣を抜くのか、あるいは魔法でここ一帯を焼き払うのか。

 しかし、いくら待っても、何事も起こらなかった。

 偽物は、ふい、と何でもないことのように視線を外したのだ。表情一つ変えず、眉一つ動かさず。まるで、道端に転がる石ころや、壁に這う羽虫を見た時と同じように。

「ん? どうしたイオス。何か忘れ物か?」

 門をくぐりかけていたリアスが、立ち止まった相棒を振り返る。偽物は、俺に向けていた冷たい眼差しを瞬時に消し去り、温和な微笑みをリアスに向けた。

「いや、なんでもない。風の音が少し気になっただけだ」

「風? ……ああ、確かに今夜は冷えるな。まあいいや。早く入ろうぜ」

 偽物が再び歩き出す。

 その背中は雄弁に語っていた。『お前など、気にする価値もない』と。

 俺の存在は、奴にとって脅威ですらなかったということだ。敵として認識されることさえ許されなかった。奴にとって俺は、すでに処理済みであり、単に風景の一部に過ぎない。排除するコストすら無駄だと判断された、完全なる無価値。

 低く、腸に響くような音を立てて、砦の門が閉まり始める。光の帯が徐々に細くなっていく。

 その隙間から、リアスの声が漏れ聞こえた。

「ったく、お前は心配性なんだよ。……でもまぁ、そういうとこも含めて、俺はお前に救われてるんだけどな」

「なんだよ急に。気持ち悪いな」

「うるせえな、褒めてんだから素直に受け取れよ。……いや、マジな話さ。お前がいてくれてよかったよ、イオス」

 ドォォン――。

 鈍く、重い音が響く。

 門が完全に閉ざされた。世界から光が消え、森は再び、粘つくような漆黒の闇に沈んだ。