カシオくんとログ子ちゃん

 他のクラスの教室を開けるのはいつだって怖い。中にいる人たちの視線が一瞬だけこっちに向くのが嫌だ。それが自分のクラスだったら、すぐに目が逸らされるから一瞬我慢すればいい。でも他のクラスの教室だったら、この人は誰になんの用事があってここに来たのかと、誰も言わないけれど顔がそう言っている気がして、つい下を向いてしまう。
 でも今回は違った。視線を一心に集めたのは愛美ちゃんだった。
「深山さんって子、いる?」
 愛美ちゃんがそうたずねると一瞬、教室内がざわつく。どうして誰かはわかったので、次にいったいなんの用事かという顔になっているのがわかる。
「もしかしてカツアゲ?」とお調子者ぽい男の子が茶化す。それに対して愛美ちゃんは「違うわよ。あなたにカツアゲという用を追加しましょうか?」と右手のこぶしで左の手のひらを叩いてみせる。
 それだけで教室の空気が笑いで一つになる。その一つになったかたまりを縫うようにして、一人の女の子が近づいてくる。
「私に用?」
 愛美ちゃんはすごい。私からすれば難しすぎて諦めてしまう、『他のクラスの子を教室まで呼びに行く』という行為をあっさりとこなしてしまった。
「ここじゃアレだから、中庭にでも行かない?」
 今は昼休みだ。私たちはお昼ご飯の後で百葉箱を開けて手紙を読んで、深山さんを呼びにきた。本当の活動は放課後だけど、放課後になるとクラブ活動をしていない子たちはみんな帰ってしまう。手紙をくれた子が帰ってしまったら話を聞けないから、昼休みにしたのだと、愛美ちゃんは教室に来るまでに教えてくれた。
「さすがに人前でカツアゲは無理だもんねー!」とお調子者ぽい男の子が再度茶化す。
「深山さん、ちょっと待ってて」と笑顔で愛美さんは言った後「あいつをシメてくるから」と怖い声色に変えてから教室に一歩足を踏み入れた。
 すみませんでした! と何度も繰り返すお調子者ぽい男の子のもとまでは近づかず、数歩歩いただけで「今回は許してあげる。次やったら本気でシメに行くからね」と低い声で返した後、こちらに戻ってきた。
 じゃあ深山さん、行きましょー? と言う声は女の子らしいもので、その変化に驚く。
 愛美ちゃんって、すごいな。それに比べて私は……。頭の中にカシオ君の顔が浮かぶ。あの笑顔、行動力、説得力、今まで好きだったところ全てが逆を向いて、こちらにチクチクと刺さっているみたいだ。
 あぁ、嫌だな。私なんてカシオ君がいなかったら、前と何も変わらない、何もできないダメな子なんだ。
 私がそんなことを考えている間に、中庭に着いてしまった。憩いの場になっている中庭には池があって、その池を取り囲むようにベンチが並んでいる。中庭の隅は花壇になっていて、そこでは係の人が何か作業をしている他は誰もいない。昼休みに関わらず中庭はいつも空いている。係がある人以外はみんなグラウンドか体育館で遊ぶからだ。
 池の中で泳いでいる鯉たちは私たちのことを認識しているのか、餌がくれるとばかりに私たちの座ったベンチの近くでバシャバシャ水飛沫をあげて群れていた。
「突然教室にまでごめんなさい。手紙の内容的に、直接会いに行くのはどうかなと私も思ったんだけど、まずは細かい話を聞いてみないことには何もできなくて」
 愛美ちゃんが謝る。それに対して深山さんは「ううん、大丈夫」と首を振った。
「とりあえず話を聞かせてくれる?」と愛美さんは言った後で私を見る。私はカシオ君とのことを考えていたせいもあって反応が遅れた。
「ちょっと、ちゃんとしてよね」とまたため息をつかれた。私は愛美さんにため息をつかれてばっかりだ。やっぱりダメな子だ。
「私が話を聞くから、柿本さんはメモかなにかにまとめてて」そう言われた私はポケットからメモとペンを取り出す。カシオ君の活動の書記役をしているときはホワイトボードや黒板がないときだって少なくない。そういうとき用にいつもポケットに忍ばせている。
 深山さんは手紙の内容だとわからないことが多いよね。ごめんねと言って、話してくれた。
 深山さんと小池さんは保育園からの仲良しで、お互いを親友と呼ぶ、なんでも相談しあえる仲だった。でも、急に学校に来なくなったのだと言う。喧嘩したわけじゃないし、何か特別なことがあったわけでもない。普段から思っているようなことがあれば互いに言うような性格だから、長年の思いが積もり積もってということもないそうだ。
「なんだか私は悪くないみたいな言い方だよね。そんなの本当はわからないのに」
 深山さんと小池さんは下の名前がみゆきみなみと似ていて、よくみゆみなと呼ばれているくらいの人気だ。私はクラスが違うのもあって、名前しか知らないけど、私でさえそれくらいの情報が入ってくるということは事実なんだろう。
 私はそんなことないよ、と言いかけてやめた。愛美ちゃんが口を開いたからだ。私はカシオ君といるとき、彼や揉めている張本人達の言葉を遮らない。そのクセが出てしまう。
「その可能性もあるわね……」と愛美ちゃんは呟く。相手を傷つけるつもりのない真剣な表情ではあったけど、私も深山さんも一瞬「え?」と言ってしまう。
「あくまで可能性ってハナシ。まだ何もわからないんだから。それより、他に何か気づいたことはない?」
「気づいた、こと? うーんそうだなぁ」深山さんは顎に手を当ててしばらくうんうん唸った後、あ、と声を上げた。
「そういえば最近、二人の男の子に告白された、とか言ってた」
「何よそれ、めっちゃ事件じゃん! なんでそれを言わないのよ!」
 愛美ちゃんは前のめりになって聞く。事件を解決したいというよりは、恋愛話に興味があるような感じだ。
「だ、だって、みなみにはよくあることだったから」
 愛美ちゃんは深山さんの発言に押し返されたようにのけぞる。そういえば愛美ちゃんはつい先日カシオ君にフラれたばかりだった。といっても告白ではなかったし、カシオ君は好意に気づいてすらいない様子だったけど。それでも愛美ちゃんにとってはまだ忘れることのできないことだったようで、
「よく、ある、こと、なんだ……」と返す声は小さい。他のクラスの教室に入っていくときの自信とは違って、どこか親近感が湧く。
「その二人にも話を聞きたいんだけど、誰か教えてもらえますか?」とダメージを受けている愛美ちゃんの代わりに話を聞く。出てきた名前をメモしてお礼を言う。深山さんは、何かわかったらまた教えてねと言って先に教室に戻って行った。
 私は愛美ちゃんのダメージが回復するのを待ってから、メモした内容を一緒に整理していった。
「最後はごめんなさい。私、ちょっと驚いちゃって」愛美さんは頭を下げる。
「ううん、私もときどき上の空だったから。ごめんね」私も頭を下げた。
 そんな私たちの思いなんて知ったことではないと言わんばかりにバシャバシャと鯉が跳ねた。

「あ、お前は、カシオのヤローの隣にいた!」
 半袖短パン、見える肌は日に灼けていて、今すぐにでもグラウンドに駈けてきそうな男の子は私を指差してそう言った。もう一人のメガネをかけた長袖の男の子が「人を指さしちゃダメだろ」と軽くたしなめる。
「なんだとこら、やんのかこら」
「やんないよ」
「なんだと!」
 目の前で喧嘩が起こりそうな雰囲気に私は一歩後ずさる。私と入れ替わるように愛美さんが一歩前にでた。
「はいはいはい、そんな伝統芸か名人芸かは今いいから、話をきかせてちょうだい」
「なんだ? カシオのヤローのモノマネでもしてんのか?」
「もしそうだとしたら、僕も気分は良くないですね」
 喧嘩したかと思えば、次には共闘する、そのあまりの素早いコミュニケーションは、愛美さんの言ったように伝統芸みたいで拍手したくなる。
「カシオ君は今回はいないの。モノマネ、かどうかはわからないけど」私はそう言ってみたけど、
「そうやって人の話を聞き出そうとする感じが似てて嫌だわ、ぜってー何も話してやんない」と話してくれそうにない。
 私は思わず愛美さんを見る。彼女は私を見てから目を逸らし、大きなため息をついた。やっぱり私は何もできないダメな子だ。
「それは、小池みなみさんという名前を聞いても、同じことが言えるかしら?」
 二人の表情が一変する。でもすぐに
「みなみさんが?」「みなみが?」「呼び捨ては聞き捨てなりませんね」「ふーん俺は本人に許可もらってるもんね」「私はプラトニックな関係なんです」とまたもや喧嘩が始まる。
「その愛しのみなみさんが学校にきていないのは知っているわよね?」
 二人が固まる。息を飲む音が聞こえるほど、静かになった。
「話を聞かせてもらえる?」
「……仕方ねぇな」「仕方ないですね」
 元気そうな子が森田翔太、メガネをかけた方が斎藤理人という名前で、なんとカシオ君がつい先日解決した、どっちがよりあの子のことを好きかで揉めていた二人だった。あのときロッカーから出てきたあの子が、引きこもっている小池みなみさんということらしい。
 愛美さんはそのことを知らない。だからか告白したことについて詰めるように聞く。なんとも答えづらそうに話し、ときどき私を見るその目はお前が説明しろよと言っている。私は思わずうつむいた。
「俺たちが告白した日から、みなみは学校にきていない。俺らも心配で家まで行ってみたんだけど、病気だからと言って入れてくれなかったんだ。まだ一週間とちょっとだけど、病気にしては長すぎるよなって俺らも話してたんだ」
「そのときに変わったことはあった?」
「あの日、カシオ君の名前を挙げて飛び出して行ってから僕たちはみなみさんの顔を見れてないから、正直僕たちも何もわからないんだ」申し訳ないと理人くんはメガネを持ち上げる。
「なるほど、つまり何もわからないというわけね」
「ダメじゃねぇかよ!」翔太君の大声のツッコミに、思わず私は自分がダメと言われたような気分になった。
「ダメ、じゃない」と思わず口にでる。
 え? と三人が同時に私を見る。やっぱり人に見られるのは苦手だ。またうつむいてしまう。すると顎に手を当てられ、持ち上げられた。とっさにおばあちゃんがくれたロマンス小説のキスシーンを思い出す。カシオ君の顔を王子様の顔に当てはめて想像したけど目の前に現れたのは、愛美ちゃんだった。
「ダメじゃない、ってどういうこと」愛美さんがこちらをじっと見ている。
「え、えっと」何か言わなくちゃと考えるけど、何も出ない。愛美さんが息を吸う。ため息がまた来る、そう思うと自然と口が開いた。
「二人がお家に行ったということは、二人は住所を知ってるんだよね? それを教えて貰うのはどうかな」
「なるほど!」
 愛美さんは笑顔になって、早速二人に住所を聞いていた。
 聞き終わると同時に予鈴が鳴る。
「あーせっかくサッカーしようと思ってたのに。解決したらカシオのヤローをシメてやる」
「そうなったら私がシメてやるから、覚悟しなさいよ」
「なんだとこら」
「やるっていうの?」
 二人が喧嘩になりそうなのを「二人ともそんなことしてたら五時間目に遅刻するよ」と理人君が止めてくれる。
 五、六時間目の授業は放課後のことで気が気でなかった。なんていったって小池さんはカシオ君を狙うライバルの一人だ。そんな子を学校に来るようにできるのかという難しさもあったけど、学校に来るようになったらカシオ君を取られるから来ないで欲しいなという思いもあった。私は何もできないダメな子なのに、こんなことを思っちゃうなんて、やっぱりダメな子だな。
 教室で見るカシオ君はいつも通りだった。今回は愛美さんと二人でと言っていたカシオ君も放課後になったら協力してくれるんじゃないかと思ったけど、帰りの会の起立令さようならが終わると誰よりも早く教室を飛び出して行ってしまった。
 その背中を追いかけようと思ったけど、腰が重たい。まるで椅子に根が生えてしまったようだった。でも愛美さんが「行くわよ」と呼びに来ると、なぜか腰はふっと浮いてくれた。

 モテるってツラい。そういえば、誰しもが「は?」って顔をするし、そう言われることもある。女の子の友達に言えば、『自慢』ということになり、男の子の友達に言えば俺に言うってことは? と『期待』させてしまう。
 私はただ、本当にツラいんだけど、それを相談できる相手がいない。
 モテるっていいな、という言葉の中には、人から認められたいという欲求がいっぱいある。私だってそうだ。多くの人に認められたいし、良い子だって思われたい。だから男女両方にいい顔をした。いや、それはどちらかというと、嫌われたくないという方かもしれない。トラウマとかそういったことが特に何かあったわけじゃない。何もなかったからこそ、それに対する直面方法がわからないのが怖い。
 私はモテたくなんてなかった。誰かのものになるということはそれ以外を切り捨てるということで、圧倒的な一位を作るということだ。私は人に優劣をあまりつけたくはない。もちろん私にだって、少なからずそういう目はあると思う。でも、同級生や歳が一つや二つ違うような子にはその目を向けたくなかった。
 みんな仲良し、みんな平等、それでいいじゃん。
 でも最近、モテたい、と思うようになった。それはたくさんの人に、じゃなくてたった一人の人にだ。
 カシオ君。その名前を何度呼んだか分からなかった。もちろん学校では特定の男子の名前を出したりしないから、主に自室のベッドの上でだ。たいていその声を聞いてくれるのは私の一番のクマぬいぐるみ。ボロボロになってところどころほつれている。小さい頃自分で直すと言って、結果余計ボロボロに見えるようになった下手な裁縫の痕。わたが小さくなったのか、顔が簡単に凹む。枕元でいつも座ったまま項垂れているクマのぬいぐるみ。私はいつもそれを見ながら話すと、クマのポーズと同じように落ち込んでしまいそうだったから、胸に抱いて話した。クマの名前は『ダイゴロウ』なんでこの名前をつけたのか私は覚えていないんだけど、お母さんが言うには小さい頃犬が出ているテレビを見ていて、私が欲しがったらしい。そのときに映っていた犬の名前がダイゴロウだったのだ。
 なにかツラいことや楽しいことがあるたびに私はダイゴロウの名前を呼んで話しかけた。それこそ数えきれない。でもこの一週間でカシオ君を呼んだ回数が、ものすごい追い上げを見せている。数年のダイゴロウに一週間のカシオ君がすごい勢いで迫ってきている。私は実際に数えたわけじゃないけど、一日に名前を呼ぶ比率で言えば、カシオ君の圧勝だ。
 彼を好きになったのは、休むより少し前のこと。私はとある男の子に告白された。私はもちろんフッた。なんてったって私は小学生だ。まだ付き合うなんてよくわからないし、君との時間は楽しいからこのままがいい、と。そしたらその翌日の帰り道、急に年上の男の人に腕を取られて人気のない公園のトイレ裏に連れ込まれた。
 小学生の私にでも分かる。これはマズい、と。男は学生服を着ていて、体つきは明らかに運動部のそれだ。力が強くて振り解けない。
 でも、男の人は私に乱暴したりはしなかった。腕を掴む手を緩め、でも私が振り解けないほどの力を残したまま、「どうしてうちの弟をフッたんだ」と聞いてきた。
 私は弟に告げたことと同じことを話す。他の女子や、フッた男の子の友達なんかに、フラれた本人が話すとき、少なくとも自分の都合の良いように話すときがある。それで私はひどい人ということになってしまうのだ。
 学生服の男もそれは同様で、
「聞いてた話と違う」と言って、自分の弟の近況を話し始めた。昔は引っ込み思案だったとかビビりだったとか、それで自分がよくビビられせて楽しんでいたとかいう脱線もときどきあった。
「でも、最近は楽しそうでな。絶対に兄ちゃんのビビらせ攻撃には負けない! とか言い出すんだ。理由を聞いたら好きな子ができたとか言ってな。兄ちゃんは嬉しかったなぁ。少し寂しくもあったけど、男になっていく弟が誇らしかったよ」そういう学生服の男の顔は誇らしげだった。
 しばらく彼は黙る。私を睨みつけながら「でもな」と脅しをきかすような声に変わった。
「お前にフラれたっていって帰ってきてからはよ。ひどくなったんだ。前よりももっとダメなやつになっちまった。お前のせいで、一人の男が男になる瞬間を失ったんだ。どう責任とってくれるんだコラァ!」怒号で飛んだ唾が顔にかかる。それを早く拭いたいけど、両手は彼に握られている。肩幅に開かれた足を見て、金的でもしようかと思ったけど、そんなことをしてしまえば、私のウワサは一気に広まる。不良撃退の方ならいいけど、クラスメイトのお兄ちゃんともなれば、その弟から悪いウワサを流される可能性だってある。
 怖かった。これだったら殴られる方がマシだ。怒声を真正面から受けたら体は力が入って動きづらくなる。さらに腕を掴まれているせいで、その力が出ていく場所がない。そうなると強張った体は恐怖心を心の奥底から一番表に簡単に持ってくる。ついには声も出なくなってしまったのに、おんなことも知らず学生服の男は「なんとか言えや、オラァ!」と声を荒げ続けている。
 またもや飛んでくる唾に目を閉じた、その瞬間だった。
「話は聞かせてもらったよ」言葉は丁寧なのに、少し高い声のせいでどこか子どもぽい感じがする。目を開くと、そこにいたのがカシオ君だった。なぜかトイレの上、男の子マークのちょうど真上で腕を組んで仁王立ち。
「まずは手を離そうか」
 彼はそう言って、トイレの屋根から飛び降りる。確実に高さは彼以上あるのに、彼は地面についた後受け身もなく、スッと立ち上がった。
 さすがにその登場に面食らった不良だったけど、すぐにそれまでの調子を取り戻して「お前に関係ないだろ」と言う。
「関係は、これからあるかもしれないじゃん」
 その言葉に胸が脈打った。今思えば、これが彼に私が恋した瞬間だったと思う。
「なに言ってんだお前、ごちゃごちゃうるせぇな」
「それは僕のセリフだよ」
 カシオ君はそう言って一歩二歩三歩とこちらに近づいてくる。
「君がいっぱい喋るせいで、情報が偏っちゃうじゃないか。小池さんの意見も聞かないとフェアじゃないよ。それに、君が大きい声で怒ってるせいで、彼女、怖くて喋れなくなってるじゃんか」
「う、うるせぇ」
 学生服の男は少したじろいだ。私は素直にすごい、と思った。身長も体の大きさも年齢も全然違う、それも自分が劣っている方だというのに、彼は臆することなく堂々と近づいてくる。その堂々とした態度にこいつは何か武器でも持っているんじゃないかといった恐怖を感じるのだ。
 しかしカシオ君の両手には何もない。半袖半ズボンという軽装で、きちんと両手を振って近づいてきて、しかもその両手は開かれていて、武器は何も持っていないことをこれでもかと示している。
 それを見て学生服の男は勝てると踏んだのか、思い切り腕を振り上げて下ろした。でも、それはカシオ君には当たらず、学生服の男は反動でよろけた。カシオ君はまるで最初からそんな男なんていなくて道偶然会ったみたいに、手を振りながら小走りで近寄ってくる。夕焼けが彼の後ろにあって、私には後光がさして見えた。
 夕焼けと彼の間に一つの黒い影が立ち上がる。学生服の男だ。
「お前、舐めてんじゃねぇぞ。俺は女だって容赦しねぇからな」
「それは嘘だね」カシオ君は彼に背を向けたまま言った。
「なんだと」
「だって君は優しいじゃないか」彼は決め台詞を言うみたいに学生服の男を振り返りながら言う。
「いや、優しすぎるんだよね」
 男はまさかの発言に一瞬固まる。
「お、お前こそバカなこと言ってんじゃねぇよ」
「優しすぎるから、弟を傷つけた女の子が許せないんだよね。でも女の子に乱暴をすることはけっしてしない。それをしたら弟君が悲しむのがわかっているから。惜しいのは、君が大きな体と声をしていることを忘れていたことだよ。体格差も年齢も性別も違うのに、あんな態度でこられちゃフェアじゃない。話し合いはいつだってフェアに行われるべきなんだよ」
「ふ、フェアっつったって、最初に弟を傷つけたのはそこの女だろ」
「そこもちょっと違うんだよね。正しくは、彼女が弟を傷つけたんじゃなくて、弟が勝手に傷ついただけ」
「で、でも誰だってあんな言い方されちゃ……」
「どんな言い方?」
「小学生だから付き合えない、ってあんまりだろ! よく女の子は年上が好きだとかは言うけどさ、それって相手をステータスでしか見てないだろうが。ちゃんと弟のことをかんがえたら、そんな言い方しないだろ普通!」
 実際とは違うように伝わっているんだとは思っていたけど、まさかここまで意味が違うように伝わっているとは思わなくて驚いた。でもそれよりも「うん」とカシオ君が頷いたことの方が驚きだった。私の潔白を表明してくれるんだと思ったら、相手の言葉に頷いたのだ。私はショックだった。
「普通、ならね」カシオ君はそう言うと、小さなUSBメモリをポケットから取り出した。それは普通のUSBメモリとは違って、表面に小さな画面や側面にボタンが付いているものだ。そのいくつかを押すと音声が流れる。
 流れたのは私がフッた子の声、その声は必死で、でもどこか期待もしているような声。私はそれでわかった。何度だってこんな感じの声は聞いてきたからだ。
 これは私が彼をフッた日の音声だ。
 しばらく彼の演説じみた、いや演説と呼ぶにはちょっとたどたどしすぎる告白が流れる。学生服の男はうんうんと腕を組んで頷きながらそれを聞いている。
 弟君の声が止む。しばらくの沈黙のあと、私の声が続いた。
「まずは、ありがとう。……でも、ごめんなさい。私、まだ小学生だし、まだ付き合うなんてよくわからない。だから付き合えないんだ。でも、君が嫌いなわけじゃないよ。最近、よく話しかけてくれるよね。他の人とはあんまりできないようなロボットの話とかできるから、君との時間は楽しい。だからこのままじゃ、ダメかな?」
 私は恥ずかしくなった。私は自分の声の録音を初めて聞いた。そりゃビデオカメラとかに小さい頃とか学芸会の演劇で喋っているものは残っているけど、小学校高学年になってからのものは初めてだ。それも、自分がフッているところなんて聞いたことがない。
 まず感謝をする。そして少し間をおいてことわる。その後に理由を告げるけど、嫌いではないことはちゃんと言う。そしてその子のことを考えて、一緒に過ごした時間のことを話す。最後にこのままがいいと言う。これは私がよくやるパターンだ。
 でも、これは仕方のないことだった。だって告白されるのはうれしい。でも、それを受けてしまえば私は彼のものになってしまって、他の子と差をつけてしまうことになる。それは嫌だったし、かといって雑にフってしまえば、面倒なことになる。。フることで嫌われたり、そこまでじゃなくても距離を置かれたり、それによって他の子にまで影響が及ぶのが嫌だというのはもちろんあるけど、弟君とは他の人とはあまりできないロボットの話ができるのが楽しいのだって事実だ。
 でも録音を聞かれると、パターンでフッていることがバレているのではないかと思ってしまう。これが露呈すれば、かつてフってきた子達が傷つくだろうし、女の子たちは私を生意気だって思うだろう。
「……分かった。ごめんね」
「ううん、私こそ」
 そこで録音は終わった。
「は、話と違うじゃねぇか! 弟よ!」
「そうなんだよ! もし小池さんが、あなたの言うとおりに弟さんをフッていたのだとしたら、それはおかしい。でも、そうじゃないんだ」
「す、すまなかった!」
 学生服の男はその場で土下座をした。
 そうしてこの事件は解決したのだった。
 でも、私にはいくつかの疑問点があった。まず、なんで録音した音声があったのか、そしてどうして私を助けにきてくれたのか。助けに来てくれた方は、もしかして私のことがきになっているのかというロマンスな想像もできたけど、録音はちょっと犯罪めいたものを感じる。
 だから私は聞いてみた。けど、「あー、偶然スイッチが入ったまま教室に置き忘れてただけだよ」と満面の笑顔で言われて、あっ、好きと確信してしまっただけだった。
 しかし問題はまだある。私が人を好きになる。ということはつまり、私はカシオ君だけ特別視して、それ以外の子と区別してしまう。いや、区別してほしい、特別視してほしいと願うことだ。これは今まで私が告白を断ってきた理由だ。それを自分から覆してしまうのは嫌だったし、他の人に申し訳がなかった。
 しかもそんなことを思っているタイミングでカシオ君に放課後に教室に呼び出され、掃除用具入れに隠れさせられ、仲の良かった男の子二人の告白を聞かされることになり、私は思わず逃げ出してしまった。
 あの二人も私にこんな気持ちを私に抱いているんだ。そう思ったら、今まで通りフることなんてできるはずがなかった。
 その日から私は学校に行っていない。この答えが出るまでは、私は気まずくて学校なんて行けるはずがなかった。
「ダイゴロウ……」とクマのぬいぐるみをもう一度抱きしめる。そしてその後頭部に唇をうずめて「カシオ君」と呟いた。クマのぬいぐるみの後頭部が思い切り凹んでいた。